ほんのりまろびね

パワプロクンポケット(パワポケ)の二次創作小説(SS)をぼちぼち書いてます。

パワプロクンポケットΦ 9話『熱風Pitcher』(パワポケ7異聞)

何本もSS書いてきたけど、ちゃんと野球の試合書いたのって初めてかも。

なお書けたとは

 

 

 

前の話はコチラ。

 

marobine105.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 一陣の強い風が全身を横殴りに吹き抜けていく。それが開戦の合図となった。

 レオの体躯を優に超える長柄槍が藁紐のように軽々と、しかし驚異的な質量を伴い投擲されるのと同時に、獅子の姿が消える。頭上に気配。ファイズに変身するだけの時間は無い。少年は瞬時に灰褐色の豹の異形へと姿を変え、穂先を回し蹴りで薙ぎ払う。身もよだつ咆哮と共に振り下ろされたライオンオルフェノクの鋭利な爪を、正面から両手で組み受けた。両肩に加重。揉み合うように草叢に転がり合ったレオパルトオルフェノクの腹部に、容赦無く膝蹴りが叩き込まれる。豹は悲鳴を上げながら自ら後方へ大きく飛び退いた。

「リコ! 何してんだ、逃げろ!」

 驚愕を顔に張り付かせたまま座り込む少女へと吠えたてる。見たところ負傷はしていないようだが、ぺたりと尻を落ち着けたまま梨子は動こうとしない。

「ご、ごめん。レオ。こ、腰、抜けちゃったかも」

「あぁ? こんな時にバカ言う――」

「うっ、後ろ――!」

 震える人差し指が背後を示す。振り返るまでも無くその強襲は気配で分かる。回転と共に叩きつけた爪は強固な左腕の籠手で受け止められる。迫る右腕ががら空きの咢を狙う。脚、大地を蹴り上げた。アッパーを皮一枚で躱しながら視界の上下が入れ替わる。ライオンオルフェノクは回避と同時に放たれたサマーソルトキックを首の動きだけで避け、着地したレオに向け満足そうに嗤う。

「彼女とお喋りとは余裕だな。安心しろ、貴様を始末してから一瞬で後を追わせてやる。たとえオルフェノクになろうと二度殺す」

「話を勝手に進めるんじゃねえよ。アイツは殺させない。オレもテメェなんざに殺されるつもりはねえ」

「威勢が良いのは嫌いじゃない。せいぜい失望させないでくれ」

 左右に大きく開いた爪がギラリと怪しく閃く。補足不能な速度で繰り出される突きの応酬が四肢の皮と肉を削り落としていく。霧のように舞う血飛沫が視界を覆う中、レオはひたすら態勢を低く保ち、致命傷を避けるべく両腕で頭部を守る。獅子は豹に反撃の気勢が無いと見るや、握り込んだ正拳を正面から打ち込んだ。心許ないガードが弾き飛ばされる。一度距離を置くしかない。回避のため力を溜めた足が土を穿つ。距離を詰める獅子への叩きつけるような斬撃。ライオンオルフェノクは予知していたかのような軽やかさでその軌道から身を退けると、伸び切ったレオの腕を掴み力任せに引いた。目の前に火花が散る。岩盤に激突したかと錯覚するほどの頭突きにたたらを踏んだ。その間隙を、獅子は見逃さない。空間ごと捩じ切るように振るわれた鋼鉄の柱の如き豪脚が、レオパルトオルフェノクの身体を軽々と弾き飛ばした。少女の悲鳴が響き渡る。ゴム毬のように撓んだ灰褐色が二度三度と地面を抉るたび衝撃が地を揺らした。

 悠然と月明りを全身に受ける獅子から逃れるように梨子は地を這った。化生は蟻さながらに藻掻く少女を一瞥すると、弾かれたように天を見上げた。星空を背に吼え立てた豹の異形の右腕から一撃必殺の巨大な刃が生成される。

「フン。そうこなくてはな」

 迎え撃つ獅子の咆哮。びりびりと鼓膜が震える。構うものか。耳元で轟音を叫ぶ風を聞きながらレオは急降下する。

 ――真っ二つにしてやる。

 裂帛の気合と共に振り上げられた刃。雷光の如く閃いたそれは獅子の上腕に食い込み、固着した。腕、振り抜けない。深緑の瞳が見開かれる。刹那、肺の中の空気が根こそぎ奪われた。腹部に深々と食い込んだ拳。獅子は唇を凄惨に歪ませ、垂直にレオの身体を打ち抜いた。臓腑に浮遊感。月光が翳る。上空へと跳躍した獅子は、無防備なレオパルトオルフェノクの背面へと、鉄槌さながらの一撃を叩き込んだ。

 もはや悲鳴も絞り出せない。急速に近づく地面に成す術も無く落下した。クレーターさながらに陥没した円環の中央で激しく呼吸を繰り返す少年は、なんとか身体に残った最後の力を振り絞り仰向けに転がる。獅子の足音が近づく。オルフェノクへの変化を試みるも、表層に黒い筋が浮かぶだけで異形の姿には至らない。

