パワプロクンポケットΦ 8話『Strayer in the Dark』(パワポケ7異聞)
そういえば黒打の転校時期やピンクらの加入時期がさらりと本編とは異なるんですが、それもこれも乾巧ってヤツのせいなんだ…オルフェノク登場の影響ということで、どうかひとつ。
前の話はコチラ。
モールオルフェノクの手甲に付く鋭い鉤爪による斬撃を左右に身体を振って躱す。的確に打ち込まれたワンツーが土竜の脳を横に揺さぶる。一気に畳みかけようとしたところで、側部からの強烈な殺気を感じ七瀬はその場を飛び退いた。ジラフオルフェノクの長槍の切っ先が胸の装甲を掠める。接近戦は危険だ。七瀬はデルタムーバーをベルトのホルダーから引き抜いた。
「Fire!」
音声コードを認識したデジタルビデオカメラ型のデバイスが『Burst Mode』の電子音に続きブラスターモードを起動する。トリガーを引いた瞬間激しいマズルフラッシュと共に濃縮されたフォトンブラッドが二体のオルフェノクに炸裂した。
背後で聞こえる呻き声。七瀬は即座に駆け寄り全身を泥で汚した東の肩に腕を回した。
「大丈夫ですか! 東さん!」
「その、声。もしかして、七瀬君かな……?」
その問いには答えず東の身体に視線を落とす。ユニフォームは酷く汚れているが、どこにも損傷の痕は見当たらない。
「歩けますか。間に合ったみたいで良かった」
「なんとかね……っ」
よろける東を抱き留めた肩に負荷がかかる。その端正な顔は苦痛に歪んでいた。
「だっ、大丈夫ですか!?」
「ああ……逃げるときに、捻ったらしい。走るのは、無理そうだな」
「そんな……」
「あたしに任せて! アンタはオルフェノクを!」
ジーンズを泥だらけにしながら校庭を一直線に駆け抜けてきた梨子が、東を反対側から抱き留める。七瀬は首を縦に振ると向かい来るモールオルフェノクにフォトンブラッドの弾丸を放った。目が眩むような火花の奥から飛び出したジラフオルフェノクが、逃げる獲物を貫かんと長槍を上段に構えた。
「させるかあっ!」
吼え声と共に突進。キリンの腰に飛び込む。重心を取られぬかるんだ地面に倒れ込んだオルフェノクが雨水を散らす。槍が水溜まりに落ち泥水を弾いた。必死に身を捩るジラフオルフェノクに馬乗りになったまま、超金属ソルメタルに包まれた拳の雨を降らせる。一発ごとに骨を砕く感触が腕を走る。高く振り上げた最後の一撃が完全に頭部を破壊するのと同時に、ジラフオルフェノクは大きく痙攣しその動きを止めた。
雨の中で燃え盛る青い炎を眼下に辺りを見回す。立ち込める靄の中に、逃げる二人を追うモールオルフェノクの背を発見した。振り上げられる鉤爪。デルタムーバーを構えたとき、二人と土竜の間にメイフライオルフェノクが割って入り斬撃を受け止めた。続く一撃が蜻蛉の脇腹を薙ぐ。雨音の中に悲鳴が混ざった。
七瀬はベルトのミッションメモリーを引き抜きデルタムーバーのスロットに装填し「Check!」と叫んだ。
――『Exceed Chrage』
ベルトから供給されるフォトンブラッドが血脈のように走るブライトストリームを伝ってデルタムーバーに注入される。トリガーにかけられた指に力を籠める。矢のように放たれたフォトンブラッドの弾丸がモールオルフェノクの動きを拘束し、三角錐型のポインティングマーカーを形成した。
メイフライオルフェノクがよろめきながらその場を離れる。七瀬は大地を踏み抜く勢いで加速すると、高々と跳躍した。
デルタ必殺のキック、ルシファーズハンマー。
オルフェノクを貫通し着地したデルタの背後で、モールオルフェノクは青紫色のギリシャ文字Δの紋章を浮き上がらせ一瞬でその身体を灰化させた。
大きく息を吐いたデルタの橙色の複眼が雨にその身を任せ佇んでいたメイフライオルフェノクを睨む。脇腹から溢れる鈍色の体液を手で押さえていた蜻蛉はその身を無数の羽虫へと変化させると、空へ上る煙のように雨に紛れ姿を消した。
Φ
目の前で雷が落ちたかのように視界が明滅した。
途切れそうになった意識の糸を気力で繋ぎ止め闇雲に貫手を放つレオを嘲笑うかのように、シアンは雨のカーテンの中へと自在に消えては現れる。
完全に後手を取った。死角から放たれる蹴撃によろめきながら、レオは黒いヒーローによってもたらされた逡巡を悔いた。
二体のヒーローは速度でファイズを翻弄する。目の前に現れたブラックに拳を放った瞬間それは蜃気楼のように立ち消え、間隙無くシアンがヒットアンドアウェイを繰り返す。平時であれば見切れない速さでは無いが、出会い頭にレオの脳をシェイクしたアッパーは未だに高熱に浮かされたように視界をぐらぐらと揺らし続けている。
