パワプロクンポケットΦ 6話『果てなき炎の中へ』(パワポケ7異聞)
1章のうちに彼女候補全員出したかった…!
これにて第1章《Dead or Rebirth》は終了です。
ここまでお読みいただき誠にありがとうございます。
幕間を挟み、次回からの第2章《The Hero with No Name》も引き続きお楽しみください。
あ、でも来週のドヨルはお休みします! ごめんなさい!
前の話はコチラ。
春の陽気を運ぶには強すぎる風が頬を乱雑に撫でる。花丸高校のグラウンドでは野球部員たちがそこかしこでストレッチやキャッチボールを行っている。そのどれもが半年ぶりに見る懐かしいと言えなくもない顔だったが、想像していたよりも遥かに数は少なく、またいくつかの見知らぬ姿も混ざっていた。
仮面のヒーロー。その数は記憶の中よりも多い。小さな舌打ちと共に、スパイクをグラウンドに噛ませた。
「古河君!」
誰よりも早くその姿を見つけた七瀬が駆け寄りながら張り上げた声に、球児たちの視線が集まる。ジャージに野球帽という幾分不格好な出で立ちのレオは面倒そうに小鼻に皺を寄せ、思わず気だるげにグラウンドの外を見た。
「復帰、決めたんだってな。東さんに聞いたよ。ありがとう」
「別にお前のためじゃねえよ」
「相変わらずだなぁ。また一緒に頑張ろうぜ……ってその手、どうしたんだよ!」
「何でもねえよ。ちょっと転んだだけだ」
引ん剝かれた七瀬の視線から隠すように、レオは右手に巻かれた包帯を背中に隠した。根元から剥がれ落ちた爪の再生は一晩では不可能だったのか、現在の右手の惨状は正視に堪えるものではない。応急処置とばかりに梨子に包帯を巻いてもらったのだが、その手際はあまり褒められたものではなく、傍目には復帰を決めた人間とは思えぬほどの大怪我のようにも見える。勿論、常人としてはその通りなのだが。
訝しむ七瀬を置き去りにして、レオは部室の前でマネージャーの霧島玲奈と話していた東の元へと向かう。東は視線でレオを認めると、口元を柔らかく緩ませた。
「よし、全員集合!」
キャプテンの号令に部員たちが集結する。野球部の面々は顔つきこそ引き締まっていたが、こちらをちらちらと窺い見る視線は嫌というほど感じる。少ないとはいえ、さすがにこれだけの数からは逃げることもできず、レオは群れの最前線に陣取る赤い仮面を睨むように正面から見据えた。当然ながら、レッドの表情は読めない。こちらを見ているかどうかも分からない。
「今日から古河君が復帰することになった。半年前だからみんな知っていると思うけど、皆よろしく頼む」
ウス、とかハイといったおざなりな返事の中、一際元気な声で七瀬の声が響き渡る。やめろよ、バカ。決まりが悪くなり目を閉じると、脇腹をそっと突かれた。
「あいさつ」
「あぁ?」
「こういう時は決まってるでしょ。ほら、ひと言でいいから」
バインダーで口元を隠しながら声を潜める玲奈に、レオは露骨に額に皺を寄せた。さっさと練習に移ればいいだろうにと東に助けを求める視線を送るが、それは柔和な微笑みで叩き落とされた。
こういう目立ち方は嫌いだ。だが、はっきりさせておくのも悪くないかもしれない。
レオは鼻から息を吐き出し、ヒーローたちを一瞥した。
「まだ本調子じゃねえけど、俺は絶対に甲子園に行く。それだけだ」
球児たちのざわめきを前に、レオは忸怩たる思いで顔を伏せた。やっぱり、やめときゃよかった。改めて声に出すと、思っていた以上に悪目立ちする。
「古河君って、そんなキャラだったっけ……?」
戸惑いを隠そうともしないマネージャーの呟きを黙殺する。それは部員一同の声を代表しているようにも聞こえた。
仕方ねえだろ。アイツが居たら、たぶんそう言ったんだから。
動揺の治まらぬ部員たちの前で、東が一度大きく手を打った。
「心強い仲間が帰ってきて嬉しい限りだ。よし、じゃあカントクが来るまでランニング!」
部員たちはそれぞれ近場の仲間たちと談笑しながら、グラウンドの内周ルートへと散らばっていく。皆一様にこちらをちらりと見ていたが、レオは気付かない振りをした。
「良い挨拶だったよ、古河君。今日はどうする? 投げるのは無理そうだけど」
「ランニングは出ます。バイト先に行かないといけないんで、後の練習は見学して途中で抜けてもいいスか」
もちろんと頷き、東はランニングの隊列の先頭へと走り出した。
怪我が治るまで、肌感覚ではあと一日。そこからの復帰でも悪くは無かったが、どうせなら今の野球部の様子を見ておきたかった。
それに、ヒーローたちの出方も窺える。
インデゴは明らかにオルフェノクたちを従えていた。狩人と獲物だと思っていた両者の関係は、どうやらそうではないのだろう。グレーとの交戦時は、自分が怪物だと発覚したからだと思っていたが、ヒーローにはもっと大きな秘密があるのかもしれない。何もしなくても向こうから手を出してくる可能性は高いが、後手に回るのは性に合わなかった。
テメェらの正体、絶対に明かしてやるからな。
東に追随して集団の先頭を張るレッドをきつく睨みつけ、レオもその後を追った。
オルフェノクになる以前からランニングは続けていた。そもそも、体力には自信がある。
すぐに最後尾に追いついたレオに、一周目から既に辛そうに顎を上げる少年が話しかけてきた。
「ふっ、古河君。さっきの挨拶、すごかったね」
「あぁ? 高校球児なら当たり前だろ」
つい昨日までは夢にも思っていなかったことを口走りながら、レオは猫毛を短めに刈り上げた気弱そうな瞳の少年の名前を思い出そうとした。
しかし、さっぱり記憶にない。
レッドと東の間に割って入ろうとする七瀬でないことは分かっている。眼鏡を掛けていないから湯田でもない。森盛でも台場でも有田でも白石でも野丸でもない。阿部、村野、守岡、竹川、南条、三木――手当たり次第に覚えている名前と顔をモンタージュのように入れ替えていくが、そのどれでもない。
誰だっけ、コイツ。
そんなレオの困惑を知ってか知らずか、猫毛の小柄な少年はへにゃりと笑った。
「あっ、ボクは潮だよ。違うクラスだし、ヘタクソだから覚えてないよね」
