パワプロクンポケットΦ 1話『Re:Verse/Rebirth』(パワポケ7異聞)
10年前に3話くらい書いて消滅した準新作。
555サイドは設定だけ拝借するカタチなので、登場人物は全てパワポケキャラになります。
ただし両作品におけるネタバレを含みます。
全20話くらい……かな?
骨の髄まで凍るような寒さと、一条の光も差し込まぬ静寂の闇。
腹部に拳大の風穴を開けた少年が覚知できたのは、それだけだった。
自分が今どこにいるのか。何をしていたのか。思い出そうと記憶の糸を手繰るも、それはすぐにぷつぷつと古いゴムのように細切れになり、深い暗渠の中へと落ちてゆく。空一面に立ち込める厚雲から吐き出される雨は瀑布のように激しく降り注いでいたが、虚ろな瞳は既にそれを映していない。横たわる少年の身体から流れ出る血液は三月の冷雨と交わり、轍を流れる小さな川が無数に生まれた。
「悪く思うなよ――」
天から声。いや、天では無いのかもしれない。前か横か、あるいは下かもしれない。平衡感覚は絶えて久しい。浮遊感すら伴うその一方で、鉛を仕込まれたかのように全身が重い。指一本すら動かせる気配がしなかった。
雨と体液と吐瀉とでぐしゃぐしゃになった口から漏れていた弱々しい呼吸の波が、その弧を徐々に緩めている。命の灯が消える寸前、少年は色鮮やかな幻想を刹那に垣間見た。
噎せ返るような真夏の圧縮された空気。
甲子園のマウンドに風が吹き抜ける。
蜃気楼の向こうで潮合を待つ打者。
帽子の日除けの裏に書いた言葉。
観衆の熱気は限界まで満ちて。
聴きなれた声援が耳に届く。
知らず、微笑みが漏れた。
照り付ける太陽は高く。
一筋の汗が伝う右腕。
勝負の一球を決定。
満身の力を込め。
深く息を吸う。
時が止まる。
振り被る。
渾身の。
一球。
擲。
そして。
誰もいない廃材置き場の片隅で、動くはずのない心臓が、強く脈打った。
Φ
第1章《Dead or Rebirth》
Φ
寝覚めは最悪だった。
耳元で大きな銅鑼でも掻き鳴らしているかのような頭痛。触らずとも分かるほどにびちょびちょに濡れた服が肌に張り付く感触に、レオの眉間に皺が寄った。半ば反射的に、股間の辺りを弄る。掌に伝わる冷ややかな感触に、息を呑んだ。もうすぐ十七歳になろうかというのに、まさか。しかし、下半身だけではなく、全身がすっぽり水を被ったかのように濡れそぼっていることに、違和感を覚えた。下着はもちろん、寝間着代わりのスウェットも、上下揃って洗濯機から出した直後のようにずっしりと湿っている。布団も水を吸っているのか、全身が生温い水に包み込まれているようで、酷く気持ちが悪い。さっさと起き上がってこの精神的な拷問から逃れたかったのだが、頭痛はなおも万力で締め付けるように続き、それを許してくれない。
寝起きはあまり良くない。というより、悪い。しかし、起き掛けにこんな災厄に見舞われるのは初めてのことであり、少年はしばらくの間、万年床の布団に顔をうずめたまま動けずにいた。
筋トレに精を出した翌日に筋肉痛になることは、よくある。ならこれは、頭を使い過ぎたとでもいうのか。今は春休みで、授業も無いというのに。
――バイトじゃない? やっぱりさ、レオに喫茶店のホールなんて難易度高すぎたんだよ。
唐突に周のしたり顔が浮かんできて、レオの眉間の皺はいよいよブルドックよりも深まった。
確かに、昨晩のバイトは多忙を極めた。春休みということもあり、持て余していた暇を埋めるために軽い気持ちで始めた喫茶店のアルバイト。客として何度か仕事は見ていたこともあって、余裕をかましていたのは事実だ。厨房から料理を運んで、客からオーダーを取ってりゃいいんだろ。正直に言えば、舐めていた。その安易な想像は、制服を着てホールに立つや否や粉々に打ち砕かれた。メニューやら席番号やら皿の種類やら、覚えることは多岐に渡る。人出が少ないこともあって昼時から夜までは息をつく暇もない。おまけに、これが一番レオの癇に障るものであったが、客と厨房の尊大な態度が気に入らない。半月あまりの間に起こしたトラブルの数々を思い出すと、頭の中の鉛がさらに重さを増したように感じた。