ファイズフォンに5821のコードを入力すると、ミッションメモリーを引き抜きデジタルカメラ型のパンチングユニット・ファイズショットに換装する。攻撃を避けられないなら、一撃で決めればいい。レオは仮面を伝う水滴を首を振るい払い落とすと、静かにエンターキーを押し潮合を待った。
風が動く。夜闇から産み落とされたようなブラックが忍び寄る。
右腕を伝う真紅のフォトンブラッドがファイズショットに充填された。
こいつはどうせ囮だ。
背後に気配。振り向きざまに放った必殺のグランインパクトは、虚しく雨粒だけを散らした。
「必殺技は相手が弱ってから使う。ヒーローの基本くらい覚えておきな――ま、もうお前には必要ないけどな」
跳躍した青緑色の戦士の愉悦交じりの箴言が闇に呑まれる。ブラックが低く身を落とすのが肩越しに見えた。
「……ごめん」
しなやかに弧を描いた回し蹴りが腰を打つ。続けざまに繰り出される蹴りの応酬に、仮面の騎士の身体が木の葉のように舞った。
ぬかるんだ地面に倒れ伏す。全身を鞭で打たれたような痛みが駆け抜けるのと同時に、ベルトが外れ変身が解けた。泥の上にぽとりと落ちたベルトに伸ばした手が、無慈悲に地面に叩きつけられる。
シアンはブラックにベルトの回収を命じると、少年の左手を煙草をすり潰すかのように地面に擦り付けた。
「へへへ。仲間が何人もやられたって聞いてるからどんなもんかと思ってたけど、大したことねえなあ。それとも俺様が強すぎたか? どっちだ?」
「二対一で仕掛けてくるヤツが言うセリフか」
「知らないのか? 悪者はいつも一人で倒されるのがお約束なんだよ」
レオの目が鮮碧に光る。シアンは高々と跳び上がり、鋭い爪と刃の斬撃を躱した。
「おっと。お前がオルフェノクだってことも聞いてるんだよ。残念だったなあ」
「どうかな。第2ラウンドはまだ始まってねえ」
灰色の豹へと姿を変えたレオは口の中に溜まった血反吐を吐き捨て呟く。
「バカか、お前。追い込まれてることもわかんねえのか」
「誰が追い込まれてるって?」
「おいおい、口が減らねえヤツだな……頼みの綱のベルトはねえ。こっちは無傷。しかも二対一ってのは変わってねえ。誰がどう見たってお前が――」
シアンの言葉が途切れる。急速に近づいて来るエグゾーストノイズを聞きながら、豹はニヤリと笑った。
無人のオフロードバイクが校庭を疾駆する。その異様な光景にブラックの判断が瞬間的に遮断された。シリンダー内を暴れ回るソルグリセリンの生み出す爆発的な速度で一直線に迫り来るオートバジンを転がるようにして避ける。その腕から、ベルトとファイズフォンが零れた。
――『AUTO VAJIN Battle Mode』
無機質な電子音性と共に、可変型バリアブルビークルがその姿を人型の戦闘形態へと移行する。オートバジンはベルト一式を器用に拾い上げると、オルフェノク化を解いたレオへと投げ渡した。
「それじゃ、最終ラウンドと行こうぜ」
前輪を変形させたガトリングマズルでブラックへの砲火を開始したオートバジンを呆然と見つめるシアンへと呟く。驟雨のように降り注ぐ雨音と銃声に耳を預けながら、レオは555のコードをファイズフォンに叩き込んだ。
「変身!」
仮面の騎士へと変身を遂げた少年がシアンに飛び掛かる。もう、逃がすものか。一対一の接近戦では分が悪いと判断したシアンが背後へ宙返りして距離を取る。レオはファイズフォンに106と打ち込み、フォトンブラッドの光弾を戦士目掛けて放った。暗い校庭に火花が散る。間を置かず距離を詰め打ち込まれた拳が青緑色のヒーローをじわじわと後方へ押しやる。歴然たるパワーの差。シアンの足がぴしゃりと音を立て水溜まりを踏み抜いた。傾ぐ上体。跳躍しかけたシアンの足を両手で掴み、力任せに放り投げた。
――『Exceed Chrage』
中空に投げ出された青緑の戦士に、ポイント弾が光の速さで追いつく。雨雲を背景に紅い花弁が開いた。レオは両脚の筋肉を緊張させ、一気に解放。一歩ごとに加速する仮面の騎士に、シアンは絶望を見た。
雨を弾き放たれるクリムゾンスマッシュ。真紅の円錐がドリルの如くシアンを貫く。戦士は言葉を発する間もなく動きを固着させると、ギリシャ文字Φの紋章を浮かび上がらせ灰と化し雨と共にグラウンドに流れた。
振り返ると、片腕を押さえたブラックがその肢体を闇に溶かし離脱するのが見えた。
目標を逃したオートバジンが、ガシャガシャと大業な音を響かせ近付いてくる。次世代高速CPUが可能にした自己学習機能により独自に自律変形し主のサポートを行うファイズの相棒。黒野の説明を思い出しながら、レオは変身を解いた。
「ったく、もうちょっと早く来いってんだよ。バーカ」
悪態をつきながら胸部のスイッチを乱暴に叩く。物言わぬ鉄騎は、頭部に変形したヘッドライトをピコピコと点滅させバイク形態へと戻った。