「……いや、そんなことねえぞ。ウシオ、潮だよな。ちゃんと覚えてた。外野だったっけか」
「一応、内野だけど……」
それきりレオは口を真一文字に結んだ。余計なことは言うもんじゃない。
潮は特に気にも留めていない様子でレオを見上げた。
「甲子園なんていきなり言うから、ボク感動しちゃったよ」
「――そうか? 俺たちがいれば当然だろ」
レオと潮の間に、前の集団からペースを緩めてきたヒーローが割って入る。その声を聞いた瞬間、レオは全身の毛がぞわりと逆立つのを感じた。
茶色の戦士はレオの顔を覗き込むと、両手を大げさに広げて見せた。
「お前もご苦労なこったよな。せっかく戻ってきても、俺とシルバーがいたら出番なんて回ってこないだろうしなあ。まあ、あの頃よりヒーローも増えたし、サポートは何人いても困らないからいいけどよ」
「オレは、お前らにも負ける気はねえ」
「おう、威勢がいいなぁ。頼もしいこった。ま、ただの人間と俺らの差ってヤツを見てから、もう一回同じことを言えるかねえ」
たっぷりと優越感を語気に滲ませ、ブラウンはペースを上げ先頭へと戻っていく。その背を睨みつけるレオに、潮はおずおずと声を掛けた。
「あの……ごめんね」
「あぁ? 何がだよ」
「いや、だって、古河君の怪我って、ブラウン君の所為だし……」
「なおさらお前が謝る意味が分かんねえ」
「それは……古河君、すごい怖い顔してたし……」
まるで自分が怒られているかのように潮はしゅんと萎む。
そんな少年の心遣いなど全く意に介さず、レオはブラウンの言葉を反芻していた。
――ただの人間と俺らの差。
ブラウンはレオをただの人間だと思っている。無関係な潮の前だからそう言った可能性はあるが、愉悦交じりの口調は心底信じきっているように聞こえた。
ヒーロー間でも情報が知れ渡っているわけではないのか。
インデゴは『聞いていない』と言っていた。レオか周、いずれかがオルフェノクだと知っていたのだ。その情報提供主は誰か。ヒーローの内部事情も含め、今はまだ分からないことだらけだ。
デコイは他ならぬ自分自身。
来るなら来やがれ。
赤黒い染みが日除けの裏に残る帽子を目深に被り、今はただ黙々と足を動かした。
「次ぃ! ショート!」
金属バットの高い打撃音が響き渡る。
鋭いゴロが三遊間を破らんと疾駆する。
これはヒットコースだ。打った佐和田も、木陰に座り込みノックを見学していたレオも思った。
しかし白球は、外野に抜けようかというところで茶色のグラブに捕らえられる。
左手一本の逆シングル。
七瀬は右足で踏ん張り、捕球体勢から流れるような動きでそのまま一塁へと球を放った。
理想的なワンバンド送球が台場正のファーストミットに収まった瞬間、レオはおお、と思わず小声で感嘆した。
「すごいよね~、七瀬君。守備だけはヒーローにも負けてないもん」
いつの間にか横に立っていた玲奈が嬉しそうに目を細める。守備『だけ』はという言葉通り、七瀬はトスバッティングですら空振りの方が多いほどに打撃センスが無い。歯にもの着せぬ言い方をするマネージャーだったが、そういうところはレオも嫌いではなかった。
「打球判断が良いな。肩も前より強くなったんじゃねえか」
「ホントに守備のセンスは凄いよね。エラーばっかりしてた頃がウソみたい」
「……そんな頃、あったか」
実戦練習や練習試合の記憶を紐解いてみても、そんなに頻繁にエラーをしていた覚えはない。なまじ守備範囲が広いだけに打球を追い過ぎてエラーになることはあったが、それは誰もがヒットになると諦めていたものばかりだ。
「うん。って言っても、中学校の頃だけどね」
「お前ら、中学から知り合いだったのか」
「ううん。たまたま一試合見ただけ。とんでもないエラーで先輩に怒られてんのに『俺は甲子園で優勝してプロになります!』なんて言ってて、びっくりしたよ」
「……アイツらしいな」
甲子園という言葉に不意に周の顔が脳裏を過ぎり、レオは帽子の日除けを下げた。
「花丸に来てから訊いたんだけど、家に帰ってから悔しくなって大泣きしたんだって。それで『先輩や監督、観客、みんなを見返せるようなプレーをしてみせる!』って決意して、とにかく守備は鍛えまくったらしいけど……打撃は完全にお留守になっちゃったみたいだね」
「……それもアイツらしいな」
ノックが一巡したのか、再び七瀬の番が巡ってきた。
正面へ飛んだスライス気味のゆるいゴロへと猛然と突っ込み、素手で白球を引っ掴む。半身を入れ替え、ジャンピングスロー。見ていて小気味良い軽快な守備からは、玲奈が語ったような姿は微塵も想像できなかった。
「なあ、霧島。今、ヒーローは何人レギュラーなんだ」
「ん? えーと……見たまんまだよ。レッド君、ブルー君、イエロー君、ピンクちゃん、オレンジ君。それと、ブラウン君とシルバー君。二人はピッチャーだから、六人かな」
玲奈の顔に影が差す。この状況を甘受していないのは、どうやら東や七瀬だけではないらしい。
「もう、ほとんどのポジションは埋まっちゃってる。三年生は東さん以外、みんな受験だって言って辞めちゃった。残ったみんなも顔には出さないけど、やる気を無くしてる子もたくさんいるよ。有田君なんかは露骨だけどね。今日も練習休んでるし」
「……そうか」
この状況で腐るなという方が難しいだろう。もしかしたら、明日には全てのポジションが埋まってしまうかもしれない。撃破したとはいえ、現にレオは彼ら以外にもヒーローがいることを知っている。
東や七瀬が焦るわけだ。
レオは次々と放たれる白球を目で追いながら、右手を強く握り締める。
ノックを受けるヒーローたちのバイザーのひとつがこちらを凝視していることなど、一切気付く由も無かった。
Φ
太陽が傾いてしばらく経った頃、レオはバイト先に辞意を申し出るため花丸高校を後にした。
もともと日中に入れるのは春休み期間のみだったので、新学期以降のシフトは相談の上ということになっていた。練習後にバイトに入ったとしても2,3時間は働ける。ただ自身の性格上、野球部とバイトの二足の草鞋を器用に履きこなすことができないであろうことは自分が一番よく分かっている。