五分か、十分か。そうして悶絶していると、徐々に痛みの波は引いていった。
そして少年は、ふと目に入った自身の腹部に息を呑んだ。
「なんだ、これ」
知らず漏れた声。買ったばかりの、どこぞのブランド物の白Tシャツに、大きな穴が開いていた。虫に食われたという次元であれば気にせず着続けるつもりだったが、しおれは無理矢理引き千切られたかのような裂け目であり、見るからに修復不可能なものだった。レオはブランドというものに毛ほどの関心も示していなかったが、流行っているから、モテるぞ、などと周に宥め賺され、気分を良くして購入したものだ。実際に袖を通してみても、どうしてよく知る衣料量販店のものより桁が一つ違うのかはさっぱり理解できなかったが、それでも最近は無意識のうちに多用していた。
しかし、レオの網膜に焼き付いていたのは、裂け目ではなく、そこから放射状に拡がりシャツを染める朱色だった。
恐る恐る体を弄る。が、それらしい傷は見当たらない。シャツの大穴からは脂肪の少ない引き締まった腹筋が露わになっている。目についたのは、それを覆う肌の痕だ。指で触れると瘡蓋がぼろぼろと剥がれ落ち、新しい皮膚が表出した。バイクの免許を取るときに、ブレーキング操作を誤り盛大に転んだときに腕にできた擦過傷に似ている、と思った。ただ、腕の痕は小指の大きさほども無いのに対し、腹の痕は握りこぶし大もある。
昨日までは、こんなもの、なかった。
頬を一筋の汗が伝う。焦りを帯びる思考を落ち着かせ、昨日の出来事を振り返るべく記憶の糸を手繰り寄せる。
バイトは、21時まで。リーダーにアガりを告げ、そそくさと着替え、裏口のドアから出ると、雨が降っていた。河川敷近くの自宅までは走って15分ほど。それなりに濡れてしまうが、止みそうな気配もなかった。覚悟を決めて走り出す。濡れて肌に付くジーンズを鬱陶しく思いながら、なるべく近道をしようと思って――そうだ。あの空き地だ。公営住宅を建設する予定だった広大な土地。今は資材置き場と化していたが、杜撰な管理のため通り抜けが容易にできる。家の裏が敷地に面しているため、抜ければ5分ほどの短縮になるのだ。
空き地に足を向けて――それから――どうなった?
思い出せない。録画に失敗したビデオの如く、敷地のバリケードを乗り越えたことろで、頭の中の映像はぷっつりと途切れてしまう。
傷痕に触れる。痛みは感じない。しかし、もはや着ることはできないであろうシャツに付着した血液の量は、掠り傷のような生易しいものではないことは、火を見るより明らかだ。他人のもの、という考えも脳裏を過ぎったが、瞬時に自分で否定。服の破れ具合と傷痕を照合すれば、それは明らかに自分の血だ。ただ、そうだとすれば、なぜこうして平気で起きていられるのか。
昨日じゃ、無いのか。
自分が昨日だと思っていた記憶は、実はもっと前の話ではないのか。近道をしようと侵入した空き地で、ぬかるんだ地面に足を取られ、とんでもない大怪我を負ったのではないか。何日か眠り込んで、ようやく傷が塞がったところで目を覚ましたのではないか。そうであってくれと半ば思い込むように浮かんだ一案を、レオは固く目を閉じ否定した。それなら、この濡れたままの服の説明が付かない。第一、どうして着替えもさせずにいるのか。それに、目を覚ますなら病院かどこかの知らないベッドの上であって、据えた臭いのする自分の部屋では無いはずだ。
それなら、他にどんな説明がつくのか。思考が堂々巡りになる。答えを出してくれる人は、少なくともこの場にはいない。
レオは唐突に目を開き、辺りを見回した。携帯。誰かから連絡が入っているかもしれないし、日付だって判明する。いつもなら、寝る前に机の上で充電をするはずだ。
淡い期待を胸にのそのそと起き上がったが、レオはすぐにその動きを止めた。
「おい、マジかよ……」