Φ
合言葉は、という立花の問いかけをうるせぇの一言で一蹴し黒野のアジトに入ったレオが、水滴だらけのフルフェイスを作業台に置く。たかゆきの非難の声をバックにパイプ椅子に腰かけた少年に、七瀬は飛びつくように問いかけた。
「東さんは!?」
「ただの捻挫だ。ただ、もともと痛めてたとこらしい。入院するほどじゃねえらしいけど、プレーできるかどうかは様子見ってとこだ」
「そうか……」
七瀬は力なく椅子の背もたれに身をもたれさせ、怨嗟の声と共に天板を叩いた。
「それでお前さんたちは、どうしてこんな時間にワシのところで集合しとるんじゃ」
重たげな目蓋を擦る黒野が恨みがましく呟く。時刻は既に十一時を回ろうとしていた。
「こんなときばっかりジジイアピールすんじゃねえ。どうせ寝るだけだったんなら、いいだろ別に」
「ただの作戦会議ならお前らの家でやれ、でバッタ! 俺はこれから深夜アニメを観る時間なんでバッタ!」
「なになに? 立花さん、どんなアニメ見てるの?」
興味津々と言った様子で食いつく少女をじろりと睨むと、唇を尖らせ椅子に戻る。立花はぶつぶつと不満を呟きながらヘッドホン端子をブラウン管テレビに突き刺した。
「……それで、何があったんじゃ」
「ああ、そうだ。さっきオルフェノクと戦ってるとき、変なヤツがいたんですよ。二体のオルフェノクから東さんを守ってるみたいに見えて」
「ほう。お前さんたちと同じように人間としての自我を保っている可能性がある、ということか」
黒野はちらりと三本目のベルトが保管されている棚を見たあと、半目で裸電球を睨むレオに視線を送った。隣の梨子が小脇を肘で突くと、鼻に小皺を寄せ不機嫌だと言わんばかりに小さく息を吐く。
「オレも見た。ただ、そいつが何を考えてるのかまでは分かんねけどな。同じ獲物を取り合ってただけかもしれねえぞ」
「獲物って……食べるわけじゃあるまいし」
「食うにしても殺すにしても同じ話だろ。 ――まさかお前、そのオルフェノクを仲間にしようとか言い出さねえだろうな」
「えっ? そのつもりだったけど……」
「簡単に信用しようとすんな。相手は怪物なんだぞ」
「俺たちだってその怪物じゃないか。今日はなんとか東さんを助けられたけど、あのオルフェノクがいなければ間に合わなかったかもしれない。仲間は多い方がいいだろ」
「だから、そもそもそのオルフェノクが――」
いよいよレオの不満が頂点に達しようとしたとき、隣からポンと柏手を打つ音が聞こえた。
「はい、ストップ! 二人が言い争ったって仕方ないでしょ。あのオルフェノクが味方にしても敵にしても、正体が誰なのか分かんないとどうしようもないじゃん。それとレオ、なんかあったの? ヒーローと戦ったってのは聞いたけど、それからずっと考え込んでるような顔してるよ」
心配そうに覗き込んでくる少女の瞳から逃れるように、レオは再び薄暗く室内を照らす裸電球を見つめた。
幻聴のように響く、黒いヒーローの「ごめん」というか細い声。もちろんだからと言って、ブラックがシアンと共に自分を襲撃した事実は変わらない。ブラックが現れた時に湧き出てしまった躊躇が、今も熾火のように後悔としてくすぶり続けている。とどのつまり、梨子を助けたあのヒーローのことを信用したいと思っていたのだ。
自分の覚悟の半端さに反吐が出そうだった。
「あの、黒いヒーロー。アイツは敵だ」
「黒いヒーローって、リコを助けたっていう?」
「ウソ……あのヒーローと戦ったの?」
「ああ。逃げられたけどな」
そうなんだ、と神妙な面持ちで呟く梨子の顔を見ようとはしなかった。
少しの間、全員の口が閉ざされる。立花のヘッドホンから漏れるアニメの音声だけが時間を進めていた。焦れたように切り出したのは、眉間に線を走らせ腕組みをした七瀬だった。
「ヒーローたちの事情も、なんか変わったのかな。レッドは何も話してくれないけど、ブルーの怪我ってたぶんオルフェノク関係だよな。オルフェノクと仲間割れして、人手が足りなくなったとか」
「どうだかな。とにかく、これで分かっただろ。ヒーローもオルフェノクもアイツらの都合で動くことに変わりはねえ。簡単に信用してたら命がいくつあっても足りねえぞ」
その言葉は果たして、誰に向けられたものだったのか。
七瀬はなおも目頭に込められた力を解こうとはしなかったが、徐にふぅと長い息を吐いた。それを合図とばかりに静観を決め込んでいた黒野が立ち上がり、三人を見回す。
「今話せるのはここまでじゃろうな。ワシとしてもどっちも気になるところじゃが、七瀬が見たというオルフェノクも黒いヒーローも情報が足りん。お前さんたちも疲れておるじゃろうし、そろそろ家に帰ったらどうじゃ。親御さんも心配する時間じゃろうて」