他のバイトの穴を埋め休日返上でシフトに入っている駆のことを考えると胸が痛んだが、こればかりはどうしようもない。
憂鬱な気持ちを抱えたまま商店街に向かう道を歩いていると、往来の向こうに少女が見えた。
アイツは――。
キョロキョロと周囲を見回す横顔に揺れる花柄のピンには、見覚えがある。咄嗟に回れ右をしたレオは、とたとたと駆け寄ってくる足音を聞きながら、見過ごしてくれと一縷の望みを賭けた。
「あのっ、古河さん……ですよね」
時、既に遅し。
レオはばりばりと襟足を掻きながら振り向いた。
心底面倒そうな表情をしていたつもりであったが、桜色のパーカーに身を包んだ春香はぱっとその小さな顔に花を咲かせた。
「やっぱり! こんな所でお会いできるなんて、恐縮ですっ」
「……なんだ。またオルフェノクに襲われてんのか」
「オル……フェノク? ああ、もしかしてこの前の! お陰様で、あれからは平和平穏な暮らしを送れてます! ご安心ください!」
安心するのはお前だよ。
やたら活発に口を動かす少女から視線を逸らしながら、こんなに元気なヤツだったっけかと溜め息を漏らした。レオの記憶の中では、怪物に狙われた薄幸の少女として認識されていたらしい。
「私はですね、この春から通う高校への道順を予習しているところなんですよ」
「高校?」
「はい! 花丸高校です!」
その言葉を聞いた瞬間、レオはだらりと顎を下げた。よりにもよって、同じ高校か。梨子の言葉を信じるならレオパルトオルフェノクの姿は見られてはいないとは言え、事情を話されれば色々と厄介なことになる。先に手を打たなければいけないという意味では、ここで会えたのは僥倖だったのかもしれない。
何が可笑しいのか、ニコニコと音がしそうなほどに満面の笑みを浮かべていた春香は、レオの着ていたジャージの胸元に貼り付けられた校章のワッペンに気が付くと、あっ、と小さく声を上げた。
「もしかして古河さん、花丸の……?」
「……ああ。お前のセンパイになるな」
そう呟いた瞬間、春香はまたもや音がしそうな勢いでびしりと腰を90度に折った。
「すっ、すいません! ま、まさか花丸の、直属の先輩に助けてもらっていたなんて、全然知りませんでした!」
「あぁ? いや、別にそんなの」
「古河さんのような頼もしい方がいる学校に入学できて、私とても光栄ですっ!」
相変わらず後頭部を晒したまま叫ぶ春香に、周囲の通行人が何事かと視線を送る。針のムシロとはこのことかと、レオは天を仰いだ。
「とりあえず、頭上げろ」
「は、はいっ! ありがとうございます!」
敬礼のおまけと共に春香が起き上がる。
何だ、この態度は。
命の恩人だからとかそんな理由じゃ説明できない慇懃さを感じ取ったレオに、不意に空き缶女のしたり顔が連想された。
「なあ。ひとつ訊いていいか」
「はい! ひとつと言わず、いくつでも!」
戦時中の兵隊さながらに直立不動を崩さない春香が背筋を伸ばす。通行人のひそひそ話を拾い取ってしまうオルフェノクの耳が恨めしい。
「お前、リコに何を吹き込まれた」
「えっ? それは、その、古河さんが」
「オレが」
「あの……高校の番長で、このへんの不良と昼夜を問わず戦ってる正義の味方で、ナワバリを荒らしたり弱い者いじめをしている相手は容赦なく病院に送り込んで、先生はもちろん警察も手を出せないくらい強い方で、それとそれと――」
途中から虚しくなってきたレオは、春香の台詞が終わらぬうちから盛大な溜息を吐いた。
リコ、テメェ覚えとけよ。
実際には非現実的な出来事による興奮と混乱による春香の独りよがりな思い込みが脚色に拍車をかけているのだが、そんなことは露知らず。今日こそ追い出してやると固く拳を握った。
「あのな。それ、ひとっつも合ってない」
「え? 高校の番長というのは」
「違う。たぶん、花丸にそんなのいねえ」
「不良と戦っているのは」
「それもウソだ」
「病院送りに」
「一回もしたことねえ。お前、オレがそんな危ねえヤツに見えるか」
ぽかんと口を開けていた春香は、僅かに首を傾げはにかんだ。
「……少し?」
なるほど。オルフェノクに襲われてもケロリとしているのは、この図太い神経か。
少しだけ合点がいったような気がした。
「あ、でも。ひとつだけ、ホントのことがありますよ」
「なんだよ。まだなんか吹き込まれてんのか」
うんざりしながら投げやりに訊ねたレオに、春香はゆっくりと首を振る。花飾りが揺れ、柑橘系のシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。
「いえ! 古河さんは、見ず知らずの私を助けてくれた正義の味方です!」
恥ずかしげもなく断言する春香の眩しすぎる笑顔から、レオは思わず視線を逸らした。
正義の味方。そんな大層なものになった覚えはないし、なるつもりもない。というより、自分はその正義の味方に狙われる怪物なのだ。
その怪物の力をもってしても、大切な相棒一人すら守ることができなかった。
「お前を助けられたのは、たまたまだ。次は分かんねえ。いいか。間違ってもオレを、正義の味方だなんて言いふらすなよ」
「えっ? はっ、はい」
強い語気に気圧されたのか、春香は僅かに後ずさりしながら頷いた。
少しきつい物言いになってしまったことを後悔しつつも、こうでも言わないと何を言われるか分かったもんじゃないと、レオは無理矢理自分を納得させることにした。
「学校まで行くんだろ。迷うなよ。じゃあな」
ジャージのポケットに手を突っ込み、春香の横を通り過ぎる。
これで学校で会うことがあっても、もう無暗に絡んできたりはしないだろう。
「あ、あのっ! 古河さん!」
――と、思っていたのだが。
首だけで振り向くと、胸の前で両拳を握り締めた春香が今まさに叫ばんと息を吸うのが見えた。
「高校に入学したら、ケータイを買ってもらえるんです! そしたら、メアド、交換してくださいっ!」
どうしてそうなる。
天を仰ぐレオの耳に、通行人たちのやっかみの声が入ってくる。
何あれ、コクハク?
すごーい、がんばれ!
