黄昏時に彼女は微笑む・エピローグ
※『黄昏時に君は微笑む』の後日談です。
病院暮らしは想像以上に退屈を極めた。
寝ても覚めても変わり映えのしない白い部屋は、伊太郎の気を滅入らせるのにそうそう時間を必要としなかった。
「うーん。退屈しのぎに、真っ赤に塗り替えてみるか……」
「何を一人で言ってんの。イタローさん」
丁寧にウサギ型にカットされたリンゴを乗せた皿を手に、准が嬉しそうに答えた。
暇だからお見舞いに来たよ、という決まった挨拶。彼女にしては珍しく嘘が下手だと、伊太郎は思った。入院して一カ月。彼女は毎日、それもほぼ一日中傍らにいてくれた。プライベートな時間はともかく、仕事はどうしたのかと問い質したかったが、妙に嬉しそうに、それも甲斐甲斐しく世話をしてくれる准の姿を前にしては、その質問はいつも胸の奥へと引っ込めざるを得なかった。
「いや、白って単調な色だろ。部屋を明るくすれば、血行も良くなって回復力も上がるかなーって」
「そのまま興奮して、病人がプッツンしたらどうするのよ」
「……それもそうか」
形の整ったリンゴを頬張り、伊太郎はベッドの上から見える窓の外の景色を眺めた。代り映えのしない殺風景を見るのも今日で最後だ。身体に受けた傷はいずれも急所を外れていたが、軽度の肺炎が入院を長引かせていた。出血量も相当なものだったとのことで、一カ月で回復し、リハビリプログラムまで終えたのは病院側からすると想定外も想定外なのだろう。驚異的だ、奇跡だ、もはや怪物だ、サイボーグだと大層なお言葉をこれでもかと並べられた。
――バカみたいに丈夫らしいな、この体は。
どうやら銀幕のヒーローにはなれないらしい。
維織を解放することなく倒れ伏してしまった伊太郎を発見したのは、彼を追って駆け付けた村人たちだった。あと少し遅れていたら、何らかの障害が残っていたかもしれません、という担当医の言葉が脳裏を過ぎる。電話も通じない辺境の村だったが、治ったら真っ先に訪れようと、心に誓った。
三島たちは誘拐や傷害の容疑で逮捕された。ただ新聞の記事は小さく、テレビでは取り扱っているニュースは皆無だった。体裁を気にする企業のイメージ。裁きを受けて欲しいと強く願ったわけではないが、こういうものかと、溜息が漏れた。
その件も含めての口封じという意味合いもあるのだろう。入院費や手術代など費用の全ては『NOZAKI』が負担してくれた。一度だけ世納が見舞いに現れ、謝罪と共に伊太郎に教えてくれたのだ。維織のことに関しては世納は触れず、伊太郎もまた、訊こうとはしなかった。
「イタローさん。今日で退院だよねー。治り、早まって良かったね」
「まあな。これも日頃の善行の積み重ねってやつかな」
「ん? なんて?」
「もちろん、准さまが優しく看護してくれたお陰だぞ」
「いやー、そんなことないって!」
バシバシと背中を叩かれる。今日の准はいつもに増してテンションが高い。
徐々にその強さは弱まり、やがて意を決したように、准は伊太郎へと問いかけた。
「ね。イタローさん。これから……どうするの?」
「どうするもこうするも……また、旅に出るだけだ」
「一人で?」
「ああ。元々は一人だったからな」
「そう、なんだ……」
何かを思案するように、准は顔を伏せる。
時計を見ると、十一時を回った頃だった。そろそろ退院手続をしなければいけない。ベッド脇のスリッパに足を通し、立ち上がる。
その時、ドンと柔らかい衝撃が走った。腰に何かがしがみついている。
「准?」
「イタローさん……お願い。私を旅に連れて行って!」
胸に突き刺さる声。
暫しの間、二人は身じろぎもせずその場に佇んでいた。
「ダメだ、准。お前を連れて行くことは……できない」
「……どうして?」
「お前には、旅に出る理由が無い」
「理由ならあるよ!」
背中に響く声。准は必死に叫んでいた。
「イタローさんたちがいなくなってから、心にぽっかりと穴が開いたみたいだった。あの頃は毎日がすごく楽しくて、すごく充実してた。でも、二人がいなくなっちゃって……私だけ取り残されて……仕事はある。新しい友達だっている。夢に向かって努力してるはずなのに……なんでかな、凄く寂しいんだよ。あの時を思い返すと、胸が締め付けられるんだ……」