 死ねない。こんなところでは。

 もはや勝負の趨勢は大局を決した。

 だが、まだ自分は生きている。

 豹の爪と刃はまだ折れていない。

 早鐘を打つ心臓が身体中に酸素を送り込む。

 乾坤一擲の一撃に命を乗せるべく、レオは荒い呼吸の中で潮合を待った。

――『Burst Mode』

 場違いな電子音が耳に届く。あの、バカ。悲鳴とも咆哮ともつかぬ叫び声と共に飛び起きたレオの目に、獅子の側面に突き刺さる流弾が放つ真紅の閃光が焼き付いた。

「ウソ……効いてない」

 絶望的な呟き。獅子は蚊が止まっていたかのように軽く腕を振るい、身体の向きをファイズフォンを構える少女へ向けた。

「死に急ぐか。それもまた自然の理から外れた人類の悲しい性だな」

 駆け出したライオンオルフェノク。逃げろと叫ぶレオは、泣き出しそうに潤む瞳で力強く笑おうとする梨子がベルトを投げる光景をスローモーションに見た。

 獅子の拳が振り上げられる。梨子は両脚で強く大地に根を張ったまま、ただ固く目を閉じた。

――『Exceed Chrage』

 暗闇を焼き払う黄金色の閃光がオルフェノクの頭部に突き刺さる。その瞬間動きが固着した獅子に二重に配された三角錐ポインターが開花した。

 河川敷の暗闇に浮かび上がる黄色の二重線。それは黒野のアジトから盗み出されたというカイザのフォトンストリームだった。

 高々と跳躍した仮面の騎士は上空で一回転すると、力強く右足を繰り出す。必殺の一撃、ゴルドスマッシュが炸裂する直前、獅子は咆哮と共にフォトンブラッドの拘束を弾き飛ばし、後方へ飛び退く。必殺技を不発に終えたカイザは梨子の眼前に着地した。

「あ、ありがとう……」

 未だに目の前で起きたことが信じられないといった表情で、それでもなんとか言葉を絞り出した梨子が膝から地面に座り込む。カイザは几帳面に両手を揃えペコリと一礼すると、腰に携帯する銃剣一体型のマルチウエポン・カイザブレイガンへとミッションメモリーを装填した。『Ready』の電子音と共にグリップエンドから出現した黄金色のフォトンブラッドの刀身が周囲を煌々と照らす中、坂の上に白い閃光が舞い降りた。

「無事か!? リコ! レオッ!」

 デルタに変身した七瀬が周囲を見回し叫ぶ。カイザの姿を捕え喉から漏れた呻き声は、少女の怒声によってすぐに上書きされた。

「遅いよっ! もうちょっとであたし、殺されるとこだったよ!」

「ええっ!? いや、これでも電話貰ってからめちゃくちゃ急いできたんだけど……白石君とラーメンの順番待ちしてたんだぜ? 一時間以上待って、ようやく次食べられるってとこだったのに」

「もう、ラーメンなんてまた並べばいいでしょ!」

 数秒前まで風前の灯火だったとは思えない啖呵を切り、音の出る勢いでレオへと顔を向ける。

「レオ! あたしのぶんも百倍返しにしちゃって!」

 既にカイザの戦闘を再開した獅子を指し示し、座り込んだまま梨子が怒号を上げる。草叢に転がるベルトを拾い上げたレオは大きく息を吐いた。

「言われなくてもやってやるよ」

――555。

 変身コードを入力されたファイズフォンがウォークライへの序奏を響かせる。

「変身!」

 超金属の戦士に変身を遂げたレオは獅子の異形へと突進した。

 

 

 

 デルタの蹴撃を叩き落とそうとするライオンオルフェノクの胴をデルタが袈裟懸けに切りつける。間髪入れずデルタを宙返りに飛び越えたファイズは、胸元から吹き出す暗色の体液に怯むことなく鉄拳を頬へと食い込ませた。憎悪に燃える獅子の目が光る。咆哮と共に繰り出された横薙ぎの爪を避けきることができず、レオの身体が吹っ飛ぶ。地に叩きつけられる寸前、七瀬がその満身創痍の身体を抱き留めた。

「大丈夫かっ! ムチャし過ぎだ!」

「ムチャ上等だ。そうでもしねえと、アイツには勝てねえ」

「それは、そうかもしれないけど……」

 三人の連携により、無敵とも思われたライオンオルフェノクの猛攻にも陰りが見えている。それでも、あのオルフェノクはこれまでに戦ってきたどの相手とも比較にならない。乱入者である三人目の仮面の騎士でさえも、一対一では防戦に資する一方で傷を与えることすらできていない。

「アイツも手負いのはずだ。こうなりゃ、一気に行くしかねえ」

「全員で、ってことだな。わかった、やろう!」

 七瀬の肩を借り立ち上がったレオは、ファイズポインターにミッションメモリーを装填した。ENTERキーを押すのと同時に右脚に通うフォトンストリームを紅の閃光が疾駆する。

「おーい、カイザの人! 一気に行くぞ!」

 両手を振り上げて合図を送るデルタの姿に一瞬呆然としながらも、すぐに意図に思い至ったのか仮面の騎士はこくりと頷き獅子を引き剥がし後方へ跳んだ。

「喰らえっ」

 七瀬の叫びを合図に三色のポインターが獅子を三方向から一斉に咲き乱れる。それでも完全に拘束するには至らないのか、獅子は戒めを解き放とうとその巨躯を揺らした。

 夜の河川敷をフォトンストリームのネオンが彩る。カイザ必殺の蹴り・ゴルドスマッシュにデルタが続く。並のオルフェノクであれば砂場を掘削するように軽々と胴を貫く蹴撃は、まるで岩盤に差し掛かったかのように凝着した。苦悶の表情を浮かべていた獅子は、気合の咆哮と共に拘束を引き千切った。弾き飛ばされる二人の仮面の騎士。