セイシュンっていいわね~。
あの子、可愛いじゃん。ウラヤマシー。
「分かった! 交換する! するから、さっさと行け!」
やけくそ気味に叫ぶ。歓声と共にパラパラとさざ波のような拍手が聞こえたときには、レオは思わずオルフェノク化して逃げ出そうかと真剣に考えてしまった。
春香は顔いっぱいに喜色を滲ませると、ぺこりと一礼し学校への道をスキップ気味に駆けて行った。後ろ姿でも、ガッツポーズを作っているのがよく分かる。
レオはその臀部に犬の尻尾のようなものを幻視しつつ、あ、と呟いた。
――そういや、ケータイ持ってねえや。
Φ
「そうか……古河君、野球部だったんだね」
昼下がりのピークを乗り切った頃に辞意を告げると、駆は驚き、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「スイマセン。なんつうか……怪我の治りが、思ったよりだいぶ早くて」
「謝らなくていいよ。むしろ良いことじゃないか」
時刻は五時過ぎ。主婦層も帰宅したため、店内は高校生くらいのグループと中年男性の一人客がいるだけだ。
「前も言ったけど、若いうちはやれることはやった方がいいからね。バイトはこの先いつでもできるけど、部活に打ち込めるのは高校生の特権だよ。野球、好きなんだろ?」
「まぁ……でも、リーダーには迷惑かけますし」
「気にしなくていいよ。春休みのシフトも調整してみるからさ」
ぽんと軽く背中を叩かれる。たかが一バイトにここまで親身になってくれる駆に、レオは思わず頭を下げた。
「いいよな、野球。昔はちっとも興味が沸かなかったけど、歳を取ると趣向も変わるもんだね。ドリルトーイがモグラーズっていう球団を持ってたの、覚えてる? 今あの頃に戻れるなら、サインを貰いたい選手ばっかりだよ」
つぶらな瞳を細める駆もあと少しで見納めか。そう考えると、やたらとスケールの大きな妄想話にも最後くらい付き合ってやろうかという気になる。
ドリルモグラーズはかつての名で、親会社の変更により大神モグラーズに、そして今季からは大神ホッパーズへとその名を変えた。初優勝、日本一を見たのは小学生の時だったか。他球団ファンの父ですら大いに盛り上がっていたのを、おぼろげながらに記憶している。
「リーダーは誰のファンだったんスか」
「やっぱり水木かな。派手さは無いけど頼りになるというか、仕事人っていう雰囲気が良いよね。まだやれただろうに、引退はちょっと勿体ないよな」
駆の口から出た名前に思わずレオの頬が緩む。水木卓はレオも好きな選手だ。派手な選手が増えてきた中で、マスコミ映えしない質実さとたまに見せる闘志が少年の幼心をくすぐった。
昨年はコーチと選手を兼任していたが、兼業の激務が災いしてか、はたまた寄る年波の影響かシーズン終了まで期待された成績を残すことができず、引退が発表された。
遥か昔、父に連れられて観に行った二軍の試合で行列に並んで手に入れたサインボールは、どこに行ったのだろうか。多くの女性ファンに挟まれ居心地が悪かったのか、もう帰ろうと何度も父に急かされ涙目になったことを思い出す。やっとのことで目の前に現れた水木はテレビで観た通りの険しい目つきで、レオがボールを差し出した時もニコリともしてくれなかったが、少年にはそれがかえって恰好良く見えたのだ。がんばってください、というレオの言葉にも水木は曖昧に頷くだけだったが、去り際にポンと頭を撫で「お前も頑張れよ」と不愛想に呟いた。肉刺だらけの大きな手の感触は、今でもはっきりと覚えている。
「オレ、サインボール持ってますよ」
「ふふ。実は、ボクも持ってるんだ。というのも、卓は大学時代の友人なんだよ」
「えっ? ウソでしょ」
「ホントだよ。まあ、もう何年も会ってないけどね」
「いや、さすがに元プロと友達って」
言いかけて、途中で止めた。嘘でも本当でもどちらでも良くなったのだ。
本人にそのつもりはないのだろうが、駆の言葉には勇気付けられてきた。年長者として決して納得して生き続けてきたわけでは無い駆が、ほんの少し前に知り合っただけで何の縁も無いレオにその苦悩を打ち明けてくれたこと。それ自体が嬉しかったのだと、今になって気が付いたのだ。
「リーダー。色々、ありがとうございました」
「ど、どうしたんだ、いきなり。ボクの方こそお礼を言われることなんて、何も」
「オレ、精一杯やってきます。できるかは分かんねえけど、精一杯やってから後悔する」
突然柄にもなく殊勝な態度を取ったレオに戸惑っていた駆だったが、その言葉を受け心底嬉しそうに眦を下げた。
「頑張れよ。詳しいことは何も分からないけど、古河君ならできるよ。ボクと違って度胸があるからね――あ。でも、もし知り合いでバイトを探してる子がいたら、紹介してくれると助かるな。いや、無理に探さなくていいんだけどさ」
年長者らしいことを言っていたと思ったら、急に地の気弱な性格が飛び出してきたため、レオは思わず吹き出した。
すぐに浮かんだのは同居人の空き缶女だったが、彼女は既に時給3000円のバイトをしている。今更こんな薄給バイトには食いついてこないだろう。
駆のためにも、後任を探してみないとな。そう考えていたとき、中年男性が何杯目か分からぬコーヒーのおかわりを申し入れてきた。
「はい、すぐお持ちします」
駆が素早く厨房へポットを取りに戻ったとき、来客を知らせるカウベルが鳴った。
「いらっしゃいま……」
最後くらいは気合を入れてやろうかとこしらえた作り笑いが固まる。
「あれ、古河君?」
「ウェイターでやんす!」
野球部では見せたことも無い媚びた笑みを瞬時に引っ込め、レオはぶっきらぼうに「勝手に座れ」と吐き捨てた。
Φ
喫茶店の常連だという七瀬と湯田の来店もあってか、最後のバイトは定時よりもかなり早い七時に上がりを告げられた。週末ということもあってか客足が遠く店内も閑散としていたため、駆ではなく店長から直々に命じられたのだ。
普段見ない一面を見たのがそんなに面白かったのか、商店街内に住む湯田と早々に別れてからも、七瀬は時折思い出し笑いを繰り返していた。
「お前な、いい加減失礼だぞ」
「いや、悪い悪い。でも古河君、あまりにも笑顔慣れしてないから……ぷくく」
謝るそばから苦笑を漏らす七瀬を置き去りにして、レオはずんずんと大股で歩く。
「ああ、俺が悪かったから! 待ってくれよ!」
駆け寄ってきた七瀬はわざとらしく拝むように両手を合わせると、ジュース奢るからちょっと話さないか、と言って近場の公園を親指で指し示した。
レオは飲みたくもないエナジードリンクを買うと、ブランコに腰掛けた。選定基準は単純にこれが一番高かったからだ。