父親が心配するかどうかはさておき、散会の提案はレオにも依存は無い。シアンから受けたダメージはこれまでの死闘からすれば掠り傷のようなものだが、二週間もすれば夏の大会が始まることを考えれば一刻も早く快癒させたいところだ。ここで交わらない主張を喧々諤々と繰り返すよりは、いよいよ寝るスペースくらいしか残らなくなった狭い自室で寝る方が百倍マシに思えた。
黒野のアジトを出ると、雨はすっかり小降りになっていた。細かい水滴に塗れたオートバジンのシートをタオルで拭ったところで、背後から梨子の声が聞こえた。
「あれ、猛もこっちでしょ? どこ行くの?」
「俺はもうちょっとだけ街を見回ってから帰るよ。あんなことがあった後だし、まだオルフェノクが動いてるかもしれない」
「そっか。無理しちゃダメだよ。なんかあったら、すぐレオを呼ぶこと。いい?」
「オレをヒーローごっこに巻き込むな」
キックペダルをひと息に踏み抜きエンジンを始動させる。不機嫌そうに唸り声を上げたバイクのヘッドライトが少年の全身をかっと照らした。
「なあ、レオは何の為に戦ってるんだ?」
眩しそうに手をかざす少年の声がビルの隙間に木霊する。
「決まってんだろ。自分の為だ」
レオは短く答えると、ヘルメットを被りシートに跨る。寂しげに笑った少年はひらひらと手を振り、繁華街の裏道へと消えていった。
Φ
「――盗まれたぁ?」
黒野からの電話があったのは、それから一週間ほど経過した昼下がりのことだった。
予期せず大きくなった声に部員たちの視線が集まるのを感じながら、レオはファイズフォンを片手に部室の外へ出た。刺すような陽光から逃げるように木陰へと走り込むと、蝉の大合唱に包まれる。青々と茂る太いソメイヨシノをひと睨みし、レオはその場に座り込んだ。
「どういうことだよ。ベルトが盗まれたって」
『どうもこうもあるか。無くなったんじゃ、カイザのベルトが!』
蝉に負けず劣らず、パルス越しの黒野の声が鼓膜を激しく叩く。レオは思わず携帯を遠ざけると、うるせえよ、と双方に向けて怒鳴りつけた。
「部屋のどっかにあるだろ。これを機に掃除でもしておけ」
『アジトはもうかれこれ五回は探したわ! 外に持ち出したりもせん以上、盗まれたとしか言いようがないじゃろう』
「バッタとロボットは何にも知らねえのか」
『知らんじゃろうな。なんせ三人で昼餉を食べに出かけた後に発覚したからのう』
「……はぁ? おい、今なんつった」
周囲がうるさいから聞き間違えたんだと信じたい。レオは汗の滲む額に手を当てながら、祈るような気持ちで黒野の言葉を待った。
『じゃから、三人で昼餉を』
「テメェらはバカか! なんで三人揃ってのこのこと出かけてんだよ! 大体バッタはともかくロボットはメシなんていらねえだろ!」
『おい、オレはロボットじゃねえって何度も言ってんだろ!』
『俺も立花でバッタ!』
スピーカーモードにでもしてあるのか、小さく野次が飛ぶのが聞こえた。
『感情の問題じゃ。食べることは適わずとも、共に行動することが――』
「もう、いい。お前らが仲良しなのはよぉく分かった。それで、犯人の目星はついてるのか」
『それがさっぱり分からんのじゃ。盗まれたのはカイザギアのケースだけで、他の発明品には手すら付けられておらん。鍵は開いておったが、壊された形跡はない。立花がロックを掛けたのはワシらも見ておったから、堂々と侵入して出て行ったということになるんじゃが……』
まるで透明人間でもいるようじゃ、と続ける黒野の狼狽しきった声に盛大な溜息が漏れた。オルフェノク製造マシーンの件といい、どうしてこうも危機管理意識が低いのか。悪の天才科学者という肩書通り、全ての黒幕のようにすら思えてくる。
「バッタがミスったんじゃねえのか。ちょっと抜けてるみてえだしな」
『どういう意味でバッタ!』
『それは無いと言ったじゃろう。ともかく、カイザを見かけたら注意するんじゃ。人間では扱えない代物じゃが、それを盗んだということは使い道まで知ったヤツの仕業の可能性が極めて高い。ワシらはこれからアジトを移転するからしばらく連絡できんが、落ち着いたらまた連絡する。いいか、七瀬にも伝えるんじゃぞ!』
ブツリと通話の切れたファイズフォンを耳から離す。未知のオルフェノクにブラックの動向と立て込んでいるというのに、どうしてこうもトラブルが続くのか。思わず大声を出したい気分だったがグラウンドでそんな真似ができるはずもなく、蝉の声に押し潰されるように両手で頭を抱えていると、不意に背後から誰かが近づいてくる気配がした。
「どうしたんだ古河、こんなところで。そろそろ練習が始まるぞ」
振り向いた瞳に赤い衣装が飛び込んでくる。ヒーロースーツにグローブという明らかに不似合いな出で立ちで顔を覗き込んでくるレッドに対し、レオはさりげない所作でファイズフォンを隠しながら唇を尖らせた。