 その間へと、ファイズは飛び込んだ。

 右脚に溜め込んだフォトンブラッドが獅子の中心に炸裂する。金属同士が擦れ合うかのような甲高い摩擦音が耳朶を打つ。飛びそうになる意識を辛うじて繋ぎ止め、満身の力を脚に集中させる。獅子の悲鳴が遠くに聞こえた。

 永遠にも感じられた鍔迫り合いの軍配はライオンオルフェノクに上がった。羽虫を落とすように振るわれた腕がソルメタルの胸のプレートをぐしゃりと捻じ曲げる。変身の解けたレオは、濁流のように全身で暴れ狂う激痛に身体を捩った。

「やってくれるな……豹のオルフェノク

 胸元から噴き出る体液を手で押さえながら、獅子が荒い吐息を零す。ブレイガンから放たれた光弾を高々と跳躍して躱すと、堤防の上へと降り立った。

「邪魔が多すぎる。貴様とはまた相見えよう」

「逃げんな、クソっ……」

 苦痛に顔を歪める少年に対し意味深に笑みを浮かべたライオンオルフェノクは、そのまま何処へかと去って行った。

「レオっ」

「大丈夫だ、こんくらい」

 駆け寄り肩を貸そうとする梨子の腕を払い、震える足を奮い立たせ獅子の消えた先を睨む。

「アイツ……何者なんだろう。そういえば、今日はヒーローもいないな」

 デルタの少年が注意深く辺りを見回しながら呟く。ヒーローの傘下に置かれていないと思われる野良のオルフェノクはこれまでも何度か対峙している。しかし、獅子の化生はそれまでのどの化生とも異なる理性を宿しながら、明確に自分たちへの、いやレオ自身への敵意を剥き出しにしてきた。新たなる勢力なのか、それともヒーローの新たな戦力なのか。噛み締めた奥歯がギリギリと鈍い音を立てた。

「そういえば、正体が分からないと言えば……」

 三人から距離を置き佇んでいたカイザへと七瀬が視線を向ける。交戦中に負傷したのか肩を押さえていた第三の戦士は、自分に向けられた視線に気付きびくりと身体を震わせた。

「ありがとう、カイザの人。助かったよ」

 右手を差し出しながらデルタが近づく。

 カイザは左右に視線を彷徨わせた後、不自然に右手を目の前に上げながらペコリと七瀬とレオに頭を下げ、高々と跳躍しその姿を夜闇の中に溶かした。

「あっ――行っちゃった。シャイなのかな」

 所在を無くした右腕を曖昧に握り締め、七瀬は残念そうに首を振る。カイザの残したフォトンストリームの黄色い残光に目を細めていた梨子は、未だに荒々しい呼吸を続けるレオの顔を覗き込んだ。

「味方……で、いいんだよね?」

「どうだかな。ひとつだけ分かってんのは、アイツが泥棒ってことだ」

 七瀬と梨子には語らなかったが、レオの胸中にはもう一つの確信めいた推測が立っていた。

 立ち去る前の右腕を上げる動作。あれは恐らく脱帽だ。礼をする際に当たり前の動作として行っていた癖がそのまま表れてしまったのだろう。それに、初めての共闘にしては妙に波長の合った連携も引っかかるものがある。もしかすると、第三の戦士の正体は思った以上に近い存在なのではないか。

 ヒーロー、ライオンオルフェノク、カイザ、それに加え七瀬が見たという謎のオルフェノクとブラック。それぞれの思惑などに興味は無かったが、その全ての意図が自分に執拗に絡み付いているように感じられた。

 少し、頭が重い。レオは頭の後ろをバリバリと掻き毟りながら、ふらふらとした足取りで歩き始めた。

「あっ、レオ! どこ行くのさ!」

 背後から声が飛ぶ。レオは振り向きもせず、ただ唸るように呟いた。

「決まってんだろ。帰って、寝る」

 

 

 

Φ

 

 

 

 市街地から電車で二十分ほど移動した県営球場の閑散としたスタンドを見回し、梨子は両腕を大きく広げ胸いっぱいに芝の青い香りと熱気を吸い込んだ。

「いやー、球場って広いんだね!」

 返事がないことに違和感を覚え後ろを振り向き唇を尖らせる。急勾配の階段を息も絶え絶えにゆっくりと登る駆の顔を隣から心配そうに覗き込む春香がその視線に気付き、彼に代わって不満の意を伝える。

