パワプロクンポケットΦ 4話『Innocent Trip』(パワポケ7異聞)
古河(4話)
球速??? コントロールG スタミナ???
変化球???
文中に登場する『七瀬』は原作主人公(7主)です。
前の話はコチラ。
その日の目覚めは、バターのような甘い香りと共に訪れた。
心が解きほぐされるような甘露な誘惑が鼻腔をくすぐる。この世に、こんなに良い匂いがあったのか。汗と煙草の臭いが染みついたこの家には不似合いな、いつまでも嗅いでいたくなる魅惑の芳香がレオの嗅覚を芯から癒していく。そして、間近に聴こえるすうすうという安らかな寝息。これもまた、実に心地良い。起きたばかりだというのに、また穏やかな夢の世界に引っ張られそうになる。さらに、薄目を開けた先には、あどけない少女の無防備な寝顔。その眠たげな瞳が、薄らと開いて――。
そして少年は、人生で一番の絶叫を上げた。
Φ
「ふーん。レオも周君も、怪我して野球部辞めてたんだ」
もぐもぐとコンビニのミルクフランスを頬張る梨子を卓袱台の向こうに挟み、レオは膨れっ面で焼きそばパンを口に運ぶ。その頬には鮮やかな朱色の紅葉がひとつ。ひりひりとした痛みを感じながら、レオは恨みがましげに少女を睨んだ。
「……なによ。アンタが悪いでしょ、アンタが」
「オレは全く悪くない」
「いきなり大きな声上げるからびっくりして起きたら、目の前にセクハラ待ったなしの男子高校生。はい、悪いのはどっちですか」
「お前だ」
「アンタよ!」
このやりとりもかれこれ8回目である。どちらも全く譲る気がないので、事態は永遠に収束しそうにない。やっぱり、無理矢理にでも帰らせればよかった。忸怩たる思いと共に、遅めの朝食の最後のひとかけらを口に押し込んだ。
「大体、なんで同じ部屋で寝るのよ。えっち」
「仕方ねえだろ。昨日は親父が居間で寝てたし、親父の部屋は汚くて寝るとこなんかねえし」
「廊下があるじゃん。風呂もトイレも」
「ここはオレの家だっ」
飛沫になった焼きそばを空中に巻き散らすレオに、氷点下の視線が注がれる。寝床を掛けたマウントポジションの奪い合いは、初日にして泥仕合の様相を呈していた。
高校生活一年目の最後にして同伴で帰宅した息子を、父は賞賛と驚きの入り混じった瞳で迎えた。お前にゃ勿体ないなぁ、などと盛大に勘違いをした父に、梨子が考えたストーリーはこうだ。
曰く、家に空き巣が入った。
曰く、両親は海外出張中でしばらく帰ってこない。
曰く、不安で途方に暮れていたところを、友達のよしみでレオ君が声をかけてくれた。
熟練の詐欺師さながらに弁舌を振るう梨子を、少年は半ば感嘆しながら眺めていた。もっともその方便も、下世話な父にはどこまで受け入れられたのかは分からない。レオが見たこともないほど緩んだ相好で、ごゆっくり、などとのたまわった際には、一発蹴りをお見舞いしてやろうかと本気で頭を抱えたものだ。
兎にも角にも古河家の居候として迎えられた石川梨子は、部屋に入るや否や少年の布団でこてりと眠りこけてしまい、声をかけても一切起きる気配を見せなかった。途方に暮れたレオだったが、自分の部屋で何を戸惑うことがある、と開き直り座布団一枚を枕代わりに少女に背を向け眠ったのである。そして早朝の事件に続く。
「で、さ。話戻すけど。周君、なんで逃げちゃったんだろうね」
食事を終えた梨子が、紙パックの緑茶をストローで吸いながら呟く。ミルクフランスと緑茶という組み合わせに物申したくなる衝動を呑み込み、レオは走り去って行く周の背中を思い返した。
見えなかったということは、自分が外灯の近くにいたことから考えにくい。仮にそうだとしても、大きく手を振りながら名前を呼んだ梨子には絶対に気付いたはずだ。
つまり、周は意図的に二人を無視したことになる。
微かに動いた唇。オルフェノクの強化された聴覚は、その譫言のような呟きを確かに捉えていた。
どうして。
それだけを呟き、周は逃げ去ってしまった。
「たぶん、オレの所為だ」