街中にしては広い公園の敷地内に二人以外の姿は無く、風に揺れる葉音がごうごうと大きく聞こえた。誰かが出しっぱなしにしたのであろう蛇口から流れる水を眺めていると、それを止めた七瀬がエナメルバックを投げ出し隣のブランコに座る。
「いやー、でも戻ってきてくれて本当に良かったよ。見ただろ、今の野球部。半分以上ヒーローがレギュラーを占めてたら、もう花丸の野球部じゃない。古河君もそう思うだろ?」
「……まあ、そうかもな」
「俺たちで力を合わせて、ヒーローをベンチに追いやるくらいの力をつけようぜ!」
「オレらだけじゃほとんど変わんねえけどな」
ぶっきらぼうに言い放つレオに対し不満げに唇をひん曲げていた七瀬は、そうだ、と呟き勢いよくブランコから立ち上がった。
「周君も戻ってきてくれないかな?」
ぴくりと頬が痙攣する。
アイツはもういない。
名前を聞いた瞬間、その事実が荒波のようにレオを呑み込んでいく。
ヒーローを倒そうと、そして甲子園に行こうと誓ってくれた相棒は、もうどこにもいないのだ。
押し殺すように抱えていた感情の蓋が開きそうになるのを、レオは必死の思いで落ち着かせ声を振り絞った。
「アイツは、怪我が治ってねえからな」
「あっ、そうなんだ……でも、リハビリはしてるんだよな?」
「さあな。してるんじゃねえか」
「それなら、戻ってきた方が復帰も早いんじゃないかな? 俺たちも、何か手伝えるかもしれないし」
七瀬は食い下がらない。
次第に募ってきた苛立ちを隠しきれず、レオは吐き捨てるように言った。
「本人の意思だろ。何も言ってこねえなら放っておいてやれよ。いい迷惑だ」
思った以上に棘のある言葉になる。
マズい、と思ったときには既に、七瀬の顔には訝しみの色が濃く浮き出ていた。
「なんかヘンだよ、古河君。まるで、周君に帰ってきて欲しくないみたいだ」
「誰もそんなこと言ってねえだろ。勝手な想像を押し付けてくんな」
ここで七瀬と言い争っても何の得にもならないことは分かっているのに、口は誰かに操られているかのように次々と雑言を並び立てる。
「なあ、もしかして周君と何かあったんじゃないか?」
「何もねえよ」
「なら彼を誘ったって問題ないだろ」
「お前な――」
「――古河君は!」
突然飛び出した叫び声に、公園の木々がざわりと呻いたように聞こえた。
七瀬は両手をきつく握り締めると、苦悩に満ちた険しい表情でレオを睨む。
「古河君は、最近の野球部を知らないじゃないか。カントクがヒーロー中心のチーム編成を推し進めてる所為で、みんなメチャクチャなコンバートに付き合わされてるんだ。湯田君も村野君も阿部君も、最近はピッチングよりも外野守備ばっかりやらされてる。このままじゃ、みんな3年生みたいに途中で辞めちゃうよ。味方は一人でも多い方がいいんだ。分かるだろ?」
「人を集めてどうするつもりだ。署名でも集めるのか」
「それは……まだ、東さんと話してるところだけど。ヒーローを追い出すためなら、署名でも何でもするさ」
「おい。冗談だろ」
落ち着いて人の言い分を聞いていられるほど、今のレオは我慢強くはない。
何よりも七瀬の語る解決策とやらが、レオの本能に焦がさんばかりの炎を灯してしまった。
ブランコから立ち上がると、額がかち合う距離までずいと近付く。
一瞬狼狽えたものの負けじと睨みを利かす七瀬の目前で、レオは一気に捲し立てた。
「ヒーローのヤツらがレギュラーを独占するのと、テメェの仲良しごっこをごちゃ混ぜにすんな。お前らはアイツらよりも野球が巧いのか? ヘタクソだろ。巧いヤツがレギュラーを張って、その中でも一際巧いヤツらだけが甲子園に行ける。そうじゃねえのか、オイ」
ダメだ。もう、止まらねえ。
眼球の周りがキリキリと痛む。
レオは七瀬の胸倉を掴み上げ、なおも吼えた。
「お前こそ分かってんのか。ヒーローが来る前のウチは一回戦も突破できねえ雑魚じゃねえか。ちょっと巧いヤツが出てきたくらいでやる気を無くすヘタクソと一回戦で負けるくらいなら、オレはヒーロー側について甲子園に行く。行かなきゃいけねえんだ。マウンドだけは譲る気ねえけどな」
「……本気で言ってるのか」
「あぁ? 寝言なんざ言ってねえで、さっさと駅前で署名活動でもして来い」
赤黒く怒張した顔から吐き出される息が熱く頬を撫でる。
七瀬はレオの腕を振り払い、肩を上下させた。
「……気難しいヤツだとは知ってたけど、ここまでだとは思わなかった」
「お前も、もうちょっと骨のあるヤツだと思ってたぜ」
二人は睨み合ったまま微動だにしない。
その時、ひと際強い風が公園の砂を巻き上げた。咄嗟に手で細めた目を覆う。
砂塵の向こうから、何かがこちらへ近づいて来るのが見えた。
「ハーイ、坊やたち。青臭い悩みごとはそのへんにしてもらおうかねえ」
桃色の仮面のハスキーな声が響く。
その背後に控える二体のオルフェノクの姿を認識したとき、レオは全身の血管がかっと沸騰するのを感じた。
ヒーローの存在に気が付き振り向いた七瀬が戸惑いの呟きを漏らす。
「ぴ、ピンク?」
「……オイ、今何て言った」
突如として声色が凶暴性を滲ませた低い声にガラリと変化する。
七瀬がごくりと唾を飲む音が聞こえた。
桃色の戦士がパチリと指を鳴らすと、従者のように控えていた牛の特性を備えたオックスオルフェノクが巨躯を揺らす。
刹那、バスケットボールほどの鎖鉄球が唸りを上げて襲い掛かってきた。
「七瀬っ」
飛び掛かるように少年を突き倒す。
頭上を通過した鉄球は射程一杯まで伸び切ると、ジャラジャラと鎖の擦れる音を響かせながら牛の手元へと引き寄せられた。それ以上の追撃をしようとはせず、ヒーローの脇に再び控える。
アイツは意思があるのか――?
膝立ちのまま七瀬を背後に隠し、レオは間隙なく左右のオルフェノクを交互に見た。
もう一体のコガネムシの特性を備えたスカラベオルフェノクは、息とも鳴き声ともつかない奇妙な音を鳴らしながら、餌の時間を待つ飼い犬のようにじっとこちらを見つめている。
「アタイをあんな媚を売ることしか能の無いヤツと一緒にするんじゃあないよ。アタイはピーチ。よく見な。発色が全然違うだろう?」
「分かるか、七瀬」
少年は目元をごしごしと擦り何度か瞬きを繰り返した。
この状況にしては意外と落ち着いている。あるいは、単に状況が呑み込めていないだけかもしれないが。
「い、いや、暗くてよく……そんなことより、横にいるのは……怪物!?」
「オルフェノクだ。お前は逃げろ」
レオは立ち上がり、砂まみれのエナメルバックを背後に放り投げた。
