私の時間
(初出:2007年)
フラグをえらい勢いで立てまくりな主人公ですわ。
扉の前に『臨時休業』と書かれたプレートが出されている、無人の喫茶店。
マスターもいない小さな店内を、夏目准は一人所狭しと駆け回っていた。
「はぁ……」
ふと作業の手を休めると、小さく溜息を漏らす。見回した店内は、金銀色とりどりのモールや星飾りで鮮やかにメイクアップされていた。全て、明後日に迫ったクリスマスの為だ。
クリスマスパーティでもしないか――そんなことを突然言い出したのは、すっかり町の一員として認められつつあった風来坊、九堂伊太郎だった。ジャッジメントとのゴタゴタも、もうすぐ決着が付く。そうすれば、彼がこの町にいる理由は無くなる。だから、最後にみんなで思い出に残ることをしよう。彼がそこまで考えていたかどうかは分からなかったが、准は二つ返事で賛成した。
「でも、なんで私が一人で準備しなくちゃいけないのよ」
彼がマスターにパーティの件を打診したところ、穏やかな微笑みと共に了承された。準備には念を入れなくてはね、と当日と前日の二日間も貸切にしてくれたのだ。それがちょうど、一週間前の話である。
そしてそれ以来、風来坊は喫茶店に姿を見せていない。マスターは料理担当を一任しているため、准はたった一人で店内の飾り付けをしていた。維織は言うまでもなく自宅待機だ。
――今度、コーヒーに何か混ぜてやろうかしら。
彼がコーヒーを噴き出し、むせ返る姿を想像しながら溜飲を下げる。同時に、胸がキュッと締め付けられるように痛んだ。
カウンターの内側に張り付けられた、客席からは見えない日捲りカレンダーに視線を向ける。日付は十二月の半ばで止まっていた。捲る担当はマスターではなく准だった。捲るたびに彼と別れる日が近付くと考えると、自然とその行為は疎遠になっていた。
いつも彼が座る席を見る。その前に座る維織の姿も、最近は見かけていない。二人でどこか出かけたりしているのだろうか――また、胸が痛む。今度は針で刺されたかのような鋭い痛みだった。
恋わずらい。
自分でも信じ難かった。
いつからだろう、こんなに彼の事を意識するようになったのは。
出会いから今まで、ロマンチックな事なんて一度も無かったというのに。
愛想は決して良くない。態度は厚かましいし図々しい。おまけに素寒貧と、惹かれるところなんて何一つとしてない。見た目はそこまで悪くないかな、と准はこっそり思っていたが。
伝えたい気持ちがある。だが、ロマンとは程遠い騒がしい日々と、もうすぐ彼がいなくなってしまうという寂寥感がたった一歩踏み出すことを妨げている。
それならそれで、いいじゃないか。心のどこかに、この思いを自己完結させようとする自分がいた。
時間が止まることを望んだ。だが少女の願いなど届くはずも無く、別れの日は呆れかえるほど無味乾燥な音を立てながら、しかし確実に近付いて来る。今はただ、精一杯目を背けているだけに過ぎなかった。
彼の特等席、今は無人の椅子をそっと撫で、座った。この店で一番いい景色の見える席。アーケードの隙間から遠く山を仰ぎ、空を覗くことができるベスト・ポジションだった。束縛されることが嫌いな彼は、この席に好んで座り、よくぼんやりと空や道往く人々を眺めていた。彼と同じように窓の外を見ると、夕焼けの残滓を微かに滲ませたような昏い色を湛えた空が黙り込んでいた。
暗くなる時間。別れの時間――ぽつりと、口から言葉が漏れ出た。
「そろそろ、諦めなきゃダメだよね」
人の小さな願いなど無視して流れ続ける時間への、ささやかな抵抗。
カレンダーを止めて、せめて自分の中だけでは時間を止めていたかった。
だが、それももう終わりだ。
自分を元気付けるように、軽く頬を叩いた。そしてカウンター裏へと駆け込み、カレンダーの前に立つ。今日までの分を掴んだ。胸がズキズキと痛む。でも、時間を動かさなくてはいけない。
その時、店内の一角に鎮座していた大きな振り子時計が低く鳴り響いた。どきりと、心臓が大きく脈打つ。准はカレンダーに手をかけたまま、しばらく呆然と時計を見ていた。ただそれだけのことだったのに、鐘が夕刻を告げ終わったあと、もう准にはたった数枚の紙を引きちぎることができなくなっていた。
力なく指がカレンダーから剥がれ落ちてゆく。
狭い店内にたった一人のメイドは、どうすればいいのか分からなかった。
カランコロンと来客を知らせるカウベルが鳴る。
はっと我に返ると、准は営業用のスマイルを作り上げた。
「申し訳ございません、ご主人様。本日当店は――」
「よっ、准。いい感じになってるな」
『臨時休業』のプレートを無視して入ってきた図々しい男が、片手を挙げて満足そうに店内を見回していた。自動運転対応の営業用思考回路が一気に崩れる。准は慌てて赤く火照った顔を傍にあった銀トレイで隠した。
「イタローさん! ど、どうしたの?」
