ほんのりまろびね

パワプロクンポケット(パワポケ)の二次創作小説(SS)をぼちぼち書いてます。

現実と虚構のあいだ

(初出:2010年)

 

現時点での最新作ですね。

現代社会の闇と救済を描いたヒューマンエッセイ。ではない。

 

 

 

《ウズキさんがログインしました》
 SE音と同時に、短い定型文が流れ出てくる。ディスプレイには現実を模して造られたグラウンドが広がっている。何人かのチームメイトは既にログインしていたようで、ちらほらとキャッチボールやランニングなど簡単な練習をこなしているのが見えた。
『お仕事お疲れ様ですニャ☆』
『よぉ、今日は早いな』
 サイデンとBARUが真っ先に話しかけてくる。渦木は時折キーボードに目を落としながら、カタカタと一定のリズムで返事を打ち込んでいった。ツナミネットへの張り込み調査が始まってからしばらく経つが、未だに文字を打つのは確認しながらでないと間違いが多い。
『はい。早番でしたので。みなさんもお早いですね』
 送信したあとで、しまった、と眉をひそめた。案の定、不満げなテキストがあっという間に返ってくる。
『まあ、俺たちは毎日が早番だからな……』
『ていうか、毎日が日曜日?』
 なぜ彼らは、こんなにも早く文字を打つことができるのだろうか。反射神経や動体視力なら負ける気はしない。やはり、後年に生まれた人間とは脳のつくりが根本的に異なるのだろうか――そんなことを考えながら、渦木のキーボードとの格闘は続く。
『いえ、決してお二人を貶しているわけではありません』
『あ、ウズキさん。こんばんは』
 メッセージが長くなりそうなので一度送信したところで、ミーナが会話に入り込んできた。彼女もまた自分と同じで、打つのに時間がかかったのだろうか。少し考えて、彼女が記者であったことを思い出した。きっとタイミングを見計らっていたのだろうと結論付け、こちらからも挨拶をしようと思った矢先、他のメンバーも続々とチャットに参加してきた。
『おお、ウズキではないか。良きに計らうのだぞ』
『同志ウズキ! 決戦は近いぞ、さっさと持ち場に移れ!』
『本戦まであと少しだからね。歌も踊りも気合い入れてくよ!』
『はぁ……アンタは真面目に練習しなさいよ』
 よくもまあ、ここまで個性的な連中が揃ったものだ。渦木はしみじみとこれまでの経緯を噛み締めながら、ネクタイを緩めた。そしてふと参加者の一覧に目を移し、おや、と小さく口の中でつぶやいた。
『二神くんはまだいないのですか?』
『そういえば……今日はまだ見てないですね』
 ミーナから真っ先に返事がきた。他のメンバーたちも口々に、そういえば、どうしたんだろう、と続く。キャプテンの二神真は無職の割には忙しそうだが、渦木がログインする時間には大抵既に練習をはじめている。
『珍しいこともあるものですね』
『リアルの方で用事でもあったのかニャ? リア充ニャ★』
『まあ、そのうち来るだろ』
『そうとなればキャッチボールだ、ウズキ。ゼェット!』
 ゼットに促されるままに、渦木も練習を始めることにした。ほどなくして、アッシュとELがログインする。挨拶を交わしながら、彼もそのうちやってくるだろうと、このときはまだぼんやりと考えていた。
 しかし、練習を終え解散する時間になるまで、ついに彼が姿を現すことは無かった。
『どうしたんでしょう……何かあったんでしょうか』
 ミーナが心配そうに呟く。同感だった。もしや実働部隊が手を出したのでは――最悪の事態が脳裏をよぎった。
『風邪でもひいたのだろうか……』
 考えていることこそ違えど、レンも気にかけているようだった。ほぼ毎日ここに顔を出していた人間が休むのだから、ムリもないだろう。
『ふむ、直接コンタクトを取ろうとしたのだが……ダメだな、全然応答がない』
 ELの言葉を受け、渦木はますます胸中の不安が色濃くなってゆくのを感じた。かくなるうえは、彼のアパートに赴いて安否を確かめようか――緩めたネクタイをもう一度締めなおそうとしたとき、新しいコメントを受信した。
『あ。じゃあボク隣の部屋だし、様子を見てくるよ!』
 そんな重大な情報をそんな簡単にバラしていいんだろうか。ただ今は二神の無事の方が気がかりだったので、渦木はそのまま行かせることにした。今度、ご挨拶でもした方がいいんだろうか。スターはかなり変わった人物のようだが、BARUのように現実ではある程度の常識に則って行動できる人間なのだろうか――そんなことを考えながら、渦木はぼんやりとディスプレイを見つめた。他のメンバーは渦木とミーナほど憂慮していないのか、思い思いの趣味の会話を楽しんでいる。