何かしらの答えが得られるかもしれないと思っていたそれは、無残な姿を晒していた。真っ二つに折れた携帯はあちこちが損傷しており、テンキーは外れ、基盤が丸見えになっている。当然、ディスプレイは何も映していない。ある意味、自分の傷痕やシャツのことよりもショックだったのか、少年は深く溜息をついた。
こんなとき頼りにできるのは、一人しかいない。もし今日が昨日の続きならば、まだ三月。春休み真っ只中のはずだ。それなら、今日はバイトもない。たぶんアイツは、今日も暇を持て余しているだろう。
壁掛けの時計で今が昼前であることを確認すると、レオはもう着ることも無いだろうシャツを脱ぎ捨てた。
部屋の隅に投げられたシャツの背中側にまで穴が貫通しており、前面よりさらに真っ赤に染まっていることに、少年は一切気が付かなかった。
Φ
「なあ。なんか知らねえか、周」
小奇麗に整頓された周の部屋に上がり込むや否や、レオは起床してからの顛末を矢継ぎ早にまくし立てた。唐突に現れた友人の怪奇現象を訊かされた短髪の少年は、ベッドに腰掛けたまま、呆れたように小さく笑った。
「まあ、一旦落ち着きなよ。寝ぐせ、直ってないぞ」
「うるせえな。それどころじゃないんだよ。ていうか、話聞いてんのか」
「聞いてる聞いてる。でも悪いけど、俺は何にも知らないよ。そもそも、昨日は会ってないじゃん」
外国人のように左右に手を広げるアクション。少し、イラっと来た。
「クソっ。お前じゃないなら、誰のいたずらだっつーの」
「いたずら、って決まったわけじゃないと思うけど……にしても、これは確かに酷いなぁ。全然メールが返って来ないわけだ」
床で胡坐をかくレオの横に置かれた携帯電話の残骸に手を伸ばす。折れた断面を覗き込んだり、外れたキーボードを持ち上げながら、へぇ、とか、はぁ、などとわざとらしく驚嘆の声を上げる友人の様子に、少年は頬が痙攣するのを感じた。
レオと周は同じクラス、かつ同じ部活に所属していたが、当時は分けて親しくはなかった。むしろ、なんでも卒なく器用にこなし賞賛を集める周を、自らの不器用さを棚に上げて毛嫌いする節すらあった。とはいえ、それを表層に出すほどのこともなく、親しくもなく険悪でもない、ただのチームメイトという言葉が相応しい間柄だった。
転機は冬のはじめに起きる。まず、レオが。ひと月ほど遅れて周が、相次ぐ事故で大怪我を負った。日常生活にはさほど支障はないが、部活動を続けることは叶わず、退部を余儀なくされた。
部活の他に趣味らしい趣味も無いレオが、気晴らしついでに溜めていた貯金をはたいて二輪免許を取り終えた頃。模糊とした退屈な日々を送っていた最中に、周からメールが入った。暇なら、遊びに行かないか。忌避していたとは言え、断るほどの理由も無い。レオは短い返信を送り返した。
特別な何かが合ったわけではない。普通にファミレスで昼食を取り、ゲームセンターで遊び、カラオケで歌う。ありふれた高校生の休日。だが、怪我の理由こそ違えど、同じようにドロップアウトを選択するしかなかった二人にしか分かりえない何かが共鳴したのだろう。レオはその日、胸中の靄に僅かな光が差し込むのを感じた。
それ以来、二人は暇があるごとに――現実的にはほぼ毎日のように――つるむようになっていた。人に対する嫌悪は、食わず嫌いであることが往々にしてある。レオにとっての周は、まさにそんな相手だった。
「いたずらじゃないなら、お前はどう思う」
「さっぱり。ただ、俺はレオの言ってる傷痕もシャツの血も見てないから、もしかしたらちょっと派手に転んだだけかも、とも思ってる」
「はあ? そんなわけねえだろ。見りゃ分かる」
そう捲し立てると、レオは立ち上がってシャツをたくし上げる。周の静止の声も聞かず、一気に胸元まで露わにした。
「この痕を見ろよ。ちょっと転んだくらいで、こんなもんができてたまるか」
まさに葵の紋所とばかりに曝け出した腹。周の額に、険しい皺が刻まれた。レオはなぜか少し誇らしげに鼻を鳴らした。
「どうだ。転んだなんて寝惚けたこと、これ見ても言えるか」
「……悪い。それ、どこのこと言ってる?」
「はあ? 見りゃ分かるだろ。ここだよ、ここ――?」
上から覗き込んだレオの瞳が見開かれる。