「速すぎますよ、リコさん。リーダーも歳なんですから、もっとゆっくりじゃないと」

「いや……そこまで……年寄りじゃ……ないけど」

 やっとのことで最上段まで登り切った駆が手の甲で額に浮かんだ汗を拭う。グラウンドから聞こえる喚声に目を向けると、試合前のシートノックが行われていた。

「レオ、いないなー。猛も湯田っちも見つかんないや」

「これは今日の対戦相手だね。万台高校だったかな」

「花丸高校はもう終わっちゃったんですか?」

「どうなんだろう……ボクもそんなに詳しくないからなぁ」

 拭いても拭いても噴き出てくる汗をハンカチで拭いつつ駆は首を捻る。

「もー、しっかりしてよ。駆さん、野球選手の友達いるんでしょ?」

「いや……たしかにいるけど、それと野球に詳しいかどうかは別だと思うけど」

「そう? でもあたしも春香ちゃんも全然分かんないからさー。生解説してくれないと」

 応援に行くから野球に詳しい人を紹介してくれと言い出したのは梨子だ。友人の少ないレオに大した選択肢は存在せず、白羽の矢が立ったのは元バイト先の上司だった。いやボクなんてそんなに詳しくないよ、と諸手を振るリーダーをたまたまその日バイトに入っていた春香が宥め、奇妙な三人の観戦ツアーが取り決められたのである。もっともその説得には個人的な思惑が大いに含有されていたことは、梨子も駆も知る由は無い。

「倉見さんも全然知らないのかい?」

「え、と。知ってますよ。ホームラン!」

 快哉と共に空気のバットを振る少女の声がスタンドに響く。バットの持ち手が逆だな、と思いつつ、駆は周囲の視線が痛々しく突き刺さるのを忸怩たる思いで受け入れた。春香は春香で耳の先まで真っ赤にしながら、消え入るような声で俯きがちに呟く。

「……すいません。実はホームランが何なのかも知りません……」

「じゃ、あたしの方が詳しいね。ホームランはあの棒に当てることだよ」

 梨子が指差す先にそびえるファウルポールを眺め、さすがリコさん! と春香が目を輝かせる。それはそれで間違ってはいないのだろうが、やはり詳しくないというのは事実らしい。

「確かに、これならボクでもなんとかなる……かな?」

 二人に見られぬように、駆はこっそりと安堵の息をついた。

 

 

 

「っしゃ! ガンガン打ってこうぜー!」

 真隣から叫ばれた脳が揺れたかと錯覚するほどの歓声に、レオは頬を盛大に引きつらせギロリと鋭い視線を向けた。

「耳元ででけぇ声だすな。鼓膜が破れるかと思った」

「いやいや。今日から一戦必勝なんだから、ガンガン応援していかないと」

「応援で勝てるならウチはコールドだっての」

 示された天井に七瀬が顔を向ける。しばらく意味が分からないと言った様子で首を傾げていたが、ふと気になることがあったのか眉根がじわじわと寄る。

「そういえばウチのスタンド、やけに静かなような……」

「知らないでやんすか? 花丸はここのところ公式戦でボロボロだから、吹奏楽部の応援は見送られたんでやんすよ」

「そういやこの時期、大会が近いってクラスの女が言ってたぜ。あっちは今年レベル高いらしいから、本腰入れてるんじゃねーの? 野球の応援なんて賞もでねーし、暑いだけだしな」

「そ、そんな……」

 湯田と有田から次々に現実を突きつけられ、愕然とした少年の身体がベンチに沈み込んでいく。やっと静かになったかとレオが思った矢先、がばりと不死鳥の如く上体を起こした。

「じゃあ、チアは? 応援団は!?」

「おいおい、そんなんウチにいるわけねーだろ」

「甲子園まで行けたら話も違うんでやんすけどねえ……」

 またもや集中砲火を食らい撃沈する七瀬。今度こそ頼むぞ、というレオの願いは、すぐに起き上がった七瀬によって露と消された。

「こうなったら、何が何でも甲子園に行くぞ! 打って打って打ちまくれー!!」

「うるせえなあ、お前ら。オラ、どうせ出番なんて回って来ねえんだから声出せ、声」

 ベンチの隅に腰掛けていたシルバーから避難の声が飛ぶ。ベンチのヒーローは一人だけということもあり、その周囲だけは台風の目のように空席となっている。レオは壁面に掛けられているホワイトボードに目を細めた。

 

《スターティングメンバー》

1 レッド(中)

2 ピンク(遊)

3 オレンジ(捕)

4 イエロー(三)

5 パープル(右)

6 ブラウン(投)

7 黒打(左)

8 台場(一)

9 白石(二)

 

《控え》

シルバー

村野

古河

森盛

有田

七瀬

守岡

野丸

湯田

三木

 

 ベンチメンバーには滑り込めたもののヒーローの牙城は堅い。甲子園まで駒を進めると枠が十八人に絞られるため、投手では村野かレオのいずれかは高確率で落とされることになる。野手として登録されている湯田を第三投手としても起用するのであれば、その門はさらに細く狭くなる。

 固く握った手の平に爪が食い込む。アピールのチャンスは巡って来るのか。村野も湯田も抜群に秀でた武器こそ無いが、自分のように不安定ではない。ライオンオルフェノクに受けた傷を癒すことを最優先に消化されたこの数日を思い出し小さく舌を打ったレオの肩を、誰かがポンと軽く叩いた。