原因はたぶん、あの大暴投なのだろう。レオも周も、高校生でいる間に復活が見込めるような怪我ではなかった。周からはそう聞いていたし、レオもそう言っていた。そんな矢先にあの姿を見たら、それは周の目には裏切り以外の何物にも映らなかったのも無理はない。
「レオの怪我は、オルフェノクの力で治ったんだよね」
「ああ、たぶんな」
考えてみれば、グレーと戦った時も、スラッグオルフェノクと戦った時にも右腕は存分に振るっていた。戦いの高揚で気が付かなかったが、数日前からこの腕は復活していたのだろう。むしろ昨日の感覚からすると、全くの別物に生まれ変わってしまった、と言った方が正しいのかもしれないが。
「うーん……あたしには、よく分かんないんだけどさ。友達の怪我が治ったら、普通は喜ぶもんじゃないの? そりゃ周君は治ってないから、悔しいのかもしれないけど」
「友達、か」
レオは頭の後ろで手を組み、そのまま仰向けに倒れる。
そう呼んでいいんだろうか。考えてみれば、自分は周のことを何も知らない。好きな邦楽や食べ物は知っている。だが二人の間には、お互いに立ち入ってはいけない領域が存在していた。
もし、怪我が治ったら。
言葉にせずとも、周の考えは伝わってくる。同じ傷を負う者同士だから分かる、暗黙の了解。
そんな爆弾を抱えたままの自分たちが、友達と言えるのだろうか。
黙したまま天井と睨めっこを続けていると、その視界に梨子が割り込んできた。
「周とオレは友達なんだろうか……って顔だね」
「人の気持ちを勝手に推測すんな」
「まあ、あたしがどうこう言う話じゃないと思うけどさ。言いたいことはハッキリ言った方がいいんじゃない? レオって普段は口が悪いクセに、ホントに言いたいことは黙っちゃうタイプじゃん」
手厳しい指摘には答えず、ごろりと横を向き視界から梨子を追い出した。そういうとこだよ、という呟きが背中に当たる。実質的には昨日が初対面だというのに、どうしてこうも自分の弱いところばかり突いてくるのか。つくづく厄介な女に会ってしまったものだと、臍を噛んだ。どうせなら、もっと子犬のように懐いてくれる女が良かった。もっともそんなことを口にすれば狭い部屋に空き缶の雨が降ることは目に見えていたので、レオは背中で不満の意を伝えるに留めた。
そんな不遜なことを考えているとは露知らず、転がっていたダンベルの中で一番軽いものを手すさびに持ち上げていた梨子が、思い出したように問いかける。
「ねえ。レオはこれから、どうすんのさ」
「どうするって、何が」
「野球部。怪我も治ったんだし、復帰するの?」
「……無理だろ。オルフェノクなんだぞ」
「うーん。そうかなぁ……」
それもまた、少年の頭を悩ませる問題のひとつだ。
念願の野球部復帰。オルフェノクそのものとしての危険性もさることながら、圧倒的な身体能力を引っ提げての復帰は、果たして許されることなのか。もちろん、感覚と身体能力の大きすぎるギャップという課題は控えているが、それを乗り越えたところで、何か卑しいことをしているような後ろめたさを常に付きまとうのだろう。それを無視できるほど図太い人間では無いことは、レオ自身がよく分かっている。
「でも、野球好きなんでしょ? ドーピングっていうんだっけ、そういうのじゃないんだし、いいと思うけどなぁ」
「同じようなもんだろ。どうしても野球がしたくなったら、そのうち草野球チームでも見つけるさ」
諦めたように呟き立ち上がる。納得できないとでも言いたげに唇を曲げていた梨子は、きょとんとした丸い瞳でレオを仰ぎ見た。
「レオ、どっか行くの?」
「バイトだ」
時刻はまだ昼前だ。バイトの時間には少し早かったが、このまま梨子と一緒に居続けると考えなければいけないことが雪だるまのように増えていきそうな気がしていた。
ポケットに財布と家の鍵を放り込むレオを眺めていた梨子は、そういえば、と手をポンと打った。
「あたしも、今日バイトだった。ね、レオって何のバイトしてんの?」
「……喫茶店だ」
「へー。似合わないね」
「こればっかりはオレも同感だ。お前は」
「あたし? あたしはねー、時給3,000円のバイト!」
「……はぁ?」