 ミーナを除くメンバーは、みんな彼がどこからか勧誘してきたものだ。渦木が加入した頃は4人しか人間はおらず、ほとんどのポジションはNPCに頼っていたというのに、今ではすべてのポジションが埋まっただけでなく、控えのピッチャーまでいる。お互い顔も名前も知らず、しかし一つの目的に向かってこうして集っている。インターネットでは当たり前と言われるかもしれないが、きっとそうではない。仮に自分が二神の立場だったら、ほとんど、いやもしかしたら自分以外の全員がNPCの状態で挑むことになっていたかもしれない。彼からひしひしと感じる人を惹きつける才能は恐らく本物なのだ。現にこうして、練習は終わったというのに誰一人ログアウトすることなく、スターの報告を待っているのだから。しかし、そんな彼の才能をもってしても、就職難の今という時代の中では翻弄されてしまう。辛い社会だ――渦木は天を仰ぎ、深く息を吐いた。
『やあ、みんな。ただいま!』
 スターのメッセージに心躍らせたのは、渦木だけではなかっただろう。時計を見ると十数分が経過していた。渦木が文字を打ち込むよりも早く、他の仲間たちが次々にチャット欄を埋めていった。
『お。遅かったな』
『どうだったニャ?』
『こんなにかかるとは思わなかったな。何かあったのか?』
『ご無事でしたか?』
『余は待ちくたびれたぞ……』
『早くしてくれ、スター』
『ゼットの助けは必要か?』
『どうだったのよ、ねぇ!』
『遅いぜスター!』
『スター同志、早急に状況を報告してくれ!』
『二神さんはおひとりですよね? 風邪だったら大変ですね……』
 思い思いのコメントからややあって、スターからの続報が表示された。
『ええと、その。とりあえず、彼は元気だったよ。風邪とかじゃない』
『そうか、良かった……』
 真っ先に反応したのはレンだった。ひとまずは一安心、といったところだろう。しかしそれなら、どうして在宅しているにもかかわらず姿を見せなかったのか。
『なら、どうしてアイツは来ないの?』
 ピンクが疑問を投げかける。きっと、全員が同じ気持ちだろう。
『その……なんというか、ボクにもよく分からないんだけど』
 スターの歯切れはどこまでも悪い。じれったさに体を小刻みに揺すっている自分に気が付き、渦木は軽く目を閉じ一呼吸した。落ち着け、元気なら大丈夫じゃないか――言い聞かせるように拳を軽く握り、目を開いた。
『彼は――ギャルゲーにはまってしまった、らしい』
「はぁ……?」
 チャットではなく、思わず声が漏れてしまっていた。渦木ははっと息を呑み、辺りを見回した。ここは個室の漫画喫茶なので周囲の目を気にする必要はないが、それにしても思ったより大きな声が出てしまった。それほどまでに、想定外の答えだった。
『ギャルゲー……とは?』
 ミーナの困惑は、文字からも簡単に読み取ることができた。
『かわいい女の子がたくさん出てきて、自分のことを好きになってくれるゲームだニャ★ しかしまた中途半端だニャ……どうせならR』
『そこまでだ、BARU。にしても、ギャルゲーとは……』
 そこまで言って、サイデンも黙ってしまった。誰も何も発言しないまま、気まずい空気が流れる。
 あの野球一筋の若者が、この時期に来ていきなり『ギャルゲー』とくれば、当然と言えば当然だ。
『いや、ボクも説得しようとしたんだけどね。全然聞いてもらえなくて……』
『わかりました。私が明日、彼のもとに行ってきます』
 渦木はこめかみに鈍痛を覚えながら打ち込んだ。直接話した方が早いだろう。彼に何があったのかは知らないが、元の野球青年に戻ってくれないことにはこの先の試合を戦い抜くことは難しい。
『ほ、ホントかい? ウズキくん、そうしてもらえると助かるよ! じゃ、じゃあボクは歌と踊りの練習もあるし、このあたりでね』
 逃げるようにログアウトしたスターを皮切りに、皆それぞれ渦木に頼むぞ、まかせた、などと声をかけ去って行く。ゼット、パカ、レン、ピンクらが無言だったことが気になったが、渦木も今日はこのままログアウトすることにした。
 ブラウザを閉じ、背もたれに体を預けた。目元を親指と人差し指でぐっと押さえる。肩もかなり凝っているようで、軽く腕を回しただけでバキバキと音が鳴った。少し早いが、明日に備えて今日はもう休むことにしよう――ふっと笑みが漏れた。何を仰々しい。ちょっと話をしにいくだけじゃないか。
 靴を脱ぎリクライニングを倒した。ネットカフェの椅子は座り心地が良い。全身の疲れがじんわりと溶けるように広がってゆく。これなら夢を見ることなく眠りにつけそうだった。
 そう、このときはまだ――油断していたのだ。