「大丈夫。きっとみんな、いい場面で活躍するさ」

 思考を読んだかのように柔らかく微笑む東の顔から視線を逸らす。東はオルフェノクとの一件を七瀬にもレオにもただ感謝の念だけを述べ、深くを訊ねようとはしなかった。

「怪我、ホントに大丈夫なんスか」

「ああ。全力で走ると少し痛むけど、この程度ならね」

 東はベンチに腰掛けたまま脚を曲げ伸ばしして見せると、初陣を後押しするかのように青々と彩られたキャンバスに堂々と屹立する入道雲を仰ぎ見た。

「俺にとっては最後の夏だ。ベンチ入りさせてくれただけ、監督に感謝だよ。もちろん、君たちにもね」

 自分とその隣で相変わらず大声で騒ぐ七瀬へと向けられたウインクから逃げるように帽子の日除けを下げる。

「八月になれば治るかもしれない。今は一日も長く野球ができるように、やれることをやるだけだよ。古河君、改めてよろしくな」

 日除けの向こうで聞こえた声に頷く。

 グラウンドから響く鋭い金属音が、夏の始まりを高らかに告げた。

 

 

 

 力無く打ち上げられた内野フライがピンクのグローブに収まる。ベンチに駆け戻る花丸球児たちに目を細めながら、駆は首に掛けたタオルで次から次へと湧き上がる汗を拭った。少しでも陽が避けられるようにとスタンド最上段の席を選んだはいいものの、熱気ばかりは逃れることはできない。

「五回まで終わって3-1か。意外といい勝負になってるね。コールドも有り得るかと思ってたんだけど」

 返事はない。どうしたものかと少女たちに顔を向けると、死んだ魚のような目が横並びに見えた。

「古河さん、なかなか出てきません……」

「むー。それに暑すぎるよー。駆さん、クーラー持ってきてくださいよー」

 すわ熱中症かと慌てた駆であったが、どうやら杞憂だったらしい。そもそもクーラーを持ってきたところで電源はどうするのかとくだらないことを考えつつ、心の中で少女たちに同情した。確かに友人を見るためだけに来たのであれば、野球そのものとしてもいささか手堅い展開であるこの試合は面白いものではないかもしれない。

「決めた。あたし、なんか冷たいもん買ってくる!」

 すっかり生温くなったスポーツドリンクを一気に飲み干した梨子が、勢い良くベンチから立ち上がり無人の座席を飛び越える。

「あっ、それなら私が」

「いいって、いいって。ベンチ固くてお尻が痛くなってきちゃったし」

 立ち上がりかけた春香にひらひらと手を上下させ、日焼け防止用の薄手のパーカーの袖を腰元で結ぶ。すぐ戻ってくるからね、と快活に走り去って行く後ろ姿を見ながら、春香と二人きりになってしまったことを思い出し、駆はこっそりと周囲を見回した。このご時世、もう若くない自分と女子高生が横並びに野球観戦なんてしているところを知り合いに見つかったら、何を言われるか分かったものではない。

「そういえばリーダー。コールドってなんですか?」

 中年親父の苦悩など知るはずも無い春香の問いかけに、駆は慌てて居住まいを正す。

「ああ、ゴメン。コールドっていうのは、一定以上の点差がついたら九回までやらないで、その回で終わりにしましょう、っていうルールなんだ。五回までで10点、七回までで7点差がついてたらその回でおしまいって感じかな」

「なるほど……つまり、花丸が思ったよりも点が取れてない、ってことですね」

 呑み込みの早い少女は言葉の説明を聞いただけで意図を察し、顎に指を当てこくこくと首を縦に振る。駆は満足げに微笑んだ。

「ボクが噂で聞いてるくらいだから、当然相手にもヒーローが凄いって情報は入ってるんだろうね。万台サイドは徹底的にヒーローとの勝負を避けてるんだ。レッド君はアウトコース攻めにも巧く対応してるけど、他のヒーローは素人目に見てもわかるくらい見事に翻弄されてる。だから上位打線が繋がらないんだ」

 万台高校側はヒーローに対し四球もやむ無しと言わんばかりに逃げの配球を続けている。全員がしっかりと見極めれば押し出しで容易に点が貰えるところではあるのだが、ヒーローたちはそれを良しとせず、結果として難しい球を自分から打ちに行き自滅する。ベンチのレオはさぞやきもきしているだろうと、駆は顔を曇らせた。

「古河さんたちの出番はあるんでしょうか……」

「どうだろう。古河君かどうかは分からないけど、ピッチャーは早いうちに交代するかもね」

「どうしてですか?」

「ブラウン君、かなり体力を消耗してるみたいだからね。今日は特に暑いし」

「確かに……あのマスク、熱中症になりそうですもんね」

「……そこ?」

 見ている方が暑くなってきたのか、目を丸くする駆を余所に少女はパタパタと自分を手で扇ぐ。胸元に流れ落ちようとする汗に一瞬だけ目がいき、駆はぶんぶんと首を横に振る。不思議そうに口を丸める少女に対しての誤魔化しの咳払いは不自然に大きくなった。

「それに、七瀬君も出番があるかもしれない。花丸の失点は1点だけだけど、ピンクさんとイエロー君のエラーから失ってる。七瀬君は守備が凄く巧いって聞いてるし、終盤までこの点差で流れるなら守備固めとして交代するかもね」

「そうなんですか。勉強になりますっ」

 野球はおろかキャッチボールすらしたことがない素人の予想とも言えぬ戯言にも関わらず、春香は目を爛々と輝かせグラウンドに視線を戻す。その横顔を見たとき、駆はルールも知らない彼女がどうして球場に足を運んだのか、なんとなく分かったような気がした。