自慢げに胸を逸らす梨子に、訝しみの視線を容赦なく浴びせる。この年齢でそんな好待遇のバイトなんて、なかなか聞いたことがない。ふふんと自慢げに鼻を鳴らす梨子へと、羨望の眼差しを向けた。
「羨ましいでしょー。その分、かなりこき使われるけどね」
「まあ、そんだけ貰ってりゃあな。引っ越しかなんかか?」
「ううん。ワルクロ団」
さらりとした笑顔の梨子とは対照的に、レオの眉間には皺が寄る。
「……ワルクロ団って、あのワルクロ団か」
「うん。最近有名になってきたよねー。時給アップしろって言ってるんだけど、全然聞いてくれないんだよ。あたしの頑張りの賜物だってのに、酷くない?」
いや、問題はそこじゃない。あの悪の組織は、バイトなんて募集してたのか。時給アップの交渉ができるくらいフランクなのか。何をさせられてるか知らないが、3,000円も用意できるくらい潤沢な財政状況なのか。疑問が滂沱のようにレオの脳裏に降り注いでくる。何よりも、時給750円しか貰っていない自分が酷く情けなく思えて、レオは頭を抱えた。
そんな少年の苦悩などどこ吹く風とばかりに、梨子が微笑む。
「で? 何時まであんの?」
「今日は、5時までだ」
「じゃ、あたしと一緒だね。真っ直ぐ帰ってきてよね、いつ襲われるか分かんないし」
「……ああ」
ショックを引きずったまま呻く。昨日妄想した、カニ男やフグ男の横に並ぶオルフェノクの自分が再度脳裏を過ぎる。3,000円なら我慢できるかもしれないと、少年は半ば本気で考えた。
Φ
喫茶店の狭いロッカールームには先客がいた。休憩用のパイプ椅子に深く腰かけた駆は、机の上の古びた人形をぼんやりと見つめている。レオが入ってきたことにも気が付いていない。少し大きめに音を立ててロッカーを締めると、突然夢から醒めたようにびくりと体を震わせた。
「あっ、古河君か。今日は随分、早く来たんだね」
「ちょっと、色々あって。なんスか、それ」
「ああ……これはね」
人形を手に取り、駆は寂しそうに笑う。確か、ソフビとかいうヤツだ。似たようなものをチームメイトが野球部の部室に持ってきていたことを思い出した。
「昨日の夜、店によく来てくれる高校生が話をしててさ。ドリルトーイっていう会社が昔作ってた、ガンダーロボVのオモチャなんだけどね。家に同じものがあったから、なんとなく気になって持ってきちゃったんだ。これは事業が悪化したときのもので、すごく出来が悪いんだってさ。造形も着色も大雑把で、素人のボクが見ても分かるくらい詰めが甘いんだ」
「はぁ……そうなんスか」
スウェットを脱ぎロッカーに投げ込みながら、レオはおざなりな相槌を返す。ガンダーロボといえば、子供の頃にテレビでやっていたロボットアニメのことだ。レオはどちらかと言えば同時期に放送していた超人ライダーの方が好みであったが、確かに審美眼などという言葉とは縁遠いレオから見ても、明らかに他の部分にはみ出している着色や長さの違う腕など、出来が良いとは言い難い代物だ。
「ドリルトーイは酷いワンマン経営でね。今から考えたら、遅かれ早かれ破綻するのは明らかだったんだ。でも実質的に寿命を縮めたのは……ボクなんだ」
また始まったか。ソフビに視線を落とす駆に、レオは冷めた目を向けながら部屋の一角に備え付けられた着替え用のカーテンを閉めた。しかも今回は、明確な会社名まで出してきた。よくもここまで設定を作り込めるもんだと、感心の念すら覚える入りっぷりだ。
「ドリルランドって覚えてるかな。ドリルトーイが出資した遊園地。父が多角経営に憧れただけで何の計画性もなく設立したもんだから、苦戦は目に見えていた。ただそれにも関わらず、赤字のまま放置して漫然と経営者ごっこに興じていたのは、このボクだった。何にもできなくても、それはボクが悪いんじゃない、無能な部下たちの所為だってね……ボクはヒーローでもスーパー経営者でもないから、どのみちドリルランドは長く続かなかったと思う。でも、何かできたんじゃないか、もっとああすれば良かったんじゃないかっていう想像は止まらないんだ。今更過ぎる話だけどね」