起き掛けには確かに存在していた傷痕が、どこにもない。真っ新な綺麗な皮膚が、薄く割れた腹筋を覆う。何度か目を瞬いても、痕が浮かんでくるといったようなことは当然無い。呻き声が知らず、漏れた。
「嘘だろ……」
音も無く捲り上げていたシャツが落ちる。愕然とする少年を、周は柔和に微笑んで見遣った。
「寝惚けてたんじゃないか? ケータイが壊れたショックで、見間違えたとか」
「そんなはずねえ! 俺は確かに見たんだ――そうだ、ウチに行こう。まだ、血の付いたシャツが」
「あるのかもしれない。けど、君の身体に傷が無い以上、それはレオの血じゃないってことになる。それはそれで、結構ヤバいことに巻き込まれたことに変わりはないんだろうけど……どうする? 警察でも行く?」
周の正論に、黙り込むほか無かった。バリバリと音を鳴らして、頭を掻き毟る。冷静な理詰め。それはこの少年の長所であり短所だと、レオは思っていた。もちろん本人に悪気は無いであろうことも、知っている。
熱くなっても意味が無いことくらいは承知している。ただ、感情の行き場が見当たらない。小さく、クソッ、と吠えた。
「行かねえよ。めんどくせえ」
「……念のため、しばらくは身の回りに気をつけた方がいいかもね。今日は明るいうちに帰れよ」
再び無言。それはそれで、得体の知れないものに不必要にビビっているようで、癪に障る。
せめて昨日の記憶があれば。そう思い何度も記憶を絞り呼び起こそうとするも、カラカラの雑巾を絞っているかのように、手掛かり一つ出てくることは無い。完全にお手上げだった。
「……悪かったな。変なこと言って」
「俺はいいよ。その感じだとマジっぽいし。でも、ホントに大丈夫? さっきはあんな言い方して俺も悪かったけど、なんかヤバいことになる前に、警察に行くだけ行った方がいいとは思うけど」
「いい。なんかあったら、その時はその時だ」
幼児にも似た捨て鉢っぷりに、周は困ったように微笑んだ。
「まあ、なんかあったら連絡してくれよ。俺もできる限りのことはする――って言っても、ケータイもダメになったのか」
言った本人もしまったと感じていたのか、徐々に周の声はトーンダウンしていった。
「……お前、もしかしてわざとやってるのか」
「と、とりあえず。ケータイ見てもらいに行こうか」
白い目で睨むレオに対し、決まり悪そうに微笑んだ。
Φ
結果から見れば、周の提案は更なる悪手だった。
携帯の修理を告げ、見るも無残な真っ二つの残骸を披露した瞬間、ショップ店員の表情が凍り付く。これは無理ですね、と即答する女性店員と噴火寸前とばかりに小刻みに身を震わせるレオの間で、周は今すぐ家に帰りたい衝動に襲われた。修理は不可能なので新品を、と薦める店員に促されたものの、免許取得で貯金をはたいたレオに買える額ではなく、外出前よりさらに機嫌を損ねた友人を宥めながら、今に至る。
「や、やっぱり、真っ二つは難しかったね」
「……根性が足りねえんだよ」
「無茶言うなよ。根性でなんとかなるなら、レオでも直せるだろ」
ぼそりと呟く三白眼の友人は、もはや言っていることが無茶苦茶だ。付き合いだしてからはまだ短いが、こういう状況のレオは非常に扱いが面倒なことを、周は肌感覚で知っていた。
鋭い眼光の寡黙な男。そんな見た目からのレオの第一印象は、交友を深める間もなく一瞬で瓦解した。気に食わないことがあればすぐに臍を曲げ無口になる。好きなものには目が無いが、嫌いなものはとことん嫌う。勝負事は好きだが負けず嫌いなので、負けるとやっぱり拗ねる。その性格は、子供っぽいの一言に尽きる。
周は頭の中でカードを整理すると、どんな順番でレオに提示していこうかと策を巡らせた。
「とりあえず、メシでも行こうか。俺お腹空いたよ」
「奢ってくれ。カネ、貯めないといけなくなったしな」
「仕方ないなぁ。今日だけだよ」
「――やあ。周君に、古河君。こんなところで奇遇だね」
凛とした鈴を思わせる声。平日昼間の多くの人が行き交う商店街の中にあっても、確実に目を引く眉目秀麗な相貌。声の主の名は東優。二人が所属していた野球部の現キャプテンその人だった。