 自分には経験の無い青春の一ページ。微笑ましくもあり羨ましくもあるその光景を焼き付けるように、駆はこめかみから流れ落ちる汗もそのままに円らな瞳を細めた。

「あっ、リコさん!」

 少女が突然立ち上がり大きく手を振る。どこも同じ景色に見えるのかきょろきょろと首を回していた梨子はその姿を認めると、手に提げていたコンビニの袋からシャーベットアイスのパッケージを取り出し掲げて見せた。

「古河さんたち、出番あるかもしれないそうですよー!」

「そうなの? どこ? どこ!?」

 手で日除けを作りグラウンドを水平に回し見る梨子だったが、当然まだどこにもその姿は無い。春香は手をバタバタと大きく横に振り、身体の上で大きくバツを作った。

「ま、まだです! これから、これから!」

 きょとんとした少女の拳が細かく震える。大きく息を吸う予備動作を確認したとき、あ、これ注目を集めるやつだと悟った駆は、隠れるようにタオルで汗を拭った。

「もー、早く出て来い! レオのバカーっ!」

 

 

 

「ど、どうしたの? 古河君。すごい顔してるけど」

「いや、なんでもねえ。気のせいだ」

 オルフェノクの聴覚でしっかりと少女の野次を聞き取ってしまった豹の少年に対し、森盛は不思議そうに首を傾げる。覚えとけよ、とレオは心の中で呟いた。

 気温の高さとペース配分ミスでスタミナを消耗したブラウンは結局五回で降板し、六回からはシルバーがマウンドに上がった。パープルの失策やオレンジのパスボールにより1点を返されるも、イエローのホームランで再び点差を戻す。その裏に今度はピンクの送球エラーとイエローの緩慢な守備により再び1点差になり、試合は誰もが予想していなかったシーソーゲームへと縺れ込んでいた。

「万台、結構強いね」

「というより、花丸が自滅してるだけだろ。打てねえのも含めてな」

 ベンチの隅で深々と腰掛けるヒーローたちからの視線には気付かない振りをしながら、レオが言い放つ。もちろんヒーローへの意趣返しのつもりでもあったが、出番を待つ少年の苛立ちから零れた愚痴でもあった。隣に座っていた七瀬は八回からピンクに代わりショートの守備についている。次の回でオレンジやパープルに打順が回った後は、森盛や外野の誰かもお呼びがかかるだろう。心配そうに自分を見つめる森盛の視線に気付くことも無く、レオは鋭い視線で丘の上の銀色の戦士を睨みつけた。

 そして事件は、九回の裏に起きる。

 シルバーの投じたストレートを捉えた打球は、投球動作を終えたばかりの右脚に直撃した。点々と三塁方向に転がるボールをカバーに入った七瀬が掴んだ時には、既に打者は一塁を駆け抜けていた。

「古河。行けるな」

 交代がかかる前からベンチへと足を引き摺りながら戻るシルバーを見ながら忌々しげに呟く佐和田に対し、レオは帽子を被り直すことで応えとした。

 刺すような夏の光が肌を焼く。スパイクが土を噛む感触を確かめるようにマウンドで何度か軽く飛び跳ねた少年は、森盛から白球を受け取ると自分の出てきたベンチをじっと見つめた。

「どうしたの? 古河君」

「別に。ベンチがやけにカラフルになりやがったと思ってな」

 予想通りパープルに代わって湯田が、オレンジに代わって森盛が投入されたことにより、グラウンドに残るヒーローはレッドとイエローのみとなっている。守備固めによって1点で逃げ切ることを選択した佐和田も、万が一に備えこの二人は残すことにしたのだろう。

「九回ウラ、ノーアウトでランナーは一塁。点差は1点。厳しい場面だね」

「やることは変わんねえ。抑えるだけだ」

 その言葉に深く頷いた森盛が審判に急かされるように定位置へと戻る。

 プレー続行の号令が掛かった瞬間、視界が魚眼レンズを覗き込んだようにぐわりと撓んだ。

 二度の牽制のサイン。ランナーは一塁へ頭から戻る。

 初球。低めにストレート。僅かに胸を逸らすだけのクイックモーション。大きく外に逸れた直球を森盛が抑えた。ポンポンとミットで胸を叩きながらの返球に、レオの唇が曲がった。

 ベース前でワンバウンドした二球目、あわやデッドボールかという内への三球目をいずれも小柄な少年が身体を張って止める。スリーノー。いつにも増して荒れている投球の原因は、レオ自身が一番よく分かっていた。不慣れなクイックモーションにより、余計な力が加わっているのだ。