駆はそこで言葉を切る。どうせ妄想するなら、どうしてもっと輝かしい功績にしなかったのか。着替えを終えると特にすることも無かったレオは、決して口にはできない不平を抱えながら駆の向かい側の椅子に座り、その述懐に耳を傾けていた。
「古河君は、まだ1年生だったよね」
唐突に話を振られ、レオは背もたれに預けていた身を起こした。
「えっ。ああ、はい。もうすぐ2年スけど」
「まだまだ若いね……羨ましいよ。若いうちは、出来ることは何でもやっておいた方がいい。歳を取るとね、多かれ少なかれ、後悔はどうしてもしてしまうもんなんだ。常に正解の選択ができる人はいないからね。ただ、やらないでする後悔よりは、やってする後悔の方がいい。古河君はしっかりしてるし、大丈夫だろうけどね」
自嘲するように微笑む駆を見て、レオは胸がずしりと重くなったように錯覚した。きっとこれは、駆の本心なのだろう。ドリルランドだのガンダーロボだのといった話はともかく、きっとここに来るまでは後悔の連続だったのだ。そして、それを抱えたままこの先も生きていくのかもしれない。今にも泣きだしそうな瞳を眺めていると、レオにはどうしてもそう思わずにはいられなかった。
「リーダーは、なんでそんな話を?」
「どうしてかな……誰かに聞いてほしかったのかもしれない。ゴメンな。説教臭かったよな」
「いや、そんなことは……」
言いかけたところで休憩室のドアが開き、喫茶店の店長が顔を覗かせる。おい、さっさとホールに出ろ。一方的に要件を告げられた駆は、人形を自分のロッカーに大切そうに仕舞うと、よし、と小さく気合の声を発した。
「先に行ってるよ。今日もよろしくな、古河君」
残されたレオは駆のロッカーを眺めながら、バリバリと首の後ろを掻いた。
Φ
17時きっかりに仕事を切り上げぶらぶらと商店街を歩いていると、入り口付近のコンビニの前でユニフォーム姿の見知った顔を見つけた。東と談笑していた少年もレオを視認すると、親しげな笑みと共に右手を挙げる。
「古河君! 久しぶり!」
往来を行く人が思わず振り返るような大音声に肩を竦める。
七瀬猛は野球部の同期の一人だ。バッティングセンスはお世辞にも良いとは言えないが、地肩の強さと打球判断に優れる内野手のため、レオも練習試合ではしばしば助けられていた。共にプレーした期間が短いにも関わらず悪い印象を抱いていないのは、曲者揃いの花丸高校野球部の中では比較的穏当な性格をしているということも起因しているのだろう。
「練習帰りか」
「うん。東さんに、メシ誘われてさ」
「4月からの練習について、少し七瀬君と話しておきたくてね」
東の顔つきは重い。その原因は容易に推察できる。野球部を急激な勢いで席巻するヒーローたちの数は、レオが把握しているだけでレッド・ブルー・イエロー・ブラウン・シルバーの5人。既に投打の軸を掌握されているうえ、レオの離脱後更に増加していることも十分考えられる。新年度が始まる前に主導権を奪還する策を講じようというのは、キャプテンとしては当然のことだろう。
「古河君……その、怪我の具合は……」
躊躇いがちに呟く七瀬の目がちらりと右腕に向けられる。どうせいずれバレることだ。レオは薄く唇を噛み、腕をぐるりと一度回して見せた。
「怪我は、治った」
「な、治った!? それじゃ、野球部に――」
「いや。感覚が鈍ってるから、復帰は無理だ」
七瀬の顔に咲いた花が、見る見るうちに萎んでいく。よほど人間側の部員に増えて欲しかったのだろう。しかし、すぐに思い直したように白い歯を見せた。
「そ、そっか……でも、治ったんだよな。おめでとう」
「ん……まあな」
レオは襟足を人差し指で掻きながら、真っ直ぐな視線から目を逸らした。
東と七瀬は、ヒーローという異能の力ありきの野球部を変えようとしている。オルフェノクの自分が戻るということは、本末転倒そのものだ。
本当の事など、言えるはずも無い。
「古河君。君は、野球を続けるつもりは……あるのかな」
二人の様子を見守っていた東が口を開く。レオは黙ったまま足元を見つめた。