 

 

 

 

 ジンジンと容赦なく日光が突き刺さってくる。聞こえるのはクーラーの室外機の音とセミの声ばかりだ。渦木は拭いても拭いても滲んでくる汗に辟易しながら、二神の部屋のドアの前へとたどり着いた。両隣のどちらかがスターの家なのだと考えると不思議な気分に囚われる。初めてこの扉をくぐったときは、完全に彼をクロだと食ってかかっていた。今となってはいい思い出だ。彼にとってはとんでもないことかもしれないが。
「二神さん。いらっしゃいますか」
 ドアをノックして、中の音に耳をそばだてる。深く染みついた長年の癖だった。中で人が動く気配は無い。留守だろうか、と思った矢先、気だるげな声が返ってきた。
「開いてますよ~」
 普段の彼とは思えない、なんとも投げやりなものだった。ノブに手をかけたとき、思わず懐の拳銃に伸びてしまった右手を所在なさげに宙に放り、扉を開いた。
「む……」
 まとわりついてくるような、ねっとりとした部屋の空気に思わず顔をしかめた。冷房が効いているのか、気温自体は外に比べれば快適そのものだ。しかし、臭気をともなって漂う空気は不快そのものだった。恐らく、しばらくの間換気をしていないのだろう。渦木は思わず台所の換気扇を回した。窓も開けようかと考えたところで、渦木は自分が家政婦としてここに来たわけではないことを思い出した。
 二神青年はパソコンの前に鎮座していた。口はだらしなく開き、どんよりとした目は一心不乱にディスプレイを見つめている。正確には、画面の中の美少女のイラストを見つめていた。渦木はため息を吐きながら、二神の横に腰かけた。
「スターさんから伺いましたよ。ギャルゲーにはまっているとか」
 反応は無い。カチ、カチというクリック音とクーラーの静かな稼働音だけが渦木の耳に届いた。
「あなたの趣味趣向に口を出すつもりはありませんが。野球のこと、忘れてはいませんか」
 少し念を押すように語気を強めたが、やはり反応はなかった。
「二神さん。本戦まであと何日か、ご存知で――」
『そんな……いいんだよ。わたし、二神くんにだったら、どんなことされても……』
 スピーカーから、妙に脳に響く高い声が割って入ってきた。どうやら画面内の女の子のセリフのようだ。『二神くん』のくだりは発音できないためか『あなた』になっていたが、それでも高威力なのか彼はより一層だらしなく口を開いた。
「へへへ……さおりちゃんはかわいいなぁ……ねぇ、渦木さん」
「えっ。あ、はぁ……」
 すっかり眼中にないと思っていたため、突然の呼びかけに思わずびくりと体を震わせてしまった。彼の目は未だにディスプレイを捉えたままであったが、デレデレと締まりのなかった相貌は影をひそめている。
「実は昨日、バイトをクビになったんですよ」
「それは……残念でしたね」
「コンビニだったんですけどね、こっちに来てからはずっと勤めてたんですよ。それが、あっさりとクビで。理由、なんだと思います?」
「それはやはり、採算が合わなくなったからですか?」
「ははは、それならまだ納得できたんですけどね……見ちゃったんですよ、俺」
 そう話す間も、断続的にクリック音とセリフとが混ざる。渦木はなるべく頭の中からシャットアウトするように心がけながら、無言で次を促した。
「俺が出ていくときにね、事務所の前で待ってる子がいたんです。制服着たかわいい女の子。わかりますか、渦木さん。JKですよJK」
「じぇ、じぇいけー……」
「その子がね、俺と入れ替わるように入って行って。ちょっと様子見てたんですけど、どうやら新規採用されたみたいですね。どういうことかわかりますか、渦木さん。俺はその子の代わりに捨てられたんですよ」
「は、はぁ……それは確かに、ひどい話です。不当解雇として――」
「話はそれだけじゃないんですよ」
 二神青年が続けた。心なし、声のトーンが低くなったように感じられた。
「ふらっと乗ったバスで痴漢と間違えられたんです。俺が無職で暗い顔をしてるからって。クソッ!」
 気持ちの高ぶりを現すかのように、クリック音が不意に大きくなった。
「気持ちはわかりますが、落ち着いてください」
「幸いにも誤解とわかってはもらえましたけど……解放されたのは10時過ぎですよ。3時間も警察に軟禁されてたんです。おまけに、帰りしなに酔っ払いに絡まれるし」
「ま、まだ続くんですか?」
「いつの間にか財布はなくなってるし、アパートの前で犬のウンコ踏むし、机の角に足の小指をぶつけるし、お湯だと思ったシャワーは真水だったし、女の子だと思って仲良くしてたネットの知り合いが実は男だってカミングアウトしてくるし……ううっ」
 彼はいつの間にか俯き小刻みに肩を震わせていた。マウスを持っていた手は目頭を押さえている。渦木はどう声をかけていいのかわからなかった。この静けさになってやっと、クーラーの駆動音と共に小さくBGMが流れているのが聞こえた。ディスプレイの中の女の子は、屈託のない笑顔で二神青年を見つめている。
「俺はもう、この社会にうんざりしたんです」
 半分は社会と関係のない些末な問題だったが、今ツッコミを入れる勇気は渦木には無かった。
「そんなときですよ。開田くんの棚から、彼女を見つけたのは」
 音が鳴りそうなほど勢いよく顔をあげ、画面上の女の子と正対する。
「彼女と出会って、ようやくわかったんです。これこそ癒し。これこそがこの無間地獄のような社会に咲く一輪の華――わかりますか、渦木さん!」
 彼はぐっと拳を握りこんで力説したが、相変わらず目はパソコンに向かったままだった。渦木は若干の片頭痛を感じつつも、ここで諦めてはいけないと自分を鼓舞しなんとか笑顔をつくった。
「はぁ、しかし二神さん……つかぬ事を伺いますが。それ、二次元――」
「その通りです、渦木さん。ですが、それがなんだと言うのですか」
「は」
「次元の壁がなんですか渦木さん。世の中にはありとあらゆる愛が存在しています。男同士でも女同士でも、相手が老人であっても赤ん坊であっても、生きてようと死んでいようと、人だろうと獣だろうと愛する人間はいるんです。愛の形は人の数だけある。そう、いまは相互理解の大恋愛時代! 次元が違うくらいで恋愛の対象から外れたりはしませんよ、はははっ」
 朗らかに笑う青年に、軽い恐怖すら覚えた。目の奥を小突くような片頭痛が強まっていくのを感じる。きっとクーラーの当たりすぎだろう――いち早く退散することを心に決め、渦木は居住まいを正した。
「わかりました。あなたが二次元を」
「渦木さん。出来れば二次元ではなく、さおりちゃん、と」
「は――」
「あなただって、そこのニンゲン、なんて呼ばれたくないでしょう?」
 渦木は深くため息をついた――大丈夫、このくらいのストレスなら仕事場でも家庭でもいくらでも耐えてきたではないか。
「失礼。二神さんがさおりさんを愛しているのはわかりました。しかし、本戦が近いことくらいわかっているでしょう? 今は練習に専念していただけませんか」
「ええー、嫌です」
 即答だった。思わず膝の上において手がずるりと滑り落ちそうになる。渦木はひとつ咳払いをしながら、顔色一つ変えず一心不乱にクリックという単純作業を続ける青年の横顔に語りかけた。
「嫌ですって、そんな――」
「だって、相手は人間じゃないですか。人間は嫌です、みんな自分勝手ですぐに他人を傷つける……その点、彼女は絶対に俺のことを傷つけたりはしませんから」
 開いた口が塞がらないとはこのことだった。あの人当たりのいい青年が、たった数日でここまで打ちのめされるとは。とても自分一人の手には負えそうにない――まずは仲間たちに報告をした方がいいかもしれない。渦木は立ち上がると、今日はここで失礼する、近いうちにまた来るという旨を伝え部屋を出ることにした。ドアから出るときにちらりと彼を見るも、やはりディスプレイを食い入るように見つめるままだった。
 思わぬ長期戦になりそうだ――蒸し暑い大気が、妙に体に馴染むのを感じた。