ブランコを囲う低い柵をゆっくりと跨ぎ越える間、ピーチも二体のオルフェノクも襲い掛かろうとはしなかった。
「オル、フェ……? いや、何言ってるんだよ! 古河君も逃げよう!」
「オレなら大丈夫だ」
もう、同じ過ちは繰り返さない。
レオの相貌に黒い筋が何本も浮かんだ。
息を呑んだ少年がぼんやりと立ち上がる。
瞬きをした次の瞬間にはレオの姿は無く、そこには一匹の灰褐色の豹が佇んでいた。
「古河君……君は」
「分かっただろ。アイツの狙いはオレだ。さっさと逃げろ!」
怒声に背中を押されるように七瀬はエナメルバックを胸に抱き走り出した。二匹のオルフェノクが身を低くし追撃態勢を取ったところで、ピーチの怒号が飛んだ。
「玉無し野郎はほっときな! アイツは後でアタイが洗脳する。それより、ホントにアンタがオルフェノクだったんだねえ。友達を守って一人で戦う。気に入ったよ。アタイに洗脳されるつもりは無い? コワイ顔もアタイ好みだし、可愛がってあげるよ」
「テメェに飼われるくらいなら、ワルクロ団に入った方がマシだね」
「はぁ? 何言ってんだい。まあ、いいわ。交渉決裂ってなら仕方ないねえ。行きな、アンタたち」
異形の怪物が動き出す。
爪はまだ使えない。
レオは曇天に向け大きく吼え右手の甲に刃を備え付けると、左右から迫るオルフェノクへと踊りかかった。
公園に面する幼稚園は暗く静まり返っている。
そのトタン屋根の上に、ブラックは音も無く舞い降りた。
照明の乏しい公園の中央で、三体のオルフェノクが交戦している。
今回の標的、レオパルトオルフェノクの動きは素早く、ピーチの連れてきたパワー自慢のオルフェノクたちの攻撃はことごとく避けられ、豹の斬撃をその身に刻まれていた。
あのオルフェノクは、強い。
それは昨日、インデゴの敗北を見届けたブラックがブルーに報告した言葉だ。
ブルーは見たことがないほど苛立っていた。パイプ椅子を蹴飛ばし机を真っ二つに叩き割るのを、ブラックはただ見ることしかできないでいた。
レッドなら、どうするのだろう。
脳裏に赤いマスクが過ぎる。本来であればブラックの任務は街の哨戒であり、人間の暮らしを学ぶ事だった。レッドから言い渡された特別な任務。それは、ブラックだけが人間としての姿を持って生まれたためであった。
他のヒーローたちが後ろ指を指し、また時には口に出してなじるとき、レッドは必ず彼女の瞳を見て言った。
――お前は、特別な存在だ。お前の存在はいつかきっと、俺たちを導く鍵になる。
彼女は決まって困ったように首を傾げ、こくりと小さく頷く。
突然この世に正義の味方として顕現した意味。レッドは常にそれを求めていた。
オルフェノクの存在は、黒野博士のアジトを強襲した際に保管してあった資料から知った。怪物製造マシーンを強奪して満足したレッドに対して、ブルーは未完成のまま廃棄されようとしていたオルフェノク製造マシーンをリーダーには内密に入手した。
――正義の味方なんて、洞穴に映る影みたいなもんだ。こいつがきっと、俺たちを導く鍵になる。
ブルーはそう言った。
どちらの言葉の意味も、彼女にはよく分からなかった。
豹のオルフェノク討伐を指揮し、ブラックに二つ目の特別な任務を与えたのはブルーだ。
青い戦士に言いつけられたことは二つ。
レオパルトオルフェノクから目を離さず、動きがあれば報告しろ。
この任務は、レッドには言うな。
彼女は困惑した。自分たちのリーダーはレッドだ。それなのに、秘密なんて作っていいのか。
訊ねた彼女をブルーは一笑に付した。
――お前にはまだ分からないだろうが、これも正義のためだ。
正義のため。そう言われてしまっては、彼女は何も言い返せない。
何故なら、自分は劣った存在だから。
レッドは特別だと言ってくれるが、とてもそうとは思えない。パワーは他のヒーローより弱く、能力も姿を消せるだけでヒーローというよりは密偵の方が向いている。さらにこれはヒーロー同士の訓練で知ったことだが、力が弱ってくると人間の姿になってしまう。
特別は特別かもしれないが、それは未完成の出来損ないという意味だ。彼女はいつからか、そう考えるようになっていた。
だが、本当にブルーも正しいのだろうか?
豹のオルフェノクを見てブラックは考える。
いつだってあの少年は、誰かを守るために戦っているではないか。
誰かのために傷つき、爪を折り、血を流しながら戦うあのオルフェノクは、本当に討つべき相手なのだろうか?
オルフェノクに変化するとき、必ず悲しげに口元を歪めるあの少年は、本当に悪なのだろうか?
二体の怪物を前に大立ち回りを続ける豹を見下ろし、ブラックは答えの出ない煩悶を繰り返していた。
レオパルトオルフェノクは速い。
だが、連日の戦闘の疲労の色は濃い。
始めは軽業師のように躱していた攻撃が徐々に避けきれなくなっている。
牛の鉄球が骨を砕き、黄金虫の牙が肉を裂く。鮮血を散らしながら豹は刃を振るっているが、それは二体のオルフェノクの真皮を切り裂くには至っていない。
戦況は明らかに変化していた。
防戦に徹する少年を見ながら、彼女は思う。
あの子は、私と似ている。
人間でありながら人間として生きようと藻掻き。
オックスオルフェノクの鉄球が豹の腹部を打ち抜く。
豹の身体が襤褸切れのように舞った。
いつの間にか握り締めていた拳がじんわりと汗で滲む。
ブラックは、自分があの少年を助けたいと思っていることに気が付いた。
だが、それはできない。
自分の任務は、レオパルトオルフェノクを監視すること。
それすらも放棄してしまえば、もはや自分はヒーローでも人間でもない『何か』になってしまうから。
彼女は祈った。
ああ、誰か。
一人ぼっちの獣を、助けて。
そしてブラックは、閑静な街並みを疾駆する影を見た。
鉄球に吹っ飛ばされた身体が石造りの水飲み場を粉砕する。
勢いよく噴き出た水が顔を叩き、レオは目を醒ました。
衝撃のあまり、一時的に気を失っていたらしい。
踵を地面につけた瞬間に電撃が左脚を走り抜ける。折れたか、ヒビで耐えているか。いずれにしても、これで機動力は大幅に削がれた。
両手を支えになんとか立ち上がると、相手のノックダウンを待つボクサーのようにこちらを睥睨していた二体のオルフェノクがゆらゆらと動き始めた。
ヤバいな――。
爪が使えない今、最大の武器は小回りの利かない右腕の刃だ。切れ味こそ申し分無いものの、満足に懐に入れなければ薄皮を剥ぐこともできない。
ダメージの蓄積ももはや無視できない段階になっている。気を抜けばオルフェノクとしての身体を維持できなくなりそうなほどに、体力の消耗が激しい。