「様子見だ。准が仕事をサボってないか確認に来た……おお、思ったより本格的だな」
窓枠に沿ってデコレートされた赤と緑のモールを指先でいじりながら、男は目を丸くしていた。
「サボって……って、そもそも提案したのはアンタだよね?」
「そうだったな。でも、メイドはご主人様の為に働くもんだろ?」
悪びれた様子無く、屈託の無い笑みを浮かべる伊太郎。いつもならば反撃の手法がいくらでも思い浮かぶのに、今日に限って言い返す言葉が何も思いつかず、准は金魚のように口をパクパクと動かすことしかできなかった。
伊太郎も違和感を覚えたのか、小首を傾げ髪を掻くと、気を取り直すように一つ咳払いをした。
「まあ、それは冗談として。ほれ、プレゼントだ」
一張羅のマントの下から伸びた手の上に、淡い水色のマフラーが乗っていた。
准がぽかんと口を開けたまま動けずにいると、伊太郎は拗ねたように唇を尖らせた。
「なんだよ、その顔。確かにあんまり上手くはできなかったけどな、ちゃんと温かいんだぜ、これ――ほれ」
「あ――」
マフラーが首に巻かれる。近くで見ると、ラインはガタガタでところどころ既にほつれが生じている。お世辞にも上手でオシャレとは言い難い。
でも。
「あったかい……」
「だろ? 苦労したんだぜ。貴子ちゃんのお父さんに給料前借りして、維織さんにやたら高い毛糸を買ってもらって、奈津姫さんに作り方教わって――本当はもっと早く終わる予定だったんだけど、ギリギリになっちゃったな。野球の練習もサボったし、権田に怒られなけりゃいいんだけど」
「で、でも、どうして?」
「ん? そりゃ、これから寒くなるからな。マフラーじゃダメだったか?」
ブンブンと首を横に振る。聞きたいことはそうではなかった。
「そうじゃなくて、どうして私に、ってこと」
「そりゃ、今日は准の誕生日だからだろ。違ったっけ?」
反射的に、数日前で止まったままのカレンダーを見た。クリスマスが明後日ということは、今日は二十三日。
そうだった。自分でもすっかり失念していた。
「合ってる……じゃ、じゃあ、これって誕生日プレゼント?」
「そういうことだな。大事にしろよ、俺の一週間の時間と稼ぎの集大成だ」
人の誕生日だというのに、とてもふてぶてしい。だが同時に、胸の中を何とも形容しがたい感情が満たしてゆくのを感じた。
なんてことだ。私が自分の時間を止めている間に、この人は一週間も先のことをずっと考えていたのだ――品の良いハーブティーを口にした時のように、爽やかな風が喉元を吹き抜けていくような気がした。
マフラーに顔を埋めた。見た目に反して肌触りはとても滑らかだった。
毛糸の温もり、彼の温もり。嬉しくてにやけてしまう顔を隠した。
「ありがと……イタローさん」
「おう。おめでとうな、准。にしても、今日はやけに素直だな。ちょっと不気味だぞ」
爽やかな風がピタリと止まった。
こういうことを言うヤツなのだ、この男は!
一人きりの誕生日に、こんな雰囲気でプレゼントを貰ったときのオトメゴコロなんて、毛頭理解できない人間なのだ!
それでも、そんなところまでひっくるめて――むしろ、そんなところが。
准はマフラーから顔を離し、ニヤリと口元だけでほくそ笑んだ。
「と・こ・ろ・で。可愛いメイドたった一人で準備させてくれたお礼に、明後日はスペシャルなコーヒーを淹れるから。楽しみにしててくださいね、ご主人様っ」
照れ隠し。抑え切れない喜びが自然と気分を高揚させる。
やっぱりかと肩を落とす伊太郎を尻目に、准はふと思い出しカウンターの裏へと回った。初旬過ぎで止まったままのカレンダーを一気に数枚破り捨てた。日にちは現実よりも二日進み、早くもクリスマスになってしまった。
やっちゃった――すぐに思い直し、ペロリと舌を出す――これはこれでいいじゃないか。
「ね、イタローさん」
「なんだよ……」
大げさにもまだヘコんだままでいた男の隣に並んだ。
「パーティの後さ、ちょっと時間もらってもいいかな?」
「時間? 別にいいけど、何する気だ。まさか、暗殺――」
「違うわよ。コ・ク・ハ・クっ」
敢えて正直に言ったてみせた。今度は伊太郎がぽかんと口を開ける番だった。「覚悟しててよね」と背伸びして耳元で囁くと、准は作業途中だった飾り付けに戻った。こうなったら、一層気合を入れなくてはいけない。
「コクハク――告白? ちょっと待て、何をコクハクする気だこの暗黒メイドっ。お前が言うと告発か告訴のような気がしてならないぞ」
「それはお楽しみでーす。そんなことより、手伝ってよイタローさん」
「あ、ああ……そうだな」
腑に落ちない表情のまま、伊太郎が近寄ってくる。
ささやかな仕返しだ。私が悩んだ一週間と比べたら、二日間なんて可愛いものじゃないか。
せいぜいこの朴念仁にも悩んでもらおう。
動き出した時間の中で、准は悪戯っぽく微笑んだ。