 

 

 


『――と、いうわけです』
 その日の夜、ツナミネットの野球場で顔を突き合わせた渦木のアバターが、メンバーたちに事情を説明した。文章にしてみるとあまりにも情けない話だ。
『うーん……まさか、二神がそんなことになるとは』
 メンバーの反応は鈍かったが、サイデンの言葉を皮切りにチャットはざわざわと賑わい始めた。
『たしかに。アタシたちならまだしも、二神はそういうのとは一番縁が無いと思ってたニャ』
『ふむ……まあ、こっち側に来るというのなら止めはしないがね』
『へっ、根性が据わってねえヤツだな。世の中もっと不条理なことばっかだぜ!』
『た、たしかに……僕も、就活でもっと嫌な思いをいくらでもしてきましたし』
『でも、ある意味こうなるのが必然だったのかもしれませんね』
 おっ、と小さなつぶやきが漏れる。つらつらと並ぶ不満に異を唱えたのはミーナだった。渦木は慌ててそれまでに自分が書いていた反論のメッセージを消すと、急いで、しかし一文字ずつ確認しながらキーボードを打っていった。
『ええ。私も同意見です。彼は強い精神力を持っているようにも見えますが、彼の本質はその裏側にあるように思います』
『はい。自分ではどうしようもない力で社会的に苦しい立場に立たされて、二回も目の前で人が消えるところを見て……ここまで耐えてきたことに、むしろ驚かされます』
 チャットは再び静かになった。ややあって、続けてミーナが発言した。文字だけの会話だったが、彼女の少しトーンダウンした声が聞こえてくるかのようだった。
『あ、すいません……これじゃ、もう二神さんが復帰しないみたいな言い方でしたね』
『気にするなよ、ミーナさん。それより、対策を考えよう』
『うーん。ボクなら、落ち込んだ時はサバゲーに逃げるけど……』
『それじゃゲームの種類が変わるだけニャ☆ あとシズマ、中の人が見えてるニャ~』
『あ、それじゃあここはボクの歌と踊りで応援してこよう!』
『スターさん、そういうのはいいですから』
『なぜに!?』
 流れる会話を見ながら、渦木は軽く息を吐いた。もしかしなくても、こんな会話に意味はないのかもしれない。深い心の傷を癒すのは難しい。もしその傷に効く薬があるとすれば、それは時間だけだろう――それが渦木の持論だった。
 それ以外に何があるだろうか。愛情? ――渦木は自らの思考を鼻で笑った。愛という言葉は、現実の見えない幸せなロマンチストがエゴイズムを言い換えただけだ。愛情で救えるのはいつだって自分だけだ。
 ここまで考えて、渦木は首を左右に振った。思考回路が良くない。このままだと、考えたくないことまで考えてしまいそうだった。短い断りを打ち込むと、渦木はネットカフェの狭いブースを出て便所へ向かった。
 この日は結局、意見がまとまることなく解散となった。ひとりまたひとりと名簿から名前が消えてゆくなか、サイデンが去り際にぽつりと呟いた。
『やっぱり、二次元から戻ってくるのは、三次元に夢を持たないとムリなんだろうな……じゃ、またな』
 それは誰へのメッセージだったのだろう。渦木は自分も後に続こうとしたとき、昨日から無言だったあの四人がまだログインしたままであることに気がついた。
『みなさんはまだ残っているのですか?』
 メッセージを打ち込むも、何も返ってこない。ネットの接続の問題で、実際にはもうログアウトしているのだろうか。さしたる問題ではないと考え、渦木は終了処置を取るとリクライニングチェアーに身を預けた。

 

 

 

『ねぇ、アンタたち。なんでまだ残ってるのさ』
『おや、それはお互い様というものじゃろう』
『……私は二神に恩がある。彼をなんとか助けたい』
『ゼットはスーパーヒーローだ。困っている者がいたら助ける』
『ふむ、それは名案じゃ。ここは二神のために一肌脱ぐとするかの』
『ひひひひ、一肌脱ぐ!? 王子、何言っちゃってんの!?』
『落ち着け、ピンク。ありきたりな慣用表現だ――慣用表現ですよね?』
『……一肌脱いだあとならゼットも負けない』
『えっ』
『えっ』
『えっ』
『えっ』
『……と、とにかく。アタシだって正義の味方だし、二神を助けるのは当然なんだから。ジャマ、しないでよね』
『ふふん。邪魔とは笑止じゃな。庶民は金持ちのすることを黙って見ておれ』
『ゼットも負けぬ!』
『わ、私こそ!』
 こんな会話がなされていたことなど、悪夢にうなされていた渦木には知る由もない。

 

 

 

 二神宅のチャイムが鳴らされたのは、翌日の十一時過ぎだった。前夜をギャルゲーで徹したせいか、鳴り響くベルの音にも動じることなく二神は布団に突っ伏していた。まどろみの向こう側で、チャイムの合間に人の声が混じるのが聞こえた。
「ちょっとー、いるんでしょ? 開けなさいよー、暑いんだからさー」
 幼さを残した気だるげな声だった。ピンクだ。二神青年はひっついて離れようとしない瞼をこすりながら、ドアの向こうへと呼びかけた。
「朝っぱらからなんだよ……鍵なら空いてるぞ」
「そういうことは早く言いなさい――ちょ、ちょっと!」
 ため息混じりの言葉と共に戸が開いたと思った瞬間、風のような勢いで音を立てて閉まった。バタンという轟音とともに、アパート全体がぶるぶると揺れた。これでもかと暖められた真夏の熱気が肌をなでる。クーラーをかけっぱなしで寝てしまったことを、ちょっとした後悔と共に思い出した。
「近所迷惑だろ……」
「あ、アンタ――なんなのよ、その格好!?」
「ん……ああ、そうか。悪い」
 悲鳴のような叫び声で思い出した。クーラーをつけても襲ってくるパソコンの放射熱に耐えきれず、上はタンクトップ一枚、下はトランクス一枚という出で立ちでそのまま寝てしまったのだ。昼寝から目覚めた猫のように四肢をぐいと伸ばすと、二神はのそのそと起き上がり、周囲に散乱していた短パンとTシャツを時間をかけて着た。
「ふあ……待たせたな、ピンク。入ってもいいぞ」
「ホントに? はぁ、まったく……信じらんないわ」
「悪い、暑かったからな。で、どうかしたか」
 蛇口をひねり、水を一杯あおった。頭の中の靄が少し晴れる。背後では、荒廃した生活痕の色濃く残る部屋の真ん中で立ち往生するピンクがいた。足元にはカップラーメンやコンビニ弁当の空き容器が散乱しており、腰を落ちつけられるような場所は唯一パソコンの前のみという有様だ。消しカスを払うかのようにさっとゴミを部屋の隅に押しのけ一人が座れるほどのスペースをつくると、ピンクはためらいを露骨に顔に出しながらその場に正座した。
「どうかって、アンタが出てこないってみんなが心配してたから……様子見」
「ああ……まあ、こんな感じだ」
「はぁ……ちょっと、目ぇ覚ましなさいよ。こんなことしてる場合じゃないでしょ」
「やだ」
 二神はさらりと言い捨てると、パソコンのスリープを解除させた。ジリジリというハードディスクが立ち上がる音が虫の羽音のように小さく、しかし意識してしまえばはっきりとわかるほどに鳴り始める。ディスプレイにOSのロゴがじんわりと浮かび出た。
「やだ、って……ガキみたいなこと言いださないでよ」
「だって、またネカマに騙されるかもしれないし……」
「あ、それが一番ダメージだったんだ……」
 がっかりしたように顎を出すピンクを横目に、二神はパチパチとリズムよくパスワードを打ち込んだ。承認画面がサイドツインテールの女の子へとうつり変わったとき、うっと小さく呻く声が聞こえた。
「うわ、マジでハマってるんだ……」
「人が何にハマろうと自由だろ」
「そりゃそうだけど……恥ずかしくないの?」
「恥ずかしいって、何が」
「いい年こいた大人が、真っ昼間からクーラーをガンガンに入れた部屋でギャルゲーって。同じくらいの年の人は、この炎天下の中で汗をダラダラ流しながら働いてるのよ」
「う……」
 労働を引き合いに出され、心が少しざわついた。二神は目に意識を集中させようと、わずかに腰を浮かし画面へと近づいた。
 桃色の少女はこの反応に手ごたえを感じたのか、ぺろりと上唇を舐めた。
「だいたい、ネカマが何よ。BARUだってそうじゃない。ネットでは何でもできるし何にでもなれるなんて、はじめっから解ってたでしょ? 今更そんなのに騙されるって、ただの自業自得じゃない」
 ぐいぐいと攻め手を強めていく。青年が必死に聞くまいとしている様子が小刻みに震える手から簡単に見てとれた。あと少し押せば陥落するはず、ピンクは内心でほくそ笑むと語気を強めた。
「バイトの話だってそうよ。そりゃ、アンタはまあ……ほんの少しは見た目もいいかもしれないけど。それでもどっちかって訊かれたら、100人が100人女子高生を選ぶに決まってるじゃない。かわいいし。そんなの常識でしょ、常識」
 これでどうだ――したり顔で説教を喰らわしていたピンクはちらりと目を開き、そして眉根を寄せた。青年はいつの間にか大きなヘッドフォンですっかり耳を覆っており、ギャルゲーの世界に没入していた。今や画面との距離は20センチも無い。
「ちょ、アンタ! 人の話を――」
 一瞥もくれない。ピンクは二神の瞳の中に映る美少女イラストを見て、ざわざわと背中を何かが走り抜けていくのを感じた。
「はぁ、どうすりゃいいのよ……」
 少女は地面に両手をつけると、がっくりと力なく項垂れた。

 

 

 