「別に、なんでもねえよ」
「そうか? 俺の聞き間違えでなければ、犯人、と聞こえたが」
――そこまで聞いてんなら最初っから言えよ。
内心の声を押し殺し、自身の言葉を思い返す。バッタやロボットはさておき、ファイズやオルフェノクに関しては口に出していないはずだ。
「知り合いのとこに空き巣が入っただけだ。大したことじゃねえ」
「空き巣か……それは問題だな。古河、俺達の力が必要ならいつでも言ってくれ。ヒーローとして犯人検挙に全力を尽くそう」
「そいつは頼もしいこった。持つべきものはヒーローの知り合い、ってヤツだな」
レオとしては精一杯の皮肉を言ったつもりだったが、いかんせん顔が見えないためレッドの反応が分からない。ただ気分を害してはいないのか、レッドは任せろと言わんばかりに拳を強く握り掲げてみせた。
「さあ、練習開始だ。張り切っていくぞ」
マフラーを颯爽と翻し気合の声を発する赤い戦士は、むしろ上機嫌なようにも見える。ブルーや東の怪我によりチーム事情が厳しくなってきた昨今にしては、それは非常に珍しいことだった。
まさか――レオの脳裏に最悪の可能性が過ぎる。
「なあ。なんか良い事でもあったのか。えらいゴキゲンじゃねえか」
進みかけていた足がピクリと止まる。首だけで振り返り見せた感情を映さぬバイザーを、レオは負けじと力強く睨んだ。
「なに。もうすぐ予選が始まるからな。気分が上がってしまっているだけだ。ヒーローが御機嫌では、不満か?」
質問に質問で返されレオは口を真一文字に結んだ。どこまで知っているのか。何が目的なのか。カイザのベルトを奪ったのはヒーローなのか。鎌を首にかけたつもりだったのに自分の首の皮にも切っ先が当てられたかのように思えて、背中からぷつりぷつりと汗が噴き出すのを感じた。
「別に。オレには関係ねえことだ」
レッドを追い抜き部室へと戻る。
背中に突き刺さるような視線を感じたが、レオは振り返ろうとはしなかった。
鐘を打ち鳴らしたかと聞き惑う程の快音がグラウンドに響き渡り、白球は瞬く間に防護用ネットの上を越えていく。阿部は小高い丘の上で打球の行方を追うことも無く、膝に手をつきがくりと項垂れた。
三者連続ホームラン。実戦形式の練習でなければ悪夢そのものだ。もっとも、今日の結果次第で予選大会二十人の枠に入れるかが決まるという噂が実しやかに囁かれている人間組としては、やはりこの結果は悪夢としか言いようがない。
「次、古河!」
佐和田の呼び声が飛ぶ。キャッチボールをしていたレオは白球を村野に投げ返すと、ゆっくりとマウンドへと歩みを進めた。終わりの無い永遠の攻撃にすっかり覇気をこそぎ落とされたバックを守る球児たちの顔は暗い。ヒーローと人間の差をここまで無残に見せつけられれば無理も無いだろうと、レオは痙攣する頬を手で押さえ小さく溜息を吐いた。
小走りに駆け寄ってきた捕手の少年がミットで口元を隠しながら隣に並ぶ。
「頑張ろうね、古河君」
「ったりめえだ。アイツらのバット、片っ端からへし折ってやる」
「それは難しそうだけど……金属だし」
「気分の問題だ」
佐和田の方針は七瀬や玲奈に聞いていた通り、分かりやすくヒーロー偏重そのものだ。実戦形式と銘打ってはいるもののメンバー構成は変則的で、投手のブラウンとシルバーを含めた七人のヒーローはひたすら攻撃を、それ以外のメンバーで守備を担当する。
バッターボックスではピンクが二度三度と素振りを繰り返していた。これまで観て来た順番通りなら、イエロー、レッドと続くことになる。よりにもよってヒーローの中でも特に実力のある連中が並ぶとは。森盛にも聞こえない音量で小さく舌打ちをした。
「いきなりピンクか。厄介だけど、意外とやりやすいかも」
ピンクの素振りを眺めていた森盛の呟きを受け、レオは軽く口笛を吹いた。
「言うじゃねえか」
「あ、いや。もちろんボクなんかより全然凄いバッターだよ。だけど直球に振り遅れることが多いから、古河君の直球があれば空振りが取れるかなって。もちろん、巧く狙いを逸らさないといけないけどね」
スコアブックを眺めているかのように流暢に語る小柄な少年を、大きく目を見開き見つめる。レオの不思議そうな気配に気が付いた森盛は驚きに首を竦めた。
「ど、どうしたのさ、古河君」
「いや。お前、キャッチャーっぽいなって」
「まあ、一応キャッチャーだからね」
焦れたピンクが左のバッターボックスから早くしろと言わんばかりにホームベースをバットでコツコツと打ち鳴らす。作戦会議はここまでのようだ。
少年の尻をグラブで叩き送り出す。小さなガッツポーズを見せた森盛は定位置に戻ると、マスクを被り直した。