 次の球も高めに抜け球審からフォアボールが宣告される。ベンチの空気が不穏なものになるのを感じながら、レオは靴跡だらけのマウンドを丹念に均す。

 落ち着け。今まで通りにやればいい。

 頭の中で身体と感覚のズレを少しずつ修正しながら、一球ごとにストライクゾーンへとボールを近づけていく。

 しかし、審判の腕は上がらない。

 ストライクゾーンとはこんなに小さかったのか。レオは呆然とガッツポーズをしながら一塁へ走る打者を眺めた。

 無死満塁。1点差。三度のタイムは既に使い切っている。

 不意に、背中に突き刺さる七人の視線を感じた。

 それだけではない。

 ベンチの誰もが、スタンドに集まった僅かな観衆の全員が、自分を見ている。

 バッターボックスに立つ選手が、極端に大きく歪んで映る。

 流れる汗が顎から垂れ落ちる。

 今日は、こんなに暑い日だっただろうか。

 サインに曖昧に頷き投じた初球。

 ――しまった。

 指から滑るように抜けた白球が外へ大きく逸れる。

 見開いた視界の中で、捕手の少年が土煙を巻き上げ飛び込むのが見えた。

 ミットの先に収まる白球を見て、バッターボックスの少年は走者たちに慌ててストップの合図を送る。

 ――しっかりしろ。

 次のボールを受け取り、大きく息を吸う。こんなものが気休めにしかならないことだけは、悔しいほどよく分かっている。

 その時、バチリと、大きくミットを打つ音が聞こえた。

 定位置に戻った森盛が再度ミットを殴りつける。そして、股下からサインを出すことなく、ただど真ん中にミットを構えた。

 ――何をしている。お前はただ、ストレートを投げろ!

 あの森盛の怒声が聞こえたような気がした。

 帽子の日除けを指でなぞる。

 ――そうだ。オレは何を、器用にこなそうとしていたんだ。

 脳裏に広がる夕暮れの河川敷。逆行を背にした少年が、小さく頷いた。

 ――そういうのは、お前にしかできないことだったな。

 両腕を大きく掲げる。今の自分にはこれしかないのだ。

 腰を捩じ切らんばかりに大きく捻る。垣間見えたショートの少年がくすりと笑うのがはっきりと見て取れた。

 停滞する空気を切り裂く直球がミットを打ち鳴らす。待ち侘びた球審の高らかなコールが響き渡る。

 ただ、腕を振れ。それだけを言い聞かせ白球を投じる。完全に振り遅れた打者が戸惑いの視線を向ける。

 高めに抜けた直球に出かかったバットがぴくりと止まる。塁審が腕を広げるのを見たバッターが小さく息を吐く。

 2-2。平行カウント。知ったことか。渾身の直球は、スクイズ狙いでバットが寝かされるよりも早く18.44メートルを駆け抜けた。

 矢のような送球がサードに送られる。半身を土塗れにした走者の奥で、塁審が両手を横に広げた。

 1アウト満塁。1点差。タイムも伝令も必要ない。

これでいい。ひとつずつ積み上げればいい。

 低めに決まった直球。相手高校のベンチがスコアボードに表示された球速に騒いでいるのが見えた。

 どうでもいいことだ。

 ただ、目の前の打者を打ち取るためだけに腕を振る。

 自分の原点はそれだけだ。

 唸りを上げる直球にバットが動く。

 弱々しい金属音と共に白球が三遊間を転々と彷徨う。

 三塁走者が敢然とホームへ走る。

 届くか。ボールに。

 怒声が耳朶を打つ。

 闘牛の如く猛進する遊撃手が素手でボールを掴む。

 倒れ込みながらのスナップスロー。

 球審の腕が上がる。

 続けざまに送球。

 ファーストミットにボールが吸い込まれた瞬間、七瀬が吼えた。

 

 

 

Φ

 

 

 

 ――やれやれ。初戦から凄い試合になっちゃったな。

 繁華街のネオンを縫い付けるように屋上から屋上へと飛び移りながら、デルタに変身した少年は昼間の感触をもう一度味わうように掌を何度か握り締める。試合の日くらいはここ数カ月のルーティンワークとして行っていた哨戒も休んでしまおうかとも考えたが、2回だけとはいえ試合に出たことにより火照った身体を醒ますためにもできるだけ普段通りに動いておこうと思い直し家を飛び出したのだ。

 レオは今頃、どうしているんだろう。試合後に球場の外で敢行された公開説教をふと思い出す。最初から本気を出せ、ヒーローの足を引っ張るんじゃないという八つ当たりに近い言い分を、レオはただ唇を真一文字に結び浴び続けた。きっと、自分でも思うところがあったのだろう。売られた喧嘩は買う主義の豹の少年がその口を開き出さないかと戦々恐々と見守っていたが、それは杞憂に終わった。東の介入により不完全に消し止められた佐和田の理不尽な怒りは、たっぷり数十分は燃えていたように感じられた。

 確かに絶体絶命のピンチを迎えたとはいえ勝利は勝利だ。高校に入ってから初めての公式戦の白星にささやかな祝杯でも上げようかと、自販機のある路地裏に視線を落としたとき、雑踏に混じる微かな争いの漣を少年の耳が捉えた。

 ――これは……誰か、戦ってる!