「真くん。いるの? 入るわよ~」
 ぼんやりと二神のプレーを見ていたピンクが、外からの呼びかけにびくりと体を震わせたのは、太陽がわずかに傾き始めた頃だった。
 間髪入れずに戸が開く。ピンクは成す術もなくぽかんと口を開けたまま来訪者を眺めた。
「あら……お客さんがいたんだ。真くんの友達?」
 普段よりも少し厚めの化粧を施した小池雅美が、事もなげに訊ねてくる。ピンクの脳味噌が急回転しはじめた。歳は二神よりも上だろう、独特の色香が滲みでている。化粧は濃いが、無闇なものではなく、自分の顔の魅せ方をよく理解しているように思えた。何よりピンクの目に焼きついたのは服装だった。薄手の羽織物に透けて見えるキャミソールから、マシュマロのような二つの山がこぼれそうになっている。かなり攻撃的な服装だった。ピンクは内心の警戒が悟られないように細心の注意を払いながら笑顔をつくろった。
「は、はい。桃井っていいます。おば……お姉さんは、ご近所の方ですか?」
「ん~、ハズレ。家はそんなに近くないかな」
「はぁ……」
 曖昧な返事に剣呑な声をだすと、雅美はふふんと得意げに微笑んだ。
「まあ、オトナのお友達、ってカンジ?」
「お、オトナって……」
 ぼっ、と頬に火がつく。雅美は気だるげにソバージュヘアをかき上げ、二神へと視線を移した。
「へぇ、話に聞いた通りね。けっこう打たれ弱いところもあるんだ」
「そっ、そうなんですよ。アタシが何言っても聞いてくれなくて……」
「ふーん? お嬢ちゃん、真くんと仲いいんだ」
 ほんの僅かに空気が冷えたのを、能力で無い部分でピンクはさっと感じ取った。どうやら雅美の中でのピンクの危険指数が鎌首をもたげ始めたらしい。ここで負けてはならぬと、ピンクはささやかに胸を張りながら答えた。
「そ、そうよ。二神とアタシは……えーと、その」
「あら、どうしたの? “二神とアタシは”?」
「その、あれよ、えぇと……そう、あれあれ!」
 どもりながら、ピンクの思考回路はこれまでに無いスピードで演算を処理していた――恋人? いやいや、そんな関係では無い。友達、ではインパクトが無さ過ぎる。マブダチではオトナの友達には勝てそうにないし、いっそ愛人、いやいやこれでは意味が変わってきてしまうではないか。ああ、そうだ。自分たちの関係を表すのにもっとも適している言葉があったじゃないか――。
「アタシたちは、その……一心同体です」
 激しい後悔と羞恥に襲われながら、ピンクはぼそぼそと独り言のように呟いた。二人の間に風が吹いた、ような気がした。
「へー、そうなんだ。一心同体、ねぇ……」
 むしろ二心同体? などとセルフツッコミを入れつつ、ピンクは雅美が一刻も早く自分の言った世迷い事を忘れ去ることを願った。
「ま、いっか。で、何言っても聞いてくれなかったんだ」
「は、はい」
 話がすり変わったことに安堵の息を漏らしつつ、少女は頷いた。雅美はそれを見て満足げに口元を緩め、腕まくりのジェスチャーをした。
「まあ、こういうときはお姉さんに任せればいいの」
「えっ! なっ、何をするつもりなのよ?」
 再びピンクの頬が朱に染まる。あれよこれよと、インターネットで仕入れた刺激の強い情報がフラッシュバックしていた。真昼間のボロアパート、突然訪ねてくる年上の女性、見せつけるような服装と気だるげな声――頭が爆発しそうだった。
「そ、そんなこと……アタシはどうすればいいのよ」
「ん? ん~、ここにいればいいんじゃない? 一緒にしようよ」
「えっ!? あ、アタシはそういうのは――」
「あら、もう済ませちゃった? お昼ごはん」
「えっ、あっ、な、なんだ、お昼か……」
 ふぅ、と大きくため息をつく。雅美は少女の耳年増な反応に小首を傾げながら、洗い物が散乱している流し台へと向かった。この期に及んで、ピンクはようやく雅美が食材の詰まったスーパーの袋を片手に持ってきていたことに気がついた。
 料理の手際は悪くなかった。うずたかく積もっていた洗い物の山は見る見るうちに消え、その合間に食事の準備を進めていく。トントンという小気味良い包丁の音が室内に響いた。スパイスの香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。小さく鳴ったお腹を、ピンクは慌てて押さえた。
 それにしても、料理をする女性というのはこんなにも魅力的に映るのか――あちこちと台所を動き回る甲斐甲斐しさと、出来上がりを想像しながらなのか、柔らかく微笑みながら鍋をかき回す仕草とに、ピンクはついぼんやりと雅美の後姿から目が離せずにいた。
「できたわ。我ながら上出来ってカンジ」
 小一時間ほどして、雅美は湯気の立つお皿を両手に持ち二神の隣へと座った。
「桃ちゃんもどうぞ、美味しいわよ」
「あ、ありがとうございます……」
 勧められるままにスプーンを口に運んだ。程よい辛みと温かなコクが口の中に広がる。美味しかった。ラッキョウもあったらよかったのに、とピンクは思った。
「ほら、真くん。あ~んして」
 その隣で、雅美がヘッドフォンをしたままの二神の口へとスプーンを運んでいた。青年は視線を移さぬまま、条件反射的に口をぽかんと開き、のそのそとした所作でカレーを咀嚼し飲みこんでゆく。一間を置いて、嬉々とした様子で雅美がカレーを食べさせ、ときどき水を飲ませたり、口元をティッシュで拭きとったりしていた。その間も、二神の意識は二次元へと飛んだままだった。
 まるで介護老人みたいだな――知らず知らずのうちに警戒を解いていたことに、ピンクは何の感慨もなく気がついた。

 

 

 