キャッチャーミットの下から繰り出されるサインに目を凝らす。セオリー通りの外角へのストレート。小さく頷き丸まった背筋を伸ばした。
天を掴むように両腕を掲げる。睥睨したバッターボックスが背後の景色を取り込んで魚眼のように撓んだ。たっぷりと夏の声に身を委ねた後、発条人形のように上半身を大きく捻った。誰もが息を呑む気配が手に取るように分かる。立ち込めた熱気を吹き飛ばすように右腕が弧を描いた。強烈なスピンのかかった一球が唸りを上げミットを強く叩く。審判役を務める東の手は上がらない。だが、その一球が強烈な衝撃を与えたことは誰もが静まり返ったその場の空気が物語っていた。
二球目。ブレーキの利いたカーブにピンクのバットが空を切った。コースは甘く真ん中に抜けるような一投だったが、ストレートと比較すれば蝿が止まるようにすら見えたに違いない。戸惑うようにバットの先を眺めるピンクをマスクの合間から垣間見た森盛が素早く次のサインを出す。
一転してストレート。指示としてはインコースだったが白球は中央へと吸い込まれる。ピンクのバットは一瞬ピクリと動き、僅かに腰を浮かせた。カーブの余韻がまだ残っている。
大きく踏み出した左脚を大地に噛ませ、縫い目に掛けた指で白球を押し出す。浮き上がるような軌道で突き進むストレート。インコースの高めに外れようかという一球に対しピンクが出したバットは、ボールの遥か下の空気を薙いだ。森盛のミットが高らかに打ち鳴らされた瞬間、ボールを三塁手の守岡へと勢いよく放つ。守岡から七瀬へ、七瀬から白石へとダイヤモンドを一周するボールには目もくれず、レオはロジンバッグを拾い上げ小さく息を吐いた。
「まずは、一人」
台場から投げ返された白球を受け取り呟く。イエローが豪快に素振りをする横で、森盛が左の手首をポンポンと叩き、それからクルクルと指を回すのが見えた。
そういうことか。レオは頷き、プレートの上に足を置く。
東によるプレー再開の号令がかかるや否や腕を振り上げたレオは、素早い所作でトルネードのモーションへと移行した。初球はインコース寄りのストレート。ベース板近くでワンバウンドする一投になったが、窮屈そうに腕を畳みながらイエローはスイングを選んだ。
ボールが投げ返されるのと同時に森盛から出されるサインに対し、レオは帽子の日除けを触って応える。考える隙を与えずに二球目へ。アウトコースへと投げ込まれた直球にバットが伸びる。鋭い金属音と共に走った打球は、一塁線を右へと切れていく。
三球目。サインの交換は既に終えている。中腰の森盛へ投じたストレートに対し、イエローはフルスイングで応えた。風切り音がマウンドに届く。ミットに収まった白球が、再びダイヤモンドを回った。
「――二人」
イエローのパワーは規格外の長所だが、同時に当てさえすればという意識を生む短所でもある。積極的なスイングを引き出すために投球の間隔を短くし、全て直球にすることで勝負を急がせる。
直球に振り遅れるピンクの弱点は反射神経だ。実戦で投入するには心許ない唯一の変化球を敢えて投じたのは、ピンクの脳からストレートの印象を消し去るだけの目的だったが、空振りを取れたことで勝負はほぼ決していた。
指先に付いたロジンに息を吹きかけながら、内野陣に檄を飛ばす森盛を見遣る。使い走りの経験で培われたのか、この少年のリードは相手の弱いところを的確に突く観察眼によって構成されている。相手が勝手知ったる身内であればその効果は絶大だ。小柄な体躯が、いつもの何倍も頼もしく見えた。
だが、次はどうする。
バッターボックスの横でゆっくりと屈伸運動を繰り返すレッドを眺め、レオはごくりと唾を飲み込んだ。
復帰してからの三カ月で分かったことは、レッドの上達のスピードが尋常ではないということだ。ヒーローは多かれ少なかれ持ち前の身体能力に頼るきらいがあり、連係プレーや配球の妙に弱い。ただ一人、レッドを除いて。
進塁打や盗塁を企図する場合のケースバッティング、守備の際のカバーリング、ランダウンプレイ、配球のノウハウ。お前には必要ないと佐和田から言われてなお、レッドはより精細に野球に取り組んでいた。他のヒーローたちや人間の部員たちがグラウンドを去った後も一心にバットを振るその背中は、誰よりも人間らしく、球児らしく揺れていた。
レオの不安は果たして現実となる。
初球、二球目と直球を見逃されて1-1。アウトコースに外れる投球も見られて2-1。胸元を突く球をコンパクトに腕を畳み捉えた打球は、右翼線を際どく割りファールとなった。これで2-2。勝負に持ち込めるカウントではあったが、レオと森盛の耳朶には金属バットの快哉が強く残っていた。