「准……」
腰に回された手をそっと解き、准に向き直った。准の目尻には涙が溜まっていた。
女の涙は慣れないな――伊太郎はばりばりと襟足を掻いた。
そして、閃いた。
「なあ、准。今から、ちょっと俺の話を聞いてくれないか」
「えっ……どうしたの、イタローさん」
証左も何もない、ただの連想ゲーム。
それでも、半ば確信めいた自信があった。
伊太郎は准をベッドに腰掛けさせると、自分もその横に座った。
「実は、だ。今回維織を迎えに来た三島ってヤツ。アイツは『NOZAKI』の人間じゃないんだ。正確に言えば、元『NOZAKI』ってとこだ。数ヶ月前に、横領騒ぎを起こしてクビになっている。俺たちが旅立った後だったから、維織はそれを知らなかったみたいだけど」
違和感があった。猿轡に後ろ手に縄。どう考えても、社長令嬢にする対応ではない。そして、行き過ぎた防衛に、企業イメージにそぐわないゴロツキの二人。いくら伊太郎が戸籍無しの根無し草と言えど、疑念を感じさせるには十分すぎる材料が揃っていた。
三島の罷免は、世納が来たときそれとなく尋ねて分かったことだった。初めて来たときに饒舌に捲し立てていた社長交代騒ぎとやらは全て彼の大法螺であり、野崎社長は変わらず敏腕を振るっているということも、併せて聞き知っていた。
「三島はそれからどういうわけか、興信所勤めを始めたらしい。まあ、俗な言い方をすれば探偵だな。どうも元々、友達付き合いに難があるヤツだったみたいで、横領事件もそこを端緒にしてるみたいだな。要はヤクザに金を借りて、返せなくなって、会社の金に手を付けたと。サスペンス劇場もビックリの単純明快なストーリーだ。
ここまでが、事件の背景ってとこだな」
准は黙って伊太郎の話を聞いていた。
その顔色は、日の当たり具合からか心無し影が差して見えた。
「そして、火の粉が維織に降りかかる。三島はどこからか俺と維織の情報を嗅ぎつけ、一計を講じた。金策と、ついでに自分をクビにした『NOZAKI』への復讐。口実としては、風来坊野郎から維織を取り返してやったから、カネを寄こせ。多分、こんなところだろうな」
二人のチンピラは、『NOZAKI』とは当然ながら全く無関係のヤクザ崩れだった。
初日の段階では適当に口実を付けて維織を奪い取るつもりだったのだが、想像以上に維織の意思が固かったことと、伊太郎の一撃が三島の小さなプライドに火をつけた。維織を強取し、伊太郎には仕返しをする。ただ一人では心許なかったので、最悪の場合殺しても構わないという条件のボディガードで二人を雇ったのだ。
「で、ここで問題になってくるのが……三島に俺たちの情報を流したのは誰か、ってことだ」
この一ヶ月、退屈なベッドの上で考えていたこと。
どうしても、その真意を問いたかった。
「それは……准。お前だな」
准は俯いていた。表情は分からなかったが、肩が小さく震えていた。
「どうして……そう、思うの?」
「まず、俺の名前と存在だ。俺がいるということはまだしも、初対面で名前まで呼ばれるってことは……事前の下調べは十分、ってことだ」
「でも、イタローさんの名前を知っている人なんてたくさんいるでしょ? マスターかもしれないし、『NOZAKI』の誰かかもしれないし……遠前町の人は、みんな知ってるよ?」
「世納さんを含めた『NOZAKI』の人間が、クビになった人間にそんなことは頼まない。そして、情報を流すってことも無いだろう。それを除外して、残るのは遠前町の人間、ということだ」
選択肢を一本にする切り札。あの話を聞かなければ、思い至らなかった。
「そして、俺たちの居場所。三島は初日も車で来ていた。村に到着して少し時間があったとはいえ、あんな辺鄙な場所に位置する村で、偶然出会う……ってのは、ちょっと出来過ぎたストーリーだよな。考えられるのは一つだ。三島は、あの村に俺たちが向かうと分かっていた。だから悠々と後から追って来れた、というわけだ」
准は何も言わない。
「俺も話を聞くまで知らなかったんだけど。俺たちの行き先を知っているのは……一人しか、いないんだ」