 耳を研ぎ澄まし方角を探し当てる。二区画ほど先だ。ビルからビルへ走る脚に力が籠る。もし、ライオンオルフェノクだったら。とても一人では敵わない獅子の異形が自分の首筋を噛み千切る様が妙にリアルに想像され、背筋を寒いものが伝った。

 仮面の上から頬を両手で叩く。オルフェノクに対抗しうるのはベルトを授かった者しかいないのだ。

――『Exceed Chrage』

 聞き覚えのある電子音を微かに拾い上げる。小さく息を呑み込む。ファイズのものではない。カイザだ。カイザがオルフェノクと戦っているのだ。あの妙に仰々しい謎の戦士がいれば心強い。幾分軽くなった心と共に、最後の大通りを一寸跳びに越えた。

 現場に七瀬が降り立ったとき既にそこにカイザの姿は無く、ただ灰燼に帰したオルフェノクの残骸がビル風に吹かれ痕跡ごと消えようとしていた。

「あの時も思ったけど、強いんだな……」

 思わず言葉となって漏れた落胆と共に、風と共に舞い上げられる灰の行方を目で追う。

 ビルの屋上に潜んでいた影が音も無く引っ込むのを、少年は見逃さなかった。

「カイザの人!」

 ビルの隙間を三角飛びに跳躍し上を目指す。視界が開けたとき、既に逃走者は米粒ほどの大きさになっていた。

 ――速い!

 追跡を悟った逃走者が姿を消す。下に降りたのだ。走り続けたことによりはち切れんばかりに脈打つ心臓に鞭打ち月明りの下を駆け抜ける。

 繁華街を抜け住宅区域に差しかかかったところで降下する。周囲を見回しても人気らしいものは皆無だ。追跡を徒労に終えた七瀬は変身を解除すると、大きく息を吐いた。

 ――今日はここらでやめとこうかな。

 デルタギアを服の下に隠し、帰路を歩き始める。どうしてカイザは逃げるのだろう。ベルトを盗んだという負い目があるのかもしれないが、それならそれで、どうして盗み出したりしたのだろう。既に少年の中では仲間の烙印を押された謎の戦士について考えてみても何も思いつくはずも無く、七瀬は唸り声をあげ夜空を見上げた。

 南中を過ぎた上弦の月は数時間もすれば地平線の彼方へ消える。薄明かりに導かれるようにぼんやりと歩いていると、小さな公園に差し掛かった。公園。こことは別の場所とは言え、自分が殺された現場と考えると決して良い思いはしない。足早に通り過ぎようとしたとき、羽虫の飛び交う外灯の下のベンチで本を読む少女の姿が目に入った。

 ――こんな時間に? 一人で? こんな暗いところで?

 頭の中にいくつものハテナマークが飛び交う。少し変わった子なのだろうと自分を納得させ一度は通り過ぎたが、すぐに踵を返し少女の元へ向かった。

「えーと、こんばんは」

 努めて柔和に呼びかけたつもりだったが、少女は無言。それどころか、本から目を離そうともしない。聞こえなかったのだろうかと、少年は少女と同じ目線に腰を落とした。

「こんばんは。こんな時間にこんなところで一人でいたら危ないよ」

 じろりと、少女の黒々とした瞳がこちらに向けられる。可愛い子だ。あどけなさを残した整った相貌が正面を向いたとき、七瀬は思わず小さく息を呑んだ。微かに動く薄い唇へと、視線が釘付けになる。

「……私?」

「えっ? ああ、うん。もちろん。君以外に誰もいない……よね?」

「……たぶん」

 霊感でもあるんだろうか、などと考えていると、少女は小首を傾げ再び読書に戻る。

 少年はむっとしながら、先程よりも大きい声で少女の懐柔を続けた。

「なあ。本が読みたいなら、家に帰った方がいいよ。家の人も心配すると思うし」

「それは……たぶん、大丈夫」

「たぶん、って――」

「……家族は、いない」

 あまりにも事も無げに告げられたため、七瀬は最初少女の言っている意味が理解できなかった。家族は、いない。噛み砕くように反芻した後、小声でごめん、と少年は呟いたが、少女はやはり気に留める様子も無く本を読み耽っている。

 慣れているのか、性格なのか。いずれにしても、この場に一人残すわけにはいかない。

「良かったら、だけど。まだやってる喫茶店とかあるだろうし、一緒に行かない? 少なくともここよりは安全だろうし」

「……ご飯」

「えっ?」

 念のために訊き返してみたものの、少女は本で口元を隠しながら上目遣いにこちらを見るばかりで何も言ってくれない。やはり、奢れということなんだろうか。財布の中身は決して潤沢とは言えないが、奢らないと言えばついてこないような気がしていた。

 溜息をついた七瀬は、困ったように微笑んだ。

「わかった。その代わり、今度からこんな危ないところで本なんて読んじゃダメだよ」

「……公園、危ないの?」

「いや、公園は危なくないんだけど。ほら、夜だし」

「大丈夫。こう見えて……結構、強い」

 ぱたりと本を閉じ立ち上がり、感情の起伏を感じさせない表情で呟く。今のは冗談を言ったということでいいのだろうか。七瀬はいよいよ少女の言動に不安を覚えつつあったが、事ここに至っては後に引くことはできない。

 公園の入り口で待機する少女が、早く来いと言わんばかりにこちらをじっと見つめている。いつの間にそこまで移動したのか。隣に駆け寄った七瀬は、頭一つほど身長の低い彼女の墨を流したような黒い髪を眺めながら訊ねた。

「あ、そうだ。俺、七瀬猛。君の名前は?」

「名前……」

 視線が宙を彷徨う。まさか、忘れたなんて言い出さないよな。微かな不安を感じつつ少女の答えを待つ。

十数秒のほどの沈黙の後、

「……クロ、でいい」

 ブラックの少女は眉一つ動かさず、ぽつりとその名を零した。