森盛から送られるサインがカーブを示す。ブレイキングボールで打ち気を逸らし、手が出てくれれば空振りも狙える。勝負といえば勝負だが、その意図は明らかに逃げの一手だ。レオは首を振りかけ、止めた。
奇しくもその一球は、絶妙な高さに投じられた。緩やかな軌道で落ちるボールを祈るように見つめる。レッドは微動だにしない。森盛は捕球体勢のままコールを待ったが、東の手が上がることは無かった。
調子はいつになく良好だった。六球目、七球目はいずれもインとアウトを広く使った糸を引くようなストレートだったが、赤い戦士はいずれも悠々とカットしていった。
八球目。直球が高めに抜ける。これまでかとレオが歯を食いしばったとき、短い金属音が響いた。白球が東の後方へ飛ぶのを眺めながら、レオはレッドの真意を悟った。
「クソッ」
レッドはただレオとの勝負に勝ちたいのではない。
ヒーローとしての面目を掛けて立っているのだ。
その結末は四球やヒットでは認められない。ピンク、イエローと手玉に取られた仮を返すには、誰の目から見ても完全に軍配が上がる結果を残さなければいけないのだ。
バットで弧を描くルーティンから、ピタリと制止した構えに移る。物言わぬ漆黒のバイザーが、どこまでも大きく見えた。
「タイム!」
キャッチャーが立ち上がり近寄って来る。ひとつ小さく息を吐きロジンバックに手を伸ばした瞬間、尻に強い衝撃が走った。
驚き振り向いたレオの目に映ったのは、キャッチャーマスクの奥で額に深い皺を湛えた少年の顔だった。
「どうしたあ。俺様が認めたお前の力はこんなもんじゃないだろう」
ミットで口元を隠しながら、あの森盛が檄を飛ばす。
トルネード投法を始めて実践したあの日から、森盛のもう一つの顔はしばしばレオの前に登場していた。もっともそれはレオが舌鋒鋭く少年を糾弾したときであり、自ずから表に登場するのは今回が初めてのことだ。
血走った目でレオをギロリと睨んだ森盛は、ミットへ一発拳を打ち込んだ。
「漢ならバシッと、お前の一番の球を放り込んで来い。難しいことを考えるのは俺様の仕事だ。分かったな、古河レオ」
「……フルネームで呼ぶなって言ってんだろ」
軽く口の端を持ち上げたレオに森盛の白い歯が零れる。
まったく。どいつもこいつも、暑苦しいんだよ――。
大きく深呼吸をすると、噎せ返るような夏の熱気が身体中の温度を上げたように感じた。
バッターボックスと再び相対する。バットを構えるレッドと視線が交錯した。森盛はサインを出さない。ただ深く腰を据え、ストライクゾーンの中央にミットを構えている。あの日の一球の再現。そのメッセージがうるさいほどに伝わってくる。
レオは首を横に振った。再現では終わらせない。あの一球が自分の最高の球で終わってたまるか。頭の中で豹とは異なる獣の声が咆哮を上げている。
その叫びが伝わったのかどうかは分からない。森盛はただ、ミットを叩き再び中央に構えた。
掲げた両腕。全身の筋肉の脈動が今なら分かる気がした。背中を丸め込み力を右足一本に託す。大きく開いた大胸筋。踏み込んだ左脚が白土を飛ばした。リリースポイントはただ一点。人差し指と中指の皮膚が熱く燃え上がる。白球は銃弾のように押し出された。
レッドの反応は人知を超えていた。最短距離を通り繰り出されるバットがボールを叩く。鋭いスライス回転のかかった低い打球が三塁方向へ飛んだ瞬間、森盛はレッドの癇声を聞いた。咄嗟に守岡が飛び込むよりも早く白球が内野を抜ける。ヒットか。誰もがそう確信したとき、三塁後方で土煙が舞った。ユニフォームの前面一杯に土を塗った七瀬が起き上がる。ノーステップで投じられる矢のような送球を、巨躯をこれでもかとばかりに伸ばした台場がキャッチしたとき、レッドは僅かに早く一塁を駆け抜けていた。
セーフという塁審の掛け声にヒーローたちから歓声が沸く。レッドはそちらへ顔を向けることも無く、ただ天を見上げていた。
マスクを外した森盛がレオの元へと駆け寄る。その顔はすっかりいつもの少年のものに戻っていた。
「並の打者なら三振、並の守備なら長打コースだね。お疲れ様、古河君」
「二勝一敗。当落線上ってとこか」
「ヒーロー相手で、ケガ明けのピッチャーにしては出来過ぎだよ。後ろ、見てみなよ」
言われるままに振り向くと、バックを守る七人の少年たちが口々に激励の声を飛ばしていた。サンドバッグさながらにひたすら攻撃を受け疲弊しきっていた球児たちの顔は、夏空を映し込んだように輝いて見えた。
「みんな、やる気を取り戻したみたいだね。古河君のお陰だよ」
「いや……オレじゃねえよ」
レオは首の後ろを掻きながら、グラブで森盛の胸を叩いた。
「テメェのお陰だ、森盛。ありがとな。もう一人のお前にもよろしく言っといてくれ」
「えっ? ボ、ボク? ボクは何も……っていうか、もう一人のボクってどういうこと?」
佐和田はまだ何も言っていない。マウンドはまだ自分のものだ。
レオは顔中にハテナマークを張り付けた森盛にさっさと戻れと叫ぶと、柔らかく微笑む東から白球を受け取った。
Φ
街灯の作る白い地面に映った細長い影を眺めながら、梨子は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「そっかー、じゃあこれでレオも甲子園一直線、ってことだね!」
「気が早えよ。二十人の枠に入れても最初はベンチだろうし、地方大会で負ければそこで終わりだ」
そう呟くレオの顔も頭上に広がる夜空のように穏やかさを保っている。
地方予選の二十人枠において、投手の枠は三人ないし四人。ブラウンとシルバーが確定だとすれば残りは一枠か二枠ということになるが、一年生は勿論、二年の湯田や阿部、村野も悉くヒーローに打ち込まれている。その三人のように野手としての練習をしていないため確実と言い切ることはできないが、かなりの有力候補には踊り出ただろう、という手応えは降板後の佐和田の顔を見れば一目で察することができた。
「そうなの? あたし、野球なんて全然知らないからさ。ね、もうすぐ試合なんでしょ? 応援しに行ってあげるよ。猛も湯田っちも出てるなら面白そうだし」
「アイツらは……まあ、選ばれるか。試合に出るかは分かんねえけどな」
「九人でするんだっけ。じゃあさ、出てない時は隣で解説してよ。生解説!」
「バーカ。どっちみち、選ばれたらベンチにはいなきゃいけねえんだよ」
「えー。じゃあ、詳しい人誘うしかないかー」
バイト終わりの梨子と歩く河川敷は、通学路とはいえひどく懐かしく見えた。事実、ここしばらくの間、意図的にこの道には近づかないようにしていた。周とキャッチボールをしたこと。周を守れなかったこと。川の揺れる水面を目にするたび、そのどちらもがレオの胸を苛み締め付ける。ただ、今日はこの道を歩いてみたいと、はじめて前向きに思えたのだ。
「でもさ、でもさ。どっちにしても、夢への第一歩! ってことだよね?」
「まだ分かんねえよ。それに、夢ってのも何か違う気がする」
球児たちの憧れの甲子園は、まごうことなく夢の結実する地だ。ただ、レオがそこを目指すのは他ならぬ周の意志に突き動かされたからであって、自分本来の夢かと問われると首を捻らざるを得なかった。
レオの夢。それは既に、あのちっぽけなマウンドに上がったときに叶えられてしまったのかもしれない。思い返すだけで身体の芯が熱くなるような一球入魂の凌ぎ合いこそがレオの望むものであり、そこが甲子園のマウンドであろうが、グラウンドの砂山であろうが大差は無いのだ。ただ、どんな形であれもう一度マウンドに立ってやると決意した事故の日から復活を遂げるまで、あらゆる苦行や試練を乗り越えてやろうと覚悟した筈なのに、オルフェノク化という自分の意思と乖離した形で、それは想像したよりも遥かに容易く、そして中途半端な形で結実してしまった。勝負の熱気に身体を焦がされる一方で、心のどこかは虚しい風が吹き荒んでいる。
夢とは一体、どんなものだったのか。レオにはそれがどうしても思い出せなかった。
「なあ。お前の夢、教えてくれよ」
何気なく発した言葉に梨子の軽い足取りが止まる。レオは怪訝そうに眉を顰めたが、黙ったまま少女の答えを待った。
「んー。なんだろうね。ねえ、レオ。夢って、何なのかな」
梨子は背を向けたまま呟く。ともすれば夜風に掻き消されそうな声を拾ったレオは唇を尖らせた。
「オレも分かんねえから聞いてんだよ」
「えっ? そ……そうなの? それじゃ――」
俯き気味だった梨子の顔が上がる。何かを言いかけて振り向いたとき、レオは背後から強烈な憎悪の波動を感じ取り地面を蹴った。
「危ねえっ」
「え――キャッ!」
少女を抱き留めるように飛び掛かり、草の生い茂る斜面を転がり落ちる。その直後、二人の立っていた地面が破裂するように捲れ上がった。平坦な広場で飛散する土塊を背で受けたレオは、呻く梨子を守るように前に立ちはだかった。
心臓の鼓動が早い。グレーと相対したときも、はじめて自分以外のオルフェノクを見たときも、ここまでの焦燥を感じることは無かった。吐き気を催すほど顫動を繰り返す臓腑を落ち着かせるように呼吸を繰り返しても、一向に収まる気配は見えない。それは理性とかけ離れた獣としての本能が生命の危機を知らせるべく警鐘を打ち鳴らす、生物として原初の衝動だった。
「良い夜だな。豹のオルフェノク」
土煙の中から影が浮かび上がる。
それは圧倒的な死の臭いを纏った、獣王の肢体を模した異形の怪物だった。
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