維織が手紙を出していた相手。夏目准。条件に当て嵌まる、唯一の人物。
少女の肩に手を置く。びくりと大きく震えるも、俯いたままだった。
「教えてくれ……どうして、三島に依頼を?」
准は覚悟を決め顔を上げる。その瞳には、涙が溜まっていた。
「その前に、ひとつ信じて。私は、維織さんやイタローさんを傷つけるつもりは、全然なかったんだよ」
「だろうな。維織を人質に取ったり、俺を撃ったりしたのは三島の暴走だろう。お前は、そんなことをするようなヤツじゃない」
「維織さんから手紙を貰うたびにね、嬉しさの反面、いつも羨ましさがあったんだ。二人は今も、楽しく旅をしてるんだって。私の、知らないところで……イタローさんを、独り占めして」
「准……?」
「気付いてないんだよね、イタローさんは。私、イタローさんが好き。遠前町にいた頃は、維織さんに遠慮しちゃってたけど……誰よりも愛してる。なのに、あなたは維織さんしか見てくれない。だから……ちょっとだけ、おかしくなっちゃったんだ」
不意に少女が立ち上がる。伊太郎の前に踊り出ると、そのまま男を押し倒した。
戸惑う伊太郎の唇に、准の唇が重なった。
強引に舌を差し入れられる。准の吐息が、甘い蜜が、激情が流れ込んでくる。
我に返った伊太郎は、力を籠めて覆いかぶさってくる少女の肩を掴み唇を離した。
二人の荒い呼吸が病室に響く。
准は、大粒の涙を零しながら、震える声を振り絞った。
「イタローさん……お願い。私を、旅に連れて行って……誰よりも、傍に居たいの。イタローさんの、隣に!」
「准……」
言葉が上手く出てこなかった。
三島への依頼内容。
もしかしたら、それは自分の想定を遥かに超えていたのではないか。
思念が胸裏を辛辣に抉る。
だが、心は既に決まっている。
准の頭に手を置き、そっと撫でる。それだけが、彼女にしてあげられる精一杯のことだった。
「ありがとう、准。それと……ごめん」
「イタローさん……」
「俺は、維織を愛してる。だから……お前を連れていくことは、できない」
腰に回される華奢な両腕。
胸元が熱い水滴で濡れていくのを感じた。
「お前には、夢がある。それを掴む為の翼も持ってる。だったら飛べよ、准。俺なんかよりももっと高くお前が羽ばたくところを、俺に見せてくれ」
准の頭にもう一度手を置き、髪を撫でる。
それが別れの挨拶だった。
退院手続自体はすぐに済んだ。
だが、驚異的な回復力の秘密を調べたいという理由で検査を受けるうちに、数時間が経過していた。
病院から出て立ち止まる。真っ赤な夕焼けが全身を朱に染めた。
「さて。これから、どうしたもんかな」
維織からの便りは無い。
やることも、特に思いつかない。
あの村に戻るのも、一人では気が引けた。
一人旅は慣れたものだと思っていた。昔に戻るだけだと考えていたのに、どうにも心が落ち着かない。
吹きすさぶ風がひどく乾いたものに思えた。季節はすっかり冬を迎えている。
伊太郎は風に飛ばされるように、斜陽に目を細めながら歩き出した。
彼女は、病院の敷地を囲む塀にその背を預けていた。
真っ赤な夕焼けが彼女の横顔を照らす。
喉が涸れる。言葉が出てこない。
「――生まれ変わりって、信じる?」
いつか聞いた言葉。
そうだ。
始まりは、ここからだった。
「ああ、信じるさ」
「どうして?」
「今の俺が生まれ変わりだ。あの頃とは、全然違う」
「そう……実は、私も」
維織の顔がこちらを向く。
陽光の中で、彼女は穏やかに微笑んでいた。
「一ヶ月……父さんと、直接話してきた。私は私の翼で飛びたいと、ずっと訴えた」
「維織……」
「何度翼から血が滲もうと、何度も羽ばたいて、もがいて。今日、聖夜の日。私は……私の鎖を、切った」
言葉が上手く紡ぎ出せない。
胸の内に込み上げてくる感情は、今にも堰を切って流れ出そうとしていた。
「これからは……ずっと、一緒」
そう言って、維織は最高の笑顔で一筋の涙を流した。
「ああ、そうだな――ずっと、一緒だ」
伊太郎は慌てて空を見上げた。しかし、溢れ出る涙を抑えることはできない。
そのまま、くしゃくしゃになった顔で維織を力一杯抱きしめた。
伸びた二つの長い影が重なり、それは離れる事無くいつまでも繋がっていた。