東もまた、故障により第一線を退いている部員の一人だ。もっとも二人とは異なり回復の余地が見込めるため、籍は未だに野球部に置いている。現在はリハビリを継続しながら夏大会に向けての調整を行う一方で、現役メンバーたちのサポートも受け持っていると聞き及んでいる。その指導は端的かつ的確で、監督の佐和田よりも指導者向きとはもっぱら部員たちの全会一致とするところだろう。さらにこの男の非凡さは学業にも表れる。常に学年1位の成績をキープするのみならず、生徒会長まで務め上げるという超人っぷりには、器用を自負する周であってもはたはた脱帽ものだ。さしずめ隣の少年なら、漫画かよ、と吐き捨てるように言うのだろう。
生徒会長と野球部キャプテンの兼任ということもあり、最近の東は制服姿で見る機会が多い。春休み期間中は新年度への準備で多忙を極めるということもあってか、このように街中でばったり出会うことも何度かあったが、その時は常に学ラン姿だった。
しかし今日の東は、かつて自分たちも袖を通していたユニフォームに身を包んでいる。
心の裡に暗い澱がぴちゃりと音を立てて落ちる音が聞こえた。
「キャプテン。怪我はもう大丈夫なんですか?」
「ん? ああ、いや。もうひとつ、ってところかな」
「そうですか……早く復帰できるといいですね」
東は悔しいくらい性格まで良くできた人間だ。
きっと、もう完治も間近なのだろう。
恐らくは、治る見込みもなく退部せざるを得なかった自分たちのためにそう言ったのだ。
隣のレオは話を聞いているのかいないのか、不機嫌そうに唇を尖らせながら明後日の方向を見ている。その矛先は、未だに昨日の夜の何かに、もしくは先刻の携帯ショップに向けられているのかもしれない。東もさすがに気になったようで、耳打ちをするように手を口元に寄せ声を潜めた。
「古河君は何かあったのかい?」
「あ、ちょっと。ケータイが壊れたみたいで、機嫌悪いみたいです」
「そうか……それは災難だな。じゃあ、二人とも、引き留めて悪かったね。俺もそろそろ行くよ」
じゃあな古河君、と手を上げ東は歩き始める。レオはまるで今この瞬間に気が付いたかのように軽い会釈を返した。
遠ざかる綽綽としたその背を見ながら周は呟いた。
「レオ、何考えてた?」
「あ? 昨日のことだよ。キャプテン、何か言ってたか?」
やっぱりな。知らず、乾いた笑みが漏れた。
「特に何も。怪我、もうすぐ治りそうだね」
「……そうか。良かったな」
短い相槌。今の自分にとっては、やはりこの無骨さが心地良い。
「それより、さっさとメシにしようぜ。オレも腹減った」
「そうしようか。よし! 今日は遊ぶぞ!」
澱みを振り切るように大きな声を出す。レオはやはり、剣呑な視線を向けた。
「おい、オレの話聞いてたか? カネ貯めないとって言ってんだよ」
「いいじゃん、明日からでさ。今日はなんか、そんな気分なんだよ」
「んだよそれ……そうだ。近いし、ちょっとバイト先寄ってもいいか。ケータイ壊れたこと言っとかねえと」
「じゃあ、せっかくだからそこでメシにする? 安くなったりしないかな」
「やだね。あんな店、バイト以外じゃ近付きたくもない」
吐き捨てるように言うと、レオは小走りに喫茶店へと駆けていった。
自身の左腕に視線を落とす。抜糸が終わっても手術痕は消えはしない。軽く持ち上げようとすると、ある角度を境に痺れるような痛みが走る。周は力なく腕を落とした。
どうして、俺が――呪詛のような呟きは風に吹かれ消える。その向こうから不機嫌そうに唇をゆがめる少年が戻ってきたとき、周はいつも通り涼やかに微笑んでいた。
Φ
夜道を跳ぶように駆ける。細い路地を飛び出してきた車がクラクションをけたたましく鳴らす。お前が悪いだろバーカ――レオは心の中で雑言を吐き、なおも走る。額に浮かんだ汗を、手の甲で乱雑に拭った。
真冬に比べれば明るい時間が長くなったとはいえ、三月の夜の帳はあっという間に落ちる。陽光の眩さはとうに消え、結局昨日と大差ない時間になっている。そろそろ帰る? という周の言葉が蘇る。どうして、素直にそうすると言えなかったのか。