「何か、迷いがあるみたいだね。怪我も治って間もないだろうから、無理もないか」
違う。
レオは俯いたまま、拳を強く握り締めた。
「もし、足手まといになるかもしれないと考えているなら、そんなことはない。君の復帰はチームメイト皆に勇気を与えるし、古河君ならきっと元の力を取り戻してくれるだろうからね。半年とはいえ、一先輩として君の姿は見てきたつもりだ。そこは、俺を信じて欲しい」
東の真摯な光を宿した眼差しが、正面から自分を捉えているのを感じる。
唇を強く噛み締める。口の中に鉄錆の味が拡がっても、それをやめることはできない。
もう、うんざりだった。
黒野。立花。梨子。東。七瀬。
誰かに期待をかけられても、それに応えることができない。
それがオルフェノクとしての復活という、一縷の可能性によって得た結果なのだとしたら。
この生命は、一体なんのためにあるというのか。
「オレは――」
堪え切れなくなったレオが、顔を上げたとき。
「――周」
戸惑う二人の奥。視線が瞬間的に交錯する。アスファルトに足を叩きつけるように、レオは駆け出した。
「古河君!」
呼び止めたのはどちらの声だったか。
いや、今はそんなことはどうでもいい。
あの少年と話をしないと、前にも後ろにも進めない。
何故だかレオには、そう思えてならなかった。
商店街を抜け、人並みの疎らな住宅街へ。二人の差は見る見るうちに縮まる。少年が追ってきていることを察知した周は、徐々にその足を緩め、そして観念したようにゆっくりと振り返った。
「レオ……」
「久しぶりだな。いや、そうでもねえか」
肩を上下させる周と対照的に、息一つ上げずにレオが呟く。実際には昨日一日だけだというのに、話をするのはひどく久し振りのように感じた。
住宅街にはどこかから夕餉の香りが漂っている。オレンジ色に半身を染めながら、周は乾いた笑いを零した。
「はは、レオも水臭いよな。怪我、治ってたなら、言ってくれよ。さっきのは七瀬と東センパイだろ? 野球部、戻るんだよな」
「違うんだ。周、オレは」
「違わないだろ。昨日の遠投。見させてもらったよ。あれだけ投げられるようになって、戻らない理由なんてどこにも無いじゃないか」
「頼む。オレの話を――」
「やめてくれ! お前の話なんて聞きたくねえよ!」
一歩前へ進み出た少年の胸を、周が強く突き飛ばす。よろめいたレオは、剥き出しの憎悪に塗れた周の顔に息を呑んだ。
「親父さんに聞いたよ。退院してすぐトレーニングを始めたって。凄いヤツだよ、レオは。俺は、復帰できるなんて夢にも思わなかった。最初から諦めて、お前を勝手に仲間だと信じきっていたんだ。まったく、とんでもない負け犬だよなあ。どうだい、レオ。さぞかし良い気分なんだろう? 怪我が治って大好きな野球ができるってのはさ」
「違う。オレは……オレは!」
感情のうねりが二の句を奪う。何を伝えればいいのか。何から伝えればいいのか。様々な言葉が浮かんでは消えていく。奥歯がギリギリと、鈍い音を立てて鳴った。
「……まあ、なんでもいいけどね。俺には関係無いことだし」
冷めた表情で周が息を吐き、踵を返す。伸びていく影を止める言葉を、レオは何も思いつかなかった。
「シルバーによろしくな、レオ。あと、もう怪我すんなよ。今更こっちに戻って来られても、もう笑えないからな」
首だけでこちらを見遣り、周はひらひらと右腕を振った。
遠ざかる足音を聞きながら、レオはコンクリート塀に拳を叩きつける。
耳朶に残る最後の声は、僅かながら震えているように聞こえた。
Φ
とぼとぼと背中を丸めて歩くその姿を見つけたとき、梨子の心は安堵よりも憤怒の方が勝った。
秘密の場所に隠してある空き缶を握り込むと、力一杯腕を振った。どうせこれも避けられるのだろう。危ねえだろ、いい加減それやめろ――そんな不愛想な反応だろうと高を括っていた梨子は、レオの後頭部にクリーンヒットしくるくると中空を舞う空き缶を、引き裂かんばかりに目を開き見た。
気だるげに後頭部を摩るレオが、じろりとこちらに目を向ける。その瞳に獣の猛々しさはどこにも見当たらず、ただ16歳という年相応の迷いに満ちた光が灯っていた。