じりじりと後退しながら、右腕を突き出す。
逃げ出してしまおうかという考えが脳裏を過ぎる。足を負傷しているとはいえ、まだ鈍重なオルフェノクたちを振り切るだけのスピードは出るはずだ。体勢を立て直し再戦に臨むことも――ダメだ。心の中で首を横に振る。梨子を巻き込んでしまう。それに今ピーチから目を離してしまえば、七瀬が危ない。
なら、どうすればいい。
自分の出す荒い息の音が耳につく。
生き残らなければいけない。
周との約束を果たし、彼の夢を受け継ぐために。
せめて、一瞬でも隙を作ることができれば。
搦め手を求めて巡らせた視界の隅で、背後の草叢を何かが飛び越えた。
オックスオルフェノクは飛来したそれを無造作に叩き落す。
エナメルバックが地に落ちるのと同時に、七瀬は力の限り高く跳躍した。
「古河君! 今だっ!」
「お前――!」
逃げたものだとばかり思っていたが、息を潜めていたのか、それとも戻ってきたのか。
ともかく、迷っている暇は無い。
レオは両脚で強く地面を蹴り飛ばした。
打点の高い七瀬のドロップキックが胸元に突き立てられる。
牛の異形の両脚は根でも生えているかのようにピクリとも動かない。
だが、注意は逸れた。
須臾の間に詰められた距離。灰色の豹はオックスオルフェノクの足元で踊った。刃が両足の筋繊維を裁断する。反撃たる鎖の風切り音が聞こえた。さらにもう一回転。下腹部から大腿にかけてを、鉄球を繋ぐ鎖ごと袈裟斬りに薙いだ。体液と悲鳴が降り注ぐ。黄金虫が伸ばした長い腕を掻い潜り、左脚を軸に独楽のように舞った。身体がバラバラになりそうな痛みに歯を割れんばかりに食いしばり耐える。裂帛の気合と共に、スカラベオルフェノクの右腕を切り飛ばした。
両足に残った僅かな力を振り絞り、悶絶する二体のオルフェノクから距離を取る。
逆転とまではいかないが、これで形勢はかなり引き戻せたはずだ。
やるじゃねえか。ムチャしやがって。
叫び出したい衝動を抑え、少年の姿を探し辺りを見回す。
だが、七瀬は見つからない。
もう逃げ出したのか。背後へと振り返った。
そこには、オックスオルフェノクの鉄球を腹に埋め込んだ少年が、柵にもたれかかるように座り込んでいた。
「七瀬……七瀬っ!」
オルフェノクの変化が解ける。
間隙を突き逆襲の一手を放った瞬間。オックスオルフェノクの一撃は、レオを狙ってはいなかったのだ。
レオは左脚を引き摺りながら少年の横に倒れ込んだ。
「バカかお前っ! なんで、なんでオレなんかを」
「きまっ……てる、だろ」
口から真っ赤な泡を吐き出しながら、七瀬は震える口を動かす。
少年の半身を壊滅的なまでに圧し潰した鉄球の下でピンク色の臓物が蠢く。それなのに、血液と糞尿をたっぷりと吸ったユニフォームが貼り付く手足はピクリとも動こうとしない。
どうして。やめてくれ。
声にならない声がレオの胸中で渦を巻く。
そんなレオの顔も、もう見えないのだろう。
七瀬は虚ろな瞳を鉄球に落としたまま、困ったようにくしゃりと笑った。
「なか、ま、なん……だ……から」
「今際の際まで青春ごっことは、泣かせるねえ。最期まで聞くこたぁないよアンタたち。その程度でへこたれてないで、さっさとやっちまいな!」
ピーチの檄を受け、二体のオルフェノクの双眸がレオを捉える。
もう、オルフェノクになる力は残っていない。
ここまでなのか。
約束も果たせず、人を守ることもできず、ここで死ぬのか。
いや、まだだ。
迫り来る敵影を睨む。
こんなところでは、まだ終われない――!
臍下丹田に力を籠め立ち上がり、駆け出そうとしたとき、耳慣れない電子音が木霊した。
――『SINGLE MODE』
闇夜を切り裂く赤い閃光が流星のように煌めく。ルビーのように輝く流体エネルギーの光弾はスカラベオルフェノクに着弾した瞬間、炸裂し火花を散らした。続けざまに放たれたフォトンブラッドがオックスオルフェノクの胸を抉る。
携帯電話型の可変光弾銃・フォンブラスターを両手で構えた梨子は、立っているのがやっとのレオと座り込んだまま動かない顔も知らない少年を見て、全てを理解した。
レオの手元に、いつだったか仄暗い研究室で見たベルトと携帯電話が投げ渡される。
「レオ、変身して! そっちの子はあたしが――」
言葉の途中で梨子は息を呑む。衝撃から回復したスカラベオルフェノクが、憤怒の形相で少女へと迫っていた。
「リコっ!」
満身創痍の身体を引き摺るように駆ける。
もうこれ以上、目の前で人を死なせてたまるか。
しかしそんな願いを嘲笑うかのように、鈍重な身体は芋虫が地を這うようにゆっくりとしか動いてくれない。
目前まで迫ったオルフェノクの無数の牙に、梨子は固く目を閉じた。
細い首筋が噛み千切られる寸前、少女は忽然とその姿を消した。
「え――?」
レオがほとんど本能的に公園の入り口へ目を向けると、梨子を抱きかかえた黒いヒーローがふわりと地面に足を着いた。
梨子もまた何が起きたのか分からないと言った様子で、口を半開きにしたまま黒い仮面を呆然と見つめている。
「……大丈夫?」
「えっ? あっ、うん」
「……ちょっと、重い」
「なっ! し、失礼なっ!」
肩を怒らせながら自分の足で降り立った梨子の横で、ブラックは首を傾げる。
「おい、黒いの。アンタ、自分が何したか分かってんのかい」
「……この子は、対象じゃない」
沸々と煮えたぎる湯のような怒りを押し殺したピーチに対し、ブラックは淡々と答える。桃色の仮面の下から舌打ちが聞こえた。
「フン。どいつもこいつも気に食わないねえ。まあ、いいわ。後で洗脳するだけよ。黒いの! アンタも覚悟しておくことだね!」
ピーチが再び指を鳴らす。手負いのオルフェノクたちは、機械仕掛けのようにギロリとレオを睨んだ。
「レオ! 変身して!」
梨子の声で、レオは手元のベルトの存在を思い出した。
オルフェノクを狩る切り札。自分に嘯いて一度は拒絶したチカラ。
自分を含めたオルフェノクという存在が、じんわりと世界を侵食して日常をすり潰していく。ただの野球少年として一球に魂を込めていた日々が、理性の通じないどす黒い悪意で燃やされていく。
その渦の中に身を任せた先に何が待っているのか。それがただ、怖かった。
「アンタなら、レオならできるから!」
少女の悲痛な呼び声。
全てが遅かった。周も七瀬も、もう帰って来ない。
時間は巻き戻せない。やり直しはできない。
飛び込んだ先に待っているのは、更なる悲劇かもしれない。
それでも、果たさなければいけない約束がある。
少年は運命のベルトを腰に巻き付けた。
――オレはもう迷わない。
――迷っているうちに、人が死ぬなら!
「戦うことが罪なら、オレが背負ってやる!」
梨子が叫ぶ変身コード。ひとつひとつに祈りを込めるように、ボタンを押し込む。
――555。
異変を察知したピーチが動き出す。
ENTERキーを押し、ファイズフォンを閉じる。
――『Standing by』
その調べは福音か、INRIたる標榜か。
万感の思いを込めて掲げた右腕。
それはまるでワインドアップのように気高く力強く空気を切り裂いた。
「変身!」
気合の咆哮と共にベルト中央部のトランスホルダーにファイズフォンを叩き込んだ。
――『Complete!』
その瞬間、公園に紅い光が満ちた。
全身をフォトンストリームの真紅の光が駆け巡る。
少年の身体を超金属ソルメタルが覆う。
かくしてこの世界に、超金属の仮面の騎士、ファイズが誕生した。
「あれは……」
「凄い……あれが、ファイズ」
少女の唇が薄く動く。ブラックはそれに倣い、ファイズ、と呟いた。
「なっ、なんだいアンタ……なんなんだい、その姿は!」
桃色の仮面から発せられた声が狼狽に染まる。ファイズは煌々と光る黄色い複眼を向け、悠然と全身を夜気に曝した。
「フン。アタイらの猿真似をしようたってそうはいかないよ。アタイがどうして野球部にいないと思う? それはね――」
先手を切ったのはファイズだった。
ピーチの言葉の終わりを待たず、仮面の騎士は大地を蹴り飛ばす。迎え撃つオックスオルフェノクが右腕を大上段に構える。巨躯から直角に近い角度で振り下ろされる殴撃。避けることなく、さらに一歩踏み込んだ。断頭台の刃が迫る。刹那、引いた左腕を放った。交差した腕が滑る。クロスカウンター。冷静に相手の一撃を首の皮一枚で躱したファイズの拳が、異形の顎を打ち抜いた。伸び切った敵のボディに、返しの右ストレート。遮るものは何もない。牛の巨体は小枝のように軽々と吹っ飛んだ。
背後からスカラベオルフェノクの牙が首元に迫る。レオに迷いはない。振り向きざまに放った裏拳が、黄金虫の牙の半数を破砕した。
悲鳴を上げ地を転がるスカラベを眼下に、ファイズはベルト左部のサイドバックルに携帯していたファイズショットを手に取る。デジタルカメラ型のツールにファイズフォンから抜き取ったミッションメモリーを換装すると、『Ready』の音声と共にグリップが展開した。
右腕にファイズショットを備えたレオが黄金虫へと迫る。右腕に続き牙の半分を失った異形がずるずると腰が抜けたように後退する中、仮面の戦士はファイズフォンを開きエンターキーを押した。
――『Exceed Charge』
無慈悲に響く電子音に続き、身体の中心から右腕に通うフォトンストリームが発光する。ブラックにはそれが、心臓から送り出された血脈のようにも見えた。
必殺の一撃を繰り出すために放出されたフォトンブラッドは右腕に収束すると、ひと際強く輝く。
断罪の宣告。グランインパクト。
振り下ろされた右腕が、スカラベオルフェノクを地面に縫い付けた。
レオは再度ファイズフォンのエンターキーを押し込む。
恐れをなしたオックスオルフェノクが繰り出した隙だらけのパンチを前転で外すと、無防備な顔面に向け必殺の右ストレートを打ち抜いた。
高濃度のフォトンブラッドを注入された二体の異形は、背後にギリシャ文字Φの記号を浮かび上がらせると、全身を蒼い炎に包まれながら灰と化していった。
ファイズショットを無造作に投げ捨てたレオは、一度ブラックをちらりと見遣り、すぐにピーチと相対しくいくいと指を前後させた。
「来いよ、ピンクもどき」
「またその名前を……言ってくれたね」
桃色の戦士の姿が風と消える。
ファイズの目の前に紫電の速度で現れたピーチは助走の勢いそのままに回し蹴りを放つ。飛び退いた仮面の鼻先を爪先が掠める。加速する回転速度。軸足を交互に入れ替えながら打ち込まれる蹴りの連撃を、仮面の騎士はウィービングとバックステップで避け続けた。
「アタイはね! 戦闘力を買われてるのさ! パワー! スピード! どれもピンクの小娘なんかとは比べ物にならないんだよ!」
勝ち誇ったように叫びピーチはさらに連撃を速める。もはや常人では補足不能な速度に達した蹴りを躱したファイズの上体が傾ぐ。オルフェノクの残骸たる灰を踏んだのだ。桃色の仮面が吼え声と共に振り放った一撃は、強かに敵影を捉えた。
「次は、こっちの番だ」
渾身の蹴撃を脇腹と左腕で押さえつけたレオが呟く。脚、万力で固定されたかのようにぴくりとも動かない。
戒めを解かれると同時に放たれたファイズの正拳が、ピーチの胸元に炸裂する。両手のブロッキング。超金属の戦士の一撃を吸収しきることはできず、身体は地面に深々と二本の轍を刻み大きく後方へと押し戻された。
なんという衝撃。固着されたかのように麻痺した両腕の向こうで、ファイズは右のサイドバックルに装備されたファイズポインターにミッションメモリーを押し込み、右足に装着する。
――『Exceed Charge』
三度響き渡る電子音。フォトンブラッドが充填された右脚が紅に輝く。
ピーチが危険を察知するのと時を同じくして、レオは高々と跳躍した。
ファイズポインターから射出されたマーカーが桃色の仮面を捉えた瞬間、四肢の動きが拘束される。
目の前に表出したフォトンブラッドの円錐が、ピーチのマスクに彼岸花のように真紅に映る。
クリムゾンスマッシュ。
虚空から急降下したファイズの身体が、ドリルのような高回転の円錐と共にピーチの身体を貫く。
仮面の騎士が再び地面に足を着いたとき、ピーチは中空にΦのギリシャ文字を浮かび上がらせ、瞬時にその身体を灰化させた。
巌のように張る背中を眺めながら、ブラックはただ驚愕に呑み込まれていた。
強い。
姿形は自分たちと似ているが、出力は比べ物にならない。
レッドやブルーならいざ知らず、少なくとも自分では勝てない。
その立ち姿に先刻の手負いの獣の後ろ姿は見当たらず、守護者としての運命を受け入れた悲壮な覚悟が浮き彫りになっていた。
黄色に輝く複眼がブラックを見る。
お前はどっちだ。
彼女には、仮面の騎士がそう言っているように聴こえた。
ピーチの作戦は失敗した。
ブラックは自身の能力でその肢体を不可視にすると、高々と跳躍し夜闇へと溶けた。
「七瀬!」
ホルダーからファイズフォンを抜き取ったレオは、地に着くたびに左脚を襲う激痛に耐えながら少年の元へと駆けた。横の少女は這いつくばったまま動かない。地面に広がる吐瀉と両手にこびり付いた血液が、放心状態の梨子の尽力を物語っていた。
暗がりでもはっきりと解るほどに生気を失った少年の口元は絵の具を零したように赤黒く染まっている。噎せ返るような生々しい血と肉の臭気が喉の奥を突く。
「クソッ!」
反射的に込み上げてくる嘔吐感を堪え、レオは強く拳を土に叩きつけた。
少年の怨嗟の叫びを耳にした梨子が、顔を上げる。
そして、その眸子を大きく見開いた。
「れ、レオ。これって――!」
涙交じりのくぐもった声が戸惑いを帯びる。
レオは力無く、梨子の指し示す先を見た。
「七瀬……お前……」
震える自身の声が遠い。
少年の相貌には、オルフェノク化を示す黒い紋様が幾何学的に奔っていた。
第1章 《Dead or Rebirth》完