決まっている。意気地が無いと思われたくないからだ。ちっぽけなプライド。そのくせ一人になった瞬間、額に汗かき必死に走っているんだから世話は無い。
夜気に体を晒していると、不意に昨日のヴィジョンが脳裏に浮かび視界とシンクロした。
無意識のうちに同じ道を走っている。
つまり。
一心不乱に動き続けていた双脚が緩む。
青白い誘蛾灯が薄く開く門を照らす。
あの空き地が薄く口を開き待ち構えていた。
数年前に公営住宅建設の計画が頓挫して以来、その土地は明確な管理者を置かぬまま資材だけを残し放置されている。周囲は侵入を拒むように工事用のフェンスで囲まれているが、肝心の門の鍵が壊されており使命を果たせていない。雨風によって表面を痘痕塗れにされた『立入禁止』と書かれていた立て看板だけが、申し訳程度にその横に突っ立っていた。
電力の供給はとうに打ち切られているのだろう。敷地は暗く静まり返っており、街路から提供される僅かな光量から遠ざかればたちまち足元すら見えなくなってしまう。ひっそりと佇む暗渠は原始的な恐怖を湧き上がらせる。レオは知らず小刻みに震える足を、軽く叩いた。
――得体も知れない何かに、これ以上揺さぶられて堪るか。
じり、と靴底が砂利を噛む音が高く響いた。
門の隙間から体を滑り込ませる。分かってはいたが暗い。目を凝らすように細めしばらく立ち止まっていると、少しずつ置き捨てられた資材の輪郭が浮き上がってくる。レオは周囲に気を張り巡らしながら、フェンスに片手をつきゆっくりと歩き始めた。
まだところどころに昨晩の雨による水溜まりが残っている。ぴちゃり、という音と共に靴下がぶよぶよと膨れ上がるたび、レオはまだ見ぬ敵への憎悪を膨らませていった。
絶対殴る。ホームレスでもチンピラでも、とりあえず一発は殴る。
滲み出る汗を拭うため、ふと視線を上げたとき。
大きな口を開けて浮かんでいた月を何かが遮った。
冷たい風が身体を撫で上げる。全身の毛穴がぞわりと逆立つような、圧倒的な戦慄。
「――まさかとは思ってたけど、本当に生きてるとはな」
声が、空から降ってきた。
うず高く積まれた資材を隠すブルーシートの上の影。ぼんやりとした街灯に照らされたその顔は、フルフェイスのような灰色のマスクで覆われている。その額には存在を誇示するかのような二本角。
レオはそれと同じ姿をした連中をよく知っていた。
ヒーロー。幼い頃に夢中になった戦隊シリーズがテレビから飛び出して来たかのようなその連中は、昨年の秋ごろ唐突に花丸高校野球部を席巻した。始めはレッド一人だったのが、ブルー、イエローと数を増やし、今では何人になったのか。正確なところは分からないが、もうスターティングメンバーを独占するほどのヒーローが在籍しているとも聞いたことがあった。
そんな連中が、どうしてここに。
心臓が飛び出しそうなほど強く脈打っている。
灰色の戦士グレーはたっぷりとその立ち姿を示威すると、唐突に和式便所よろしく座り込む。
「いや~、死体が無いからおかしいとは思ってたんだよ。ほら。俺、雨嫌いだろ? 朝までに回収して始末すれば、それでいいかってね。それが、おかしいよなぁ。朝イチで来たら、どこにも無いんだからよ。すごい雨だったから、流されちまったのかと思ったわ! あ、これジョークな。グレージョーク」
見えないはずのマスクの下の顔が、ニヤリと悪趣味に歪んだように感じた。
死体。回収。始末。
ヒーローの口から発せられるとは思えない不穏なワードが耳朶を打つ。だがそれらは言葉として吸収されることはなく、羽虫のようにぶんぶんと不快な音を立てながらレオの周囲を飛び交う。
「おーい、言葉を忘れたか? まさか幽霊です、なんて言わねぇよな?」
「昨日のことは、マジだったのか」
「お、やっと喋ったな! 良かった~。俺、幽霊なんて信じないタイプだろ?」
「……何をしたんだ、オレに」
三つのピースは既に決まった組み合わせを見つけている。無意識のうちに掌が腹部の傷痕をなぞった。
「何って、覚えてないの? ここで見たことも? 自分が何をされたのかも? ぐ、グレーパンチは覚えてるよな? 俺の必殺技!」
灰色の戦士が拳で空を切るのをレオは口を真一文字に結び睨みつける。グレーはあからさまなオーバーアクションで、がっくりと肩を落とした。
「マジかよ。なーんにも覚えてないの? 勿体ないことしたなぁ。俺ってほら、キックよりパンチ派だろ? ……そうかぁ、覚えてないのか。それなら見逃してやっても良かったんだけど。喋っちまったもんなぁ、俺。まぁ、昨日も今日も大した差はねぇか」
グレーがその無表情なマスクを少年へと向けたとき。明確な殺意というものを、レオは全身から噴き出るじっとりとした汗で感じた。
「寿命が一日延びたんだ。今日は特別、素晴らしい日だっただろ?」
この場にいるのはまずい。
咄嗟の判断で身を翻した。せめて、明るいところに。
「――おっと、逃がさねえよ」
通り抜ける風。眼前に能面が現れる。このまま押し通る。決意を固め、身を屈め肩から突っ込む。グレーは体当たりをさらりと左手でいなすと、流れるような動作で右足を無防備なレオの腹部に叩き込んだ。呼吸が止まる。次の瞬間には、レオの身体はまとめて置かれていた鉄パイプを巻き込み派手な音を立てて吹っ飛んだ。
「この感触よ。昨日も確かに、お前にぶち込んだハズなんだ。お前だってわかってるだろ? なあ。教えてくれよ。なんで生きてんだ、お前」
ゆっくりと近づいてくる灰色の影。レオは鉄パイプを両手で握り締め、力の限り横に薙いだ。空気を重く裂く。満身の力を籠めた一撃は、いとも容易く戦士の左手に受け止められた。そのまま半回転。捻り上げられた鉄パイプからレオの両手が離れた。グレーは無造作に鉄パイプを投げ捨て前進。腕でガードを作る暇も無く、脇腹、右頬へと連続して鉄拳が打ち込まれた。口の中に鉄錆の味が拡がる。肋骨も何本か折れたのか、浅く息を吸うだけでも激痛が暴れまわる。
倒れまいと震える足を踏ん張らせ、目を涙で滲ませながらレオは叫ぶ。
「お前……ヒーローじゃ、ねえのかよ」
「ヒーローだよ。見ての通りだ。ヒーローじゃなかったら、ただのコスプレ野郎になっちゃうじゃないか! あ、今のもグレージョークな」
「俺が、何を、したって、言うんだ」
「何もしてないんだろうなぁ。かわいそうに――ほらよッ」
組まれた両手がハンマーのように垂直に落ちてくる。背中。成す術もなくうつ伏せに倒れた。一瞬の猶予も無く、グレーは起き上がろうとする少年を横から蹴り上げる。行き場を失った血液が、反吐となって口から漏れた。
息をするのが辛い。数えるほどしか受けていない打撃の一撃一撃が重い。何よりも、全く勝てるヴィジョンが浮かばないのが、闘争心を根こそぎ刈り取ろうとしている。
それでも、レオは膝を立てた。
この時間を愉しむかのように緩慢に歩いていたグレーは、思わず柏手を打った。
「おいおい、ずいぶん元気じゃねぇか! ヘコむなぁ、昨日のだって渾身の一撃だぜ? そんなにピンピンされてたら、もしかして俺、やっぱりただのコスプレ野郎だったのかもって思うじゃねえか。あ、昨日会ったのは双子か何かか?」
相手が誰か。理由が何なのか。もうそんなものは、どうでもいい。
「すげえよ、お前。普通立ってらんねえって。ご褒美に、そろそろ終わらせてやる」
やられっ放しだけは、我慢がならない。
絶対に殴ると、心に決めたのだ。
臍下丹田に力を籠め立ち上がる。冷めきっていた血が沸騰するように熱く全身を駆け巡る。泉が湧き出るかのように気力が漲る。脳髄に獣の咆哮が響く。もう、この小さな身体には収まらない。
少年が吼えた。
その相貌に、豹の化生の姿が浮かび上がる。
びりびりと空気が震える。グレーは縫い付けられたかのように、その場に留まった。
少年の小さな身体は、見る見るうちに中世の彫刻を思わせる灰色の外骨格に包まれていく。
「おいおいおい。そいつは、笑えねえジョークだぜ……」
そしてレオは鈍色の異形、レオパルトオルフェノクへと姿を変えた。
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