「なんだ。お前か」
「なんだ。お前か。じゃないよ! 何時だと思ってんのよ! 玄関の前でずっと待ってて、ご近所さんにジロジロ見られちゃったじゃん!」
自分が既に死んでいると聞かされた時にも見せなかった反応に幾分戸惑いながら、不平を畳みかける。知らねえよ、うるせえな。ここまで言われたら、レオもファイティングポーズを見せるに違いない。梨子は腕組みをしながら、怒りに震えているであろう少年を横目で見た。
「……そうか。悪かったな」
そう呟き足元の空き缶を拾い手渡してきたとき、少女の口はいよいよ閉まらなくなった。
なにこれ。絶対、おかしい。
まるで話している相手が誰かも分かっていないかのような虚ろな瞳で、レオは家路とは反対の方向へと歩き始める。梨子は慌てて横に並ぶと、その顔を覗き込んだ。
「どしたの、レオ。何か悪いもんでも食べた?」
「……いや。別に」
「バイトで失敗したとか、そんな感じじゃないね」
この少年は失敗でもしようものなら、逆ギレして不機嫌なオーラを発しまくりながら帰ってくるだろう。勝手だが正鵠を射た想像を巡らしながら、梨子は溜息を吐く。
だとすれば、あの不遜なレオがここまで落ち込む理由は何か。考えてみれば、オルフェノクであることと野球部であったこと以外、少年のことはほとんど知らない。
「もしかして、周君と何かあったとか?」
ダメもとで唯一知っていた野球部の名前を出した途端に、ぴくりと露骨なまでにレオの頬が痙攣する。へぇ、思ったよりカワイイとこあるじゃん。少年のあからさまなリアクションに、梨子は頬を緩ませた。
草食系という言葉が良く似合う周のことは、レオのことよりはマシ、という程度にしか覚えていない。人当たりの良い優等生という印象がその全てで、交友関係も広く、学業も平均以上は当たり前。そんな清廉さすら感じる少年と、粗野で不器用なレオ。少なくとも梨子が高校に在籍していた間は、あまり仲が良いようにも見えなかった。
もしかして、周君なら――。
少女の悲鳴が聞こえたのは、その時だった。
「今のって……あっ、待ってよレオっ!」
隣には既にその姿は無く、梨子は一瞬の間に地を蹴って駆けだしていたレオの後を追う。
河川敷を川とは反対方向に下る。老人を思わせる先程までの姿とは打って変わって、レオの健脚は迷いなく一つの方向を目指している。梨子はその後ろ姿を見失わないよう、バイトで疲弊した両脚に鞭打ち全力で駆けた。
鉄橋を潜り抜けた先は工場区画だ。海に面しているわけではなく、交通の便に優れているとも言えないこの街では経営が厳しいのか、その多くは操業を停止しているか一年の僅かな期間だけ稼働している。蝶の特性を備えたバタフライオルフェノクが、中学生ほどの少女に襲い掛かろうとするのを見たのは、そんな廃工場のひとつの門前だった。
助走の勢いそのままにレオが飛び蹴りを放つ。尻餅をついたままの少女に今にも口吻を伸ばさんとしていた蝶の複眼に、右足が突き刺さった。レオは獣さながらに四つ足で着地するとスウェットの上着を脱ぎ捨てながら、両目をたっぷり充血させた少女へと叫んだ。
「大丈夫か」
「あっ、は、はいっ」
「リコ。こいつは任せる」
「オーケー。こっち、早くっ!」
足音で存在を察知したのだろう。追いついた梨子を見ることなく、レオは痛みに悶えるバタフライオルフェノクへと両拳を構えた。
梨子は少女を起き上がらせると、工場の外壁を曲がりオルフェノクから身を隠す。その時、トタン屋根の上から影が舞い降りてきた。もう一体、いる。背筋を寒いものが走り抜けるのを感じながら、必死の思いで少女の前で両手を広げた。
「やれやれ。結局アイツ、戦ってるでバッタね」
間延びした口調で、屋根から姿を現したバッタ男が呟く。大きく目を見開いた梨子は、その姿を認めるや否や全身で息を吐いた。
「立花さーん。驚かさないでよ」
「アンタもいたんでバッタね。えーと……」
「リコちゃんだよ。アイツ、なーんかほっとけないじゃん?」
細い腰に腕を置き、梨子は悩ましげに首を振る。