 三人がカレーを食べ終え、雅美とピンクが後片付けまで全て終わらせ一息ついていた頃、次の来訪者を知らせるベルが鳴った。
「開いてますよぉ」
「二神さ~ん! 愛しのレンちゃんがやってきましたよ~!」
 二人きりでいられると思ったのか、少女はかなりのハイテンションで入ってきた。そしてすぐに自分の誤りに気がついたのか、漣はドアを開け放ったままのポーズで硬直した。
「あ、その……は、初めまして……」
「お、お邪魔してます……」
「またお客さん……お茶でも淹れよっか?」
 空気がなんともぎこちなく揺れていた。ピンクはさっさと帰ってしまいたい衝動に駆られたが、ここで退いては雅美や漣に何をされたかわかったものではないと考え、なんとかこの場に踏みとどまることにした。
「あ、あの、浅井漣です。二神さんはその……恩人みたいな人で」
「アタシは桃井よ。二神のトモダチ」
「私は小池雅美。二神くんのオトナのオトモダチ」
「おっ、オトナの……」
 デジャブ感溢れる流れだ、とピンクは思った。蓮は難しい顔で何かを考えていたが、そのうち表情に締まりが無くなっていき何かを夢想するようにうっとりと目元を緩ませていった。そして、うわ言のようにぶつぶつと呟き始めた。
「オトナの関係……そんな二神さん、ダメです二人とも家庭が……で、でも二神さんがそこまで言うなら、私にはもう止めることなんて――ハッ!」
 びくりと一度大きく震え、漣は息を呑んだ。気恥ずかしそうに彼女は俯いたが、聞いている方まで痛々しくなってきたのかピンクはうんざりしたように窓の外へと視線を投げた。セミの鳴き声がやけに遠い。
「す、すいません……それで、お二人も二神さんのことを聞いて?」
「そ。でも二神くん、全然相手にしてくれないのよね~」
「正直、アタシは半ば諦めてすらいるんですけど」
「ふ~ん。でも、心配ご無用ですよ。私にお任せください!」
 そう言って、漣はぐっと両手を胸の前で握った。そして自らのカバンからCDケースを取りだすと、二神と画面の間に割り込んでちらちらと振って見せた。
「二神さん、そんなギャルゲーよりも私が作ったこっちのゲームをプレーしませんか? 名付けて『レンプラス』! このゲームはですね、ノーマルなレンちゃん、年上のレンちゃん、かなり年下のレンちゃんの三人から一人を選んで、まるで日常生活を一緒に過ごしているかのように恋愛ができるシミュレーションなんですよ~。コスチュームもたくさん用意していまして、制服はもちろん巫女にメイドにナースに浴衣に……さらに、このゲームの凄いところは、最新のAI『レンちゃんVer.3.00』を搭載しているんですよ! これによって、日常会話はもちろん夜の会話まで、さらに二神さんの好みに合わせてスタイルまで変えられるようになったんですよ~!」
 そのとき、ちらりと青年の瞳がCDのパッケージを捉えた。外野二人に僅かに戦慄が走る。漣はここぞとばかりに、顔いっぱいのスマイルで続けた。
「どうですか、二神さん。この『レンプラス』を社会復帰の第一歩にしませんか。そして、ゆくゆくは二次元でも三次元でも漣ちゃんと一緒に――」
 そこまで言いかけたとき、二神は漣からさっとそのパッケージを受け取ると、おもむろに立ち上がりCDラックに『レンプラス』を押し込み、再びギャルゲーへと向き直った。どうやら何も無かったことにしたらしい。
「そ、そんなー、二神さーん!」
 やっぱりダメだったか――漣の悲鳴をバックに、ピンクは溜め息を吐き肩をすくめた。

 

 


「真よ、失礼するぞ!」
 ドアの外から唐突に声が聞こえたのは、三人が昼下がりのお茶を楽しんでいたときだった。音を立てて勢いよく戸の開く音と共にパカーディが姿を見せ、その後ろに呉が続いた。三人が瞬間的にツナミネットのアバターを想像したのは言うまでもない。
「むむ、先客がいたのか。暑いからといって出渋ったのは失敗だったかの……苦しゅうないぞ、皆のもの」
 パカは仰々しくそう告げると、つかつかと部屋に入り込んだ。
「おお、中は涼しいのう……日本の夏は暑くてかなわん。さて、真」
 二神に向き直り、パカはヘッドフォンをさっと取り上げた。青年は一度取り返そうと手を伸ばしたが、パカがそれを後ろへ放ると恨めしげな眼をパカへと向けた。ちなみに、三人は呉の威圧感に圧倒されて押し黙っている。
「む……少し見ぬ間に、濁った眼をするようになったの」
「次から次へと……もう、放っといてくれよ」
「そういうわけにはいかぬ。チームのためにも……よっ、余のためにもな。呉!」
「はっ」
「真に喝をいれてやるのじゃ」
「えっ?」
「承知致しました」
「いやちょっと待ってそれはただのシゴキ――」
「歯ぁ食いしばれ!」
「何故に熱血系っ!?」
 悲痛な叫び声と同時に、ゴリ、という何かがめり込むような音が聞こえ――決して小柄ではない青年の体は、本棚を巻き込んで轟音と共に地面に沈み込んだ。
「ふむ……ちと、強すぎたかの?」
「申し訳ありません」
 もちろん、これが社会復帰に繋がるわけもなかったのは言うまでもない。

 

 


「――で、あなたはそんな大ケガをしたと」
「ええ。本棚を巻き込んで全身打撲です」
 その日の晩、再び訪ねてきた渦木の前には、全身のいたるところに包帯を巻いた二神の姿があった。殴られたであろう左頬はふくれっ面をしているかのように明らかに腫れあがっている。本棚は一部が破損したらしく、部屋の隅には雑誌を中心とした本が平積みにされていた。
「まったく……おかげで、さらに外に出る気力が無くなりました」
「まあまあ、そう言わず。その方々も、あなたの為を思ってしたことでしょうし」
「それはまあ、そうかもしれませんけど……」
 二神もそのことは重々承知しているのか、口調は昨晩よりも柔和なものになっていた。もっとも、目線は相変わらず画面の女の子と向き合っていたが。
「それに、もし仮にあなたがいないままデンノーズが本戦に挑んで敗れたとしても、あなたは画面の中に飲み込まれてしまうんですよ。自分の運命を他人に委ねるなんて、合点のいかない話だとは思いませんか」
「――渦木さん。今、なんて言いましたか?」
「えっ?」
 ふと、二神はマウスをクリックする手を止めた。瞳には、これまでに無い――いや、数日前までと同じような――力強さが宿っていた。
「画面の中に飲み込まれる――そう言いましたね」
「あ、ええ……」
 何が何だかわからぬまま渦木が曖昧に頷くと、青年は何かを考え込むように口元を手で隠した。ぶつぶつと口の中で何かを呟いているのが、小刻みに動く顎からわかる。渦木は呆気にとられながら、ただ彼の逡巡が終わるのを待っていた。
「飲み込まれる。つまり、画面の中に入り込むということですね」
「えぇと……そう、なるんでしょうか?」
「なるほど。そうか、そうだったのか! ははっ、最高ですよ渦木さん!」
「わ、私には話が全く飲み込めないのですが……」
「単純な話です。これで全部解決しますよ」
 青年は立ち上がり、きっぱりと断言した。悪寒に似た戦慄が渦木の背筋をずぅっと駆け抜けていく。それはまるで、名探偵が難事件の犯人を言い当てる時のような、妙な高揚感と共にあった。
 二神は渦木に向かって微笑むと、画面に向かって口を開いた。
「――デウエス、見てるんだろう」
『おや。あなたの方からわたしを呼びだすとは』
 ヘッドフォン端子を入力しているはずなのに、スピーカーから電子音声が聞こえた。臆することなく、二神は息を大きく吐くと――突然、地面に頭をこすりつけた。
「頼む! 俺をそっちに連れて行ってくれ!!」
『は?』
「はぁ?」
 電子と生の声がシンクロする。渦木は眉間に思い切り皺を寄せながら、もしデウエスに顔があったなら同じ表情をしていたに違いないと思った。
「俺は二次元で生きたいんだ! お前に食われるってことは、すなわちお前に取り込まれるってことだろ。つまり、二次元の世界に入れるっていうことだ!」
「な、何の根拠も無しに何を言ってるんですか!」
「頼む、この通りだ! 俺を食ってくれ! それで俺はしあわせになれる!」
『それが、しあわせ……どういうことです?』
「人のしあわせはパソコンの中にこそある。そこは無限の想像の世界なんだ。ツナミネットだってそうだろ? スポーツをしたことがない病弱な少女でも、死の床が近い老人であっても、汗だけはいつもかいてるオタクでも、そこでは一緒に夢を追いかけられる。それだけじゃない。めくるめくファンタジーも、血を沸かす闘争も、欲望の忠実な僕たるギャンブルも、偽りの無い真実の愛だって……なにもかも、パソコンの中にある。ただ次元の壁が邪魔をしているだけで、しあわせの形はこんな近くにあったんだ」
「考え直してください二神さん。あなたはネットでも騙されたんですよ!」
 渦木は必死の叫びに、青年は厭世感溢れる笑みを浮かべた。
「違いますよ、渦木さん。ネットの中では彼女は女だった。それが真実です」
「は、はぁ……それはそうかもしれませんが。し、しかし」
「さあ、頼む! デウエス!」
 青年が再度頭を擦りつけ、部屋の中が静まり返った。渦木はデウエスがあきれ返って既にこの場を後にしているか、そんなことはできないと冷たく一蹴することを切に願った。
 しかし、スピーカーから聞こえたのはそのいずれでもなかった。
『――わかりました』
 そう小さく呟いた瞬間、ディスプレイが真っ黒になり、幾本もの手を模した触手が現れた。触手はあっという間に青年の体を包み込むと、軽々と持ち上げ飲み込まんと画面へと戻ってゆく。
「ふ、二神さん!!」
 青年の足を掴もうと伸ばした手は、するりと避けられてしまった。
「ああ、渦木さん……俺にはわかりますよ、これがしあわせだって……」
 その言葉は、フェードアウトするように飲み込まれ――気がつけば、渦木は一人になっていた。
 何も言うことができずその場に座り込んでいると、スピーカーから元気の無さげな電子音声が聞こえてきた。
『……これが、しあわせ』
「おや……まだ、そこにいたのですか」
『不思議なことに――本当に彼は、心からこれを望んでいたようです。わたしに取り込まれる人は、みんな恐怖に顔を歪めて、泣き叫びながら消えていったというのに』
 渦木は黙って続きを待った。デウエスの真意が、全くもって読めなかったのだ。
『わたしは、ある人の代行者としてしあわせを追い求めていた。けれども、わたしの欲したしあわせは、どれだけ多くの人を呑みこんでも手に入らなかった――ただ、あの青年だけを除いて』
「……」
『しあわせとは――なんなんでしょう』
 それっきり、電子音声はぷつりという音を残して聞こえなくなった。渦木が茫然と画面を見つめていると、ふいにドアが音を立てて開いた。条件反射的に、そちらへと顔を向ける。
「二神さん!?」
「ただいまー、でやんす……って、アンタ誰でやんすか!?」

 

 

 

 世間を揺るがしていた失踪事件は、こうして大した戦いも無く幕を閉じた。
 消えていた人々はそれぞれ合理的な形で帰ってきており、まるで事件そのものがなかったようだった。
 ただ、最近インターネットでは、ギャルゲーをしているとBGMに混じって密かに聞こえてくる20代ほどの男の楽しげな笑い声が話題になっているという。
 私もあのとき、あっち側に行けばよかったなぁ――妻からの着信を知らせる胸ポケットの振動を感じながら、渦木は抜けるような秋空に向けて、紫煙を吐きだした。