パワプロクンポケットΦ 10話『Lady's Go!』
すっかり間が空いてしまって申し訳ありません…!
オルフェノクになってました! ウソです!
前の話はコチラ。
うだるような日差しの差すグラウンドに球児たちの掛け声が響く。
ジャンボ中原高校との地方大会二回戦は手に汗握るシーソーゲームの様相を呈していた。
高校生離れした体格の筋肉質な選手を揃えた同校はファーストストライクから積極的に小枝のようにすら映るバットを振り回す。甘いコースにボールが入ったが最後、痛打は避けられないジャンボ打線に対し、ブラウンは果敢に内角を攻め立てた。ソロホームランで小刻みにスコアボードに1を並べられたものの、花丸打線はアバウトな制球に目をつけ待球作戦でランナーを溜め、高めに浮いたフォークで塁上を一掃する。八回を終えた時点で8-7。またしても1点のリードを保ったまま最終回へともつれ込んだ。
酷暑により変化球のキレに陰りが見えていたブラウンに代わってマウンドに送り込まれた村野を、レオは頬杖を突きながら眺めていた。
無死満塁を無失点で切り抜けたと言えば聞こえはいいものの、打者四人に対して二つのフォアボールはお世辞にも出来が良いとは言えたものではない。おまけに、最後のダブルプレーは七瀬の好判断によってもたらされたものであり、無失点に抑えたことはもはや奇跡的と言ってもいい。アピールは失敗したのだ。
打球が直撃したシルバーは既に回復していたものの、佐和田の判断によりこの試合では登板を避けることになっていた。本心としてはブラウンに九回まで投げ切って欲しかったのだろうと、レオは苦虫を噛み潰したような顔でグラウンドを見つめる佐和田の横顔を睨みながら小鼻に皺を寄せた。
村野は低めを丁寧に突く投球で一人目の打者を危なげなく三振に切って取る。内野陣を見回し人差し指を上げる少年を見ていると、ベンチで見ていることしかできない自分がどうしようもなく情けなく思えた。
「うわっ」
痛みすら覚えるような冷感が首筋に張り付き反射的に声が漏れる。弾かれたように振り返ると、たっぷりと汗をかいたスクイズボトルを片手に玲奈が微笑んでいた。
「水分補給、忘れちゃダメだよ。いくらベンチが日陰でもこの暑さなら熱中症になるんだから」
「霧島……普通に渡せばいいだろ」
ひったくるようにボトルを掴むと、スポーツドリンクを勢いよく体内に流し込んだ。身体も水分を欲していたのか、程よい甘味がじんわりと浸み込んでいく。ひと口でボトルの半分以上を空にしたレオに目を丸くしながら玲奈は隣へと腰掛けた。
「やっぱり、喉乾いてたんだ。試合開始から一滴も飲んでないの、古河君くらいだよ」
どうせ出番なんて回って来ない。心のどこかでそう決めつけていたのだろう。
「スコアはどうした。サボりか」
「ううん。東センパイが代わってくれてる。守備での出番は無いだろうから、って」
ベンチの端では東が真剣な面持ちでグラウンドを注視している。二回戦もここまでのところ出番は無い。何かしらの形でチームに貢献したいとでも言いたげな横顔に一筋の汗が光っていた。
快音が響きグラウンド上が慌ただしくなる。フェンス直撃の痛烈な打球だったが、黒打の安定したクッション処理によってシングルヒットに留められる。佐和田の小さな舌打ちが耳に届く。
「あ。今、ちょっと笑った」
刺すような剣呑な視線が向けられ、眉根に皺が寄る。
「笑った? オレが?」
「うん。ずっと親の仇を見るみたいな顔だったのに、今ちょっとだけ笑ってたよ」
「……気のせいだろ」
そうかなあ、と首を捻るマネージャーを尻目にマウンドに視線を戻す。
気のせいではない。表情にまで現れているとは思わなかったが、それは自分自身が一番よく分かっている。
打たれてしまえばいい。今日一日、心の中ではずっとその言葉だけが渦巻いていた。
ストライクゾーンにボールが全く入らなかった前回の試合で、レオは生まれて初めて投球に恐怖を覚えた。ストライクが入らない。置きにいこうとすれば棒球を痛打されるような錯覚。かといって、リズムを取り戻すための術も経験も持ち合わせていない。一戦必勝の重圧に打ち克つための自信を付けるだけの時間も無いまま復帰することになった代償が、その双肩に重く圧し掛かっていた。
マウンドを勝ち取る。その決意はどこへいったのか。
「やっぱり、この前のこと……まだ気にしてる?」
躊躇いがちな玲奈の言葉は、まるで心の声を聞きとられているかのようだ。ヒーローを押し退け先発の座を奪い取ると息巻いていただけに、自分の不甲斐なさが余計に際立つ。
「復帰したばっかりなんだし、気にし過ぎてもダメだよ。四月に比べれば見違えるくらい良くなってるんだし、一歩ずつステップアップしていけば来年にはエースも夢じゃないって」
チームメイトたちの声援を隠れ蓑にするように声を潜める。
来年。
レオの頬がピクリと引きつった。
「何が来年だ。そんなチンタラしたこと言ってらんねえんだよ」
知らず強まった語気に驚いたのは玲奈だけではなかった。
己の中の獣が時間が無いと叫んでいる。
得体の知れない焦燥感が他の全ての感情を踏み潰していく。
「それは……分かってるよ。東センパイは今年で引退なんだし。でも、私が言いたいのは」
「何が分かるってんだ。お前がオレの、何を知ってるって言うんだ」
目の前で周を死なせたオレの何が分かる。
怪物になってしまったオレの何が分かる。
明日が来るかも分からないオレの何が分かる。
玲奈は一瞬ひどく傷ついたように顔を曇らせたが、すぐに唇をぐっと結び首を静かに横に振った。
「知らないよ。古河君のことは、私は知らない。でも、マネージャーとしてなら知ってる。数日、数週間――ううん。数カ月かかっても、結果が出るかなんて誰も分からない。でも、七瀬君だってそうやって苦手だった守備と向き合って、時間をかけて克服してきたんだよ」
七瀬という名前が出た瞬間、脳髄がかっと熱を帯びる。
今日の七瀬は試合開始から陽光を浴び続けている。ピンクの定位置を押し退けることこそできなかったが、ユーティリティかつ安定感のある守備を買われセカンドのスタメンとして名を連ねていた。その判断に一回戦のワンプレーが影響したことは想像に難くない。レオが数カ月経過した今でも悩み苦しんでいる変化の影響は、やはり黒野の指摘通り薄いのだろう。
七瀬猛。自分と同じように怪物に成り果てながら、自ら進んで仮面の騎士として戦うことを選んだ男。まるでそれが、免罪の勘合であるかのように。
そこに一体何の躊躇があったのか。
同族殺しの咎を背負う覚悟があったのか。
外皮という殻の裡に潜む怪物に蝕まれる恐怖があったのか。
あるわけがない。
人間として不自由なく振舞える男にそんなものがあるはずがない。
七瀬猛は人間だ。
歪で半端な、それでもただの人間なのだ。
誰も怪物である自分のことなど理解できない。
人間の小娘が向けてくる憐憫の眼差しが癪に障る。
強く握り込んだ拳の中で、ぷつりと薄皮が断ち切られた。
「整列だよ、古河君」
何かを口走ろうとした矢先、肩に東の手がかかる。グラウンドでは七瀬や村野、森盛たちが笑顔でハイタッチを交わしながら、足早にホーム周辺に駆け集まっていた。
「あ――ほらほら。みんな待ってるよ」
即座に笑顔を取り繕った玲奈がポンポンと手を叩く。いつの間にやら試合は花丸が勝利で締め括ったようで、既にベンチには東とレオ以外の球児は見当たらない。
帽子を目深に被り直しベンチの外へ駆け出ると、ぐにゃりと景色が歪んだ。
東に声を掛けられるのがもう少し遅ければどうなっていたのか。
容赦なく照り付ける日差しは、視界のみならず頭の中までも白く塗り潰していった。
Φ
審判団を挟み整列した球児たちが脱帽して一礼する。春香はその小さな頭の倍はあろうかという麦わら帽子の日除けを上げ、家から持ってきた父親の大型の双眼鏡で一番奥の少年に焦点を合わせる。声を聞くまでもなくレオの機嫌が悪いのは、能面のような相貌を見れば火を見るより明らかだ。
――結局、今日は出番なかったな。
春香の両隣には誰もいない。駆も梨子も今日はバイトということで、二戦目にして早くも一人きりの観戦になってしまった。あの試合の後に本で勉強したため幸いルールに困ることは無かったが、やはり一人きりというのは寂しい。おまけに目当ての選手が出てこなかったとなれば、自分の高校が勝ったとはいえ複雑な気分だった。
日差しに晒されていた肌が薄らと赤みを帯びている。日焼け対策にカーディガンは持ってきていたが、ただ座っているだけで滲み出てくる汗でべたべたと肌に張り付き気持ちが悪かったのですぐに脱いでしまったのだ。日焼け止めを塗ってきたとはいえ、エンジンを全開にした太陽の下では気休めにもならない。
客席の隅ではランニングシャツの老人がこの暑さの中で横になって眠りこけている。離れて座っていた春香にも聞こえる声量で球児たちに野次を飛ばすたび、自分のことでもないのにびくりと身体が震えた。もっと離れた場所に移動しようかとも考えたが、それを理由に因縁をつけられるかもしれないなどと思うと足が動かなかった。
疲れているんだ。そっとしておこう。
春香が腰を上げたとき、グラウンドから自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「春香ちゃん! 来てくれてたんだね!」
「あ――センパイ!」
中学時代からの先輩に手を振り返しながら階段を駆け下りる。
最近は試合が近いこともあってかレオは喫茶店に来ていない。メールを送っても返事がないのは前からだ。
少しでも声が聞けるかもしれない。フェンス越しでも顔が見られるかもしれない。
そう考えるだけで、少女の胸はことりと小さく跳ねた。
にこやかに微笑み春香を待つ東の隣に、ユニフォームの前面を一分の隙も無く泥塗れにした七瀬が並んだ。
「春香ちゃんって……あ、やっぱり倉見さんだ」
「おや、七瀬君も知り合いだったのかい?」
「はい。倉見さん、商店街の喫茶店でバイトしてるんですよ」
「東センパイ、それに七瀬さん! お疲れ様ですっ」
フェンスに体当たりするような勢いで最前列に辿り着いた春香が息も絶え絶えに声を掛ける。二人が口々に述べる感謝を聞きながら春香は目だけでレオの姿を探したが、先程までいたはずの少年はどこにも見当たらない。
「あの、古河さんは――」
「レオ? そういえばいないなぁ。ベンチにも見当たらないし、まさかもう撤収したのかな?」
「そう、ですか……」
風船が勢いよく萎むように意気消沈する少女に対し、東は不思議そうに七瀬を見る。春香の思惑を知る少年は、曖昧に視線を逸らし頬を掻いた。
「あっ、七瀬さん! 後ろ!」
「えっ?」
突如降りかかった春香の声に七瀬の眉が上がる。直後、どん、と背中に何かがぶつかる。
その勢いは弱く、数歩だけ前によろけた少年が振り返ると、すっかり見慣れた転校生が呆然と佇む姿があった。
「黒打君?」
「あ……ご、ごめん」
その瞳は長い前髪に隠れていたが、それでも黒打が慌てているのは分かる。クールな奴かとばかり思っていたがこんな顔もするのかと、七瀬の目尻が下がった。
「俺は大丈夫。どうしたの?」
「ええと……ちょっと、ぼーっとしてて」
「暑いからかな? しっかりしろよ、今日も大活躍だったんだし!」
「う、うん……ごめん」
消え入るような声で呟いた黒打は、一度天気を窺うように顔を上げたあと、すぐにベンチへと入っていった。
「七瀬君。そろそろ俺たちも行こうか」
「そうですね。じゃあ倉見さん、またね」
「春香ちゃん、今日はありがとう。今度、喫茶店にも行かせてもらうよ」
二人の姿が見えなくなった瞬間、春香は小さく溜息を零した。
球児たちの歓声が消えたグラウンドには球場の外から生を謳歌する蝉たちの声が響き渡っている。夏も盛りだというのに、まるで一人だけ取り残されたかのようだ。
ぱちりと両手で頬を叩く。こんなところで呆けていても何も始まらない。
見てなさい、夏。きっと誰もが羨む高校生活を手に入れてみせるから。
両拳を胸の前で小さく握り、春香は球場を後にした。
Φ
スーパーまる生のスタッフルームは蒸し風呂さながらに湿気を含んだ重い空気が立ち込めていた。扉を閉めた瞬間、梨子はエプロンを脱ぎ捨てると部屋の隅で申し訳程度の風を送る扇風機の前に陣取り、シャツのボタンを三つ目まで明けた。生暖かい風が余計に汗を誘発させる。もうちょっと頑張りなさいよと心の中でぼやきつつ風力を強めようとしたが、ヴィンテージ感漂う扇風機は既にその全力をもって稼働していた。
『節電! STOP地球温暖化』と赤字で記された勧告を見なかったことにし、クーラーの設定温度を一気に十度ほど下げる。何がSTOP地球温暖化よ、もうあたしが温暖化してるのよ――こちらも二世代前から使い倒しているのではないかと疑いたくなるほど年季の入ったクーラーを睨みつけていると、その斜め下の扉が開いた。
慌ててクーラーのリモコンを投げ捨てたことには気付かず、生瀬小晴はにこやかに少女へと微笑みかける。
「あっ、石川さん。今日も暑いね~。休憩中?」
「うん。今日も夜までだからね。生瀬さんは今から?」
ロッカーに鞄を入れた小晴は首を縦に小さく振り微笑む。
「小晴でいいよ。たしか同い年だったよね?」
「じゃ、あたしもリコでいいよ。小晴ちゃん」
小晴はオーナーの娘だが無能なオーナーに代わって実質的にはこのスーパーの切り盛りをしている。梨子の採用面接にも立ち会っていたため、バイトに入って日は浅かったが既に二人は顔見知りだった。
「あっ、そうだ。リコちゃんって花丸の野球部の子と付き合ってるの?」
扇風機のフレームに思い切り頭を打つ。おかしなことを訊いただろうかと目で訴える小晴に対し、梨子はぶんぶんと音が鳴る勢いで首を横に振った。
「なっ、ないない。全然付き合ってない」
「あれ? そうなんだ。商店街を一緒に歩いてるところ見たから、てっきりそうなのかと思ってたよ」
「ちょっと色々事情があって居候させてもらってるだけだよ。付き合うとか、全然そういうのじゃないから!」
「えー、居候ってことは同棲ってことでしょ? リコちゃん、凄いなぁ」
「い、いやいや。お父さんも一緒にいるから、別に二人っきりってわけじゃないし」
自分で口にしながらも苦しい言い訳だなあと梨子は思う。
出会ったばかりの頃こそ本当に自分が狙われているものだと恐れていたものの、その疑念は春香を救出した際に早々に晴れた。異形のナメクジに襲われたのはまさに偶然の出来事であり、言うなれば野良犬に噛まれかけたようなものなのだ。もちろん、野良犬よりもよほど凶悪な相手ではあるが。
それでもなお古河家に住み続けている理由は二つ。一つは単純に、未知の怪物の襲来などという非常識的な事件が目の前で起きたというのに、みすみす自分から舞台を降りるなんて勿体ないということ。実に不謹慎だということは理解しているが、人一倍強い好奇心を抑えつける術など少女は知らなかった。
もう一つは問題の同棲相手だ。レオという少年は粗野な言動により一見誰の助けも必要としないタフな心身を備えているようにも見える。実際、この数カ月間で起きた両手では数えきれないほど繰り返される戦闘においても、時折苦戦を強いられることこそあれレオは常に勝ち残っている。それが黒野の現代科学を超越した技術によるものなのか、それとも少年自身に兼ね添わっていた潜在的な能力によるものなのかは梨子には分からないが、いずれにしてもレオは強い。だがそこに自傷的な危うさを感じるのは、果たして梨子の気のせいだろうか。あたしが支えてあげないと。変身を解いた後の物言わぬ背中を見るとき、少女はいつだってそんな不安と自責の念に駆られるのだった。
とどのつまり、放っておけないのだ。
――これってまさか、母性ってヤツ?
梨子は小晴には気付かれぬよう、こっそりと溜息を吐いた。
小晴は手早く身支度を整えると、梨子の隣に座り生温い風を浴びる。石鹸の香りがふわりと広がった。
「そういえば、リコちゃんってどこの高校なの?」
「あたし、高校いってないんだよねー。通い始めてすぐ辞めちゃってさ。あ、でもフクザツなジジョーがあるわけじゃないよ。なんか、行く意味がわかんなくなったっていうか、そんな感じ」
「へぇ……なんか、カッコいいね」
「そうかな? へへ」
照れたように頭の後ろを掻く。たしかにロックな生き方だと自分でも思う。
「それってやっぱり、他にやりたいことがあったの?」
「んー、そういうわけじゃないんだけどね。どっちかっていうと、やりたいことを見つけたかったって感じかな」
「そうなんだ。わたしもリコちゃんみたいに行動力があったらなあ」
小晴は背もたれに身を預け目を瞑る。梨子がきょとんとした顔で次の言葉を待っていると、少女は天井の染みを見つめながら疲れたように微笑んだ。
「わたし、夢があってさ。お母さんがイタリアにいるんだけどね。そっちでレストランを開いてて、こっちに来ないかって誘われてるの。高校を卒業するまで待って欲しいって言ってるんだけど……ホントは、今すぐにでも飛んでいきたい。こんな小さな町の小さなスーパーなんてお父さんに任せて、広い世界でちゃんと経営を勉強してみたいんだ」
自身の横顔に向けられた視線に気が付いた小晴は、気恥ずかしそうにきめ細かな髪を掻き上げると、上目遣いに梨子を見た。
「あ……ごめんね。リコちゃんの職場でもあるのに」
「ううん。気にしなくていいよ。スゴいなー、小晴ちゃんの方があたしより全然カッコいいじゃん」
「そんなことないよ。ただの夢だしね」
ただの夢。何気ない口調で小晴から零されたその言葉が、耳の中で幾重にも残響した。
誰もが同じ服を着て同じ時間を過ごす高校という空間は少女にとって退屈以外の何物でもなかった。繰り返される日常に意味を見出すことができず、漠然と近付いてくる『大人』という壁の前で焦りだけが募る日々。ここにいても何も変わらないと思った時には、既に退学届を提出していた。
あの日から一年が経とうとしている。両親と話し合いのうえ実家まで飛び出し、自分一人で生計を立てている。バイト生活で要らぬストレスを感じることもあるが、高校を辞めたことを後悔はしていない。
日々の流れは一年前とは完全に姿を変えた。それなのに、胸中のざわめきは一向に収まる気配も無い。
「あっ。花丸高校、二回戦も勝ったって。しゅう……野球部の友達からメール来たよ」
机の上に置いていた携帯が着信を知らせ梨子の憂苦を中断させる。控え目にガッツポーズを見せる小晴に対し、梨子は即座に笑顔を繕った。
「そうなんだ! 甲子園がまた一歩近づいたんだね」
手の中の携帯は沈黙したまま動かない。もちろん、同居人がそんなマメな性格ではないことくらい十分に承知してはいたが。
「ねえ、レオ……古河って出番あったのかな?」
「どうかなー。勝ったとしかメールは来てないから――あ、ひょっとして」
口の端を持ち上げた小晴の顔が意地の悪いものに変わる。
「リコちゃんのカレシって、もしかして古河君なの!?」
「だから、全然違うってばーっ!!」
小さな休憩室いっぱいに声を響き渡らせても、胸の裡に立ち込めた濃い霧が晴れることは無かった。
Φ
黒々とした眸子が上から下へ、右から左へと忙しなく流れる。一度ストップすると、ぺらりという微かな紙擦れの音を鳴らし、再び瞳が動き始める。
駅近くの喫茶店に入店してからもう二時間ほどが経つ。賑わいを見せていた店内も空席が目立つようになり、カウンターの向こうでは店員が早くも片付けの気配を見せ始めている。
そんなことはお構いなしとばかりに一心不乱に読書に耽る少女を前に、七瀬はもはや水の味しかしないアイスコーヒーを口に含んだ。
何度か会話を試みようとしたものの、クロと名乗る少女は首を縦か横に振るだけで言葉らしい言葉を全く発しようとしない。呼びかけてもすぐに本の中へ視線を戻す所作からは、話すことを恐れているかのような錯覚さえ覚える。
もしかして、避けられてるのか?
吸い過ぎたアイスコーヒーがずるずると音を立てはじめる。いや、避けられているなら一緒に喫茶店に入ったりはしないはずだ、と自らを鼓舞すると、七瀬は何度目か分からぬ呼びかけを試みた。
「おーい。クロちゃーん。聞いてるー?」
ぴくりと小さな肩が揺れる。切れ長の瞳は上目遣いになると睨みを利かせているようにきつくなるが、端正な顔立ちからかそんな表情も愛らしく見える。
「……聞いてなかった」
「大丈夫。まだ何も話してないから。ねえ、ひとつ訊きたいんだけどさ」
視線はこちらを向いている。了承の合図とみなし、七瀬は会話を続けた。
「クロちゃんって、何歳? 俺と同じくらい……に、見えなくもないけど」
「……わからない」
「わからない、って……自分の歳、知らないの?」
こくりと首が縦に揺れる。
まずい。会話が終わる。
少年は小さいテーブルに両肘を突きながら早口にまくし立てた。
「じゃあ、苗字は?」
「……さっき、『ひとつ訊きたい』って言ってた」
「あれは言葉の綾というか。訊きたいことは山ほどあるんだよ。答えにくいことは答えなくていいけどさ。苗字くらいは訊いてもいいだろ?」
八の字に曲がる絵に描いたような柳眉に対して優しく語りかけると、クロは何度か本と七瀬を交互に見た後、視線を逸らしながらぽつりと呟いた。
「……ボナパルト」
「もしかして、適当に言ってる?」
『図解で分かる 世界の歴史』と背表紙に記された本を持つ手が震える。口数が少なさから冷淡なのかと思えばズレた冗談も言う。表情も変わらないため、ちゃんと聞いていなければ話がすぐにおかしな方向へ流れてしまう。
「……芹沢」
「セリザワね。じゃあ、セリザワクロってことだね」
しばしの沈黙の後、こくり。
瞬きもせず真っ直ぐにこちらを見つめてくる様は、真偽いずれを口にしているようにも映る。不意に豹の少年の顔が脳裏を過ぎる。レオは無表情とは程遠い、常に何かしらに対する不満を縫い付けたような苦々しい相貌をしているが、どちらも胸の裡に蠢く様々な感情をひた隠しにしているように思えた。
「クロっていうのもホントの名前?」
ぴくりと小さく肩が揺れる。隠し事をしていてもすぐに露呈してしまう。そんなところもどこか似ている。
「……どうして?」
「あ、気に障ったら、ゴメン。ただ、あんまり聞かない名前だったからね。まあ、俺の友達にブラックってヤツもいるし、最近はそういうのも珍しくないのかもしれないけど」
「……ブラック」
「うん。野球部の友達なんだ。そういや黒打君もいつも本ばっかり読んでるし、ちょっとクロちゃんと似てるかもね。無口なところもそっくりだし。もしかして、兄弟?」
「……そうかも」
黙考からの首肯。こういうところがこの子の謎めいた存在に拍車をかけるのだ。七瀬はご丁寧にずるりと肘を滑らせ、わざとらしく溜息を吐いた。
「謎を増やすようなことを言うのはやめてくれ。苗字が違うじゃないか」
とはいえセリザワという苗字が本当かどうかも定かではない以上、結局のところ何が真実なのかは分かったものではない。話を聞けば聞くほどに目の前の少女のことが分からなくなっていくような奇妙な感覚だった。
「クロちゃんは普段は何をしてるの? 学生……って感じにも見えないんだよな」
これも明確な答えなど返って来ないのだろうと半ば諦めつつ質問を続ける。クロはそれまでと同じように黒目の大きい瞳をじっとこちらに向けていたが、やがて僅かに伏し目がちに視線を逸らした。
「……どうして、私にそんなに質問をしてくるの」
「あ――ごめん。一方的に聞かれるのって楽しくないよな」
少し踏み込み過ぎたか。七瀬はぽりぽりと頬を掻いた。
「じゃあさ、クロちゃんも何か俺に訊きたいこととかない? といっても、別に普通の高校生だし何も面白くないかもしれないけど……」
「……じゃあ、一つだけ」
おや、と小さく眉が上がる。当然質問なんてあるはずも無いだろうと高を括っていただけに、少女が本をテーブルの隅に置いたのは全くの想定外だったのだ。
クロは本を手放した後もすぐに話し出そうとはせず七瀬の顔をじっと見つめていたが、やがて店内の微かなBGMにも掻き消されそうなほどの小声で唇を動かした。
「……私は、自分が何をすればいいのか分からない」
吊り上がりかけた眉をすぐに戻す。何の考えもなしに出た世迷言や冗談の類で無いことは、神妙な面持ちを見ればすぐに理解することができた。
「……貴方は、何のために生きてるの。教えて欲しい」
ふうと息を吐きながら椅子に背を預ける。クロが話していたのは時間にすれば数秒のことだったが、思わず呼吸を忘れるほどに聞き入っていたのだ。
何のために生きているのかというひどく抽象的な質問。まるで精神科の医者か、高名な大学教授にでもなったかのようだ。あいにくカウンセリングのやり方も哲学者たちの金言もひとつも知らない七瀬は、早々に居眠り半分に授業で聞いた知識を頭の中から追い出すと、困ったように笑った。
「難しい質問だなぁ。てっきりもっと簡単なのが来るのかと思ってたけど。えーと、そうだな……今は、夢のためかな」
「夢――」
「うん。甲子園で優勝してプロの野球選手になるっていうのが、俺の夢」
「……私には、夢がどんなものなのか分からない」
「クロちゃんは何かになりたいとか、何かをしたいとか、そういうのは無いの?」
ふるふると首が横に振られる。七瀬は下唇を甘噛みした。
「夢があれば、貴方たちみたいになれるの」
「俺みたい――かどうかは分からないけど。夢を持つとさ、ときどきすっごい切なくなるんだけど、ときどきすっごい熱くなるんだ。苦しいことやしんどいこともたくさんあるけど、悪いもんじゃないよ。少なくとも、俺はそう思う」
言い切った後で急に恥ずかしくなり、空のコップをぐいと傾ける。ちらりとコップの底面に目を向けると、何かを考えこむように手元を見つめる少女が歪んで見えた。
「ときどきすっごい切なくて、ときどきすっごい熱い……」
「あ、いや。それはその、例えというかなんというか、できればあんまり何回も言って欲しくないっていうか」
ぽりぽりと髪を掻きつつ弁解のようなものを口走っていると、クロはおもむろに席を立ちあがった。
「……ありがとう」
呼び止める間もなく出口へと向かっていった少女がすれ違いざまに残した言葉が耳の奥に溶けていく。振り向いたときには既に扉は閉まっていた。
慌ててエナメルバッグを引っ掴み会計を済ませ店を飛び出すと、むわっとした湿気の多い夜気が身体にまとわりついてきた。帰路を急ぐ疎らな人波がちらりとこちらを見る。少女の姿はどこにも見当たらなかった。
Φ
扉の外から足音がひと際大きく聞こえる。
少女は虚ろな瞳を白い壁の向こうへと向けた。
忙しない足取りからして走っているらしい。時折、誰かにぶつかっているのか謝罪の言葉のようなものを早口に述べている。どうやら若い男のようだ。こちらへ近づいてきている。
足音は部屋の前で止まった。荒れた呼吸を整えることもなくスライドドアを開く。
「叔父さん!」
肩を激しく上下させる少年と視線が交錯する。隙間もないほどびっしりと汗にまみれていた相貌が、見る見るうちに脱力していった。
叔父さんとは当然、少女のことではない。ベッドの横に控えていた壮年の男性は、コウイチ、と呼び掛けると、少女に不安げな瞳を向けつつ小声で少年に話しかけた。
一度は弛緩した表情を再び曇らせる少年の顔は入ってきた時はピンとこなかったが、間接照明が暗い部屋をゆっくりと照らし出すように徐々に少女の頭の中でその輪郭を取り戻していった。
義兄さん――
その存在を思い出した途端、様々な回路に電流が通い始めるのがわかった。まだ幼い頃に母を交通事故で亡くし、5年前に再婚した父もまた交通事故で亡くしたこと。義兄はその再婚相手の連れ子だということ。ただ、霧が立ち込めたようにまだ頭の中はぼんやりとしており、何かもっと大切なことを忘れているような漠然とした不安感がしこりのように残り続けている。
「記憶喪失といっても、完全に何もかも忘れたわけではないらしい。詳しくは検査を受けないと分からないが、どうやらここ数年のことを覚えていないようだ」
叔父さんと呼ばれた男の声が耳に飛び込んでくる。といっても、二人は目の前にはいない。少女に気を使って部屋の外に出たというのに、会話だけがまるでテレパシーのように漏れ聞こえている。
記憶喪失。ドラマみたいだと、まるで他人事のように少女は思った。浮遊感のような奇妙な落ち着きの無さの正体はこれかと、むしろ得心すらしていた。
話によると、どうやら自分は十数日もの間行方不明になっていたらしい。警察にも届け出が出されたものの家出くらいのことだろうと相手にされず、いよいよ興信所に依頼に行こうかと考えていた矢先、街外れの河川敷で倒れていたところを発見された。着衣に多少の汚れは見受けられたものの暴行の類を受けた様子は無く、身体には傷痕一つ残っていない。叔父の話から少女が聞きとれたのはこんなところだった。
それにしても、自分はこんなに耳が良かっただろうか。
身体に傷が残っていないとはいえ、記憶障害が起こっている以上はこの身に何か起きたと考えるのが道理というものだろう。自分がどうして行方不明になったのか、今となってはひとかけらも思い出すことはできなかったが、もしかするとその事件の影響なのかもしれない。もっとも、記憶の喪失と聴力に関係があるとは考えにくかったが。
薄いレースのカーテンの隙間に目を向けると、低い雲が夜空を覆い尽くそうとしていた。窓は締め切られているというのに、湿った土のような臭いが漂っている。
ぼんやりとガラスに映る自分の顔も、まるで他人のもののように昏く見える。
その横顔に、幾何学模様の黒い影が浮かび上がった。
鳥の影でも映り込んだのだろうか。
目を手の甲で軽く擦ってみたものの、ガラスに映る顔には依然として奇妙な紋様が貼り付いている。
もっと近くで見ようと顔を近づけかけたとき、スライドドアが開き二人が部屋に入ってきた。
「気分はどうでやんすか」
振り向いた少女――中田まゆみの顔からは、既にその痕は消え去っていた。