白塗りのコンクリート壁から顔を覗かせ戦闘の様子を伺うバッタ男を怪訝な目で見つめていた少女は、遠慮がちに梨子へ声を掛けた。
「えと、リコ……さん。この方は」
「ああ、ゴメン。立花ボボさん。見た目は変わってるけど、悪い人じゃないよ」
「は、はぁ」
全く納得はしていないのだろう。眉根に皺を寄せたまま少女は曖昧に頷く。そして、思い出したかのように携帯電話を取り出した。
「どしたの?」
「けっ、警察に連絡を! 早く、助けを呼ばないと」
「あっ! あー、それは! それは大丈夫……かな」
後は通話ボタンを押されるのを待つばかりの携帯電話を閉じ、小柄な少女の信じられないと顔全体での訴えを苦笑で受け流す。
「アイツ、ああ見えて結構強いから」
「え……でも、相手はバケモノですよ! いくらなんでも、一人じゃ――」
びりびりと空気を震わせる獣の吼え声が、塀の向こう側から少女の言葉を上書きする。静かに戦いなさいよ、バカ。レオパルトオルフェノクに変化したであろうレオの顔を思い浮かべ、梨子は心の中で舌打ちをした。場違いな咆哮に思わず息を呑んだ少女は、携帯電話を再度開こうと指に力を籠めるが、梨子は梨子でがっちりとホールドしたままそれを許そうとはしない。しばしの睨み合い。立花には、二人が両手を取り合い見つめ合っているようにも見えた。
とにかくここは、何かこの子を納得させる理由を見つけなければいけない。しかし、レオがオルフェノクであることが露見してしまっては元も子もない。少女の顔は刻一刻と不信感に彩られていく。顎に指を当てた梨子は、咄嗟に思いついた言い訳を口にした。
「実はさ。アイツ、札つきのワルなんだよねー。あっ、って言っても、悪いヤツじゃないんだよ? なんていうか……そう! この辺の高校の不良たちをシメてるヤツでさ。弱い者いじめとか、見逃せないタイプ? みたいな? でもやっぱり、暴力は暴力だからさー、警察とはあんまり関わり合いたくないみたいなんだよねー。だから、このままアイツに任せてくれないかな?」
横で聞いていた立花が白々しい目を向けてくるのを、梨子は吹けない口笛を吹く真似をしてやり過ごす。信じる信じないに関わらず、レオが聞けば口論は必至だろう。
苦し紛れの思い付きではあったが、どうやら少女はそれを信じることにしたらしい。わかりました、という呟きに胸を撫でおろしたとき、梨子は立花が銀のアタッシュケースをぶら下げていることに気が付いた。
「あ。それ、持ってきてるんだ」
「……博士はああ言ったでバッタけど、俺にはわかるでバッタ。適合者なんて、そんな簡単に見つかるもんじゃないでバッタ。アンタからも、アイツを説得してほしいでバッタ」
「説得かぁ。あたしも試してはいるんだけどね……」
壁に背を預け、梨子は薄暮の空を仰いだ。
礼儀も愛想も知らない利己的な人間かと思えば、意外にも空気は読めるし落ち込みもする。ただ、その懊悩を吐き出そうとせず、悩み出したらとにかく口を開こうとしない。黒野の話を聞いてからの態度といい、先程の悲鳴を聞くや否や弾かれるように飛び出したことといい、レオが『面倒くさい』と嘯くのには、何か彼なりの理由があるのは明白だ。レオ個人としての本能を覆い隠さんとする何か。ただ、そのヴェールを剥がすことができるのは恐らく自分ではない。そんな気がしてならなかった。つくづく面倒くさいヤツだと、梨子は唇をむっと突き出す。
とはいえ、仮初の同居人の調子がずっとこれでは自分も気が滅入る。乗り掛かった舟、袖触れ合うも他生の縁といった言葉が脳裏を過ぎる。
戸惑う背中を押してやることくらいは、できるかもしれない。
梨子はすっと肩の力を抜き、立花へと微笑みかけた。
「ね。それさ、あたしに預けてくれないかな? あと、使い方教えて」
Φ
二人の足音が遠ざかるのを確認しながら、レオはじりじりと蝶の化生との間合いを図る。
「なあ。アンタもホントは、人間なのか」
感情を映さない複眼に問いかける。黒野の話がオルフェノクの全てとは限らないが、人間の進化形態というのであれば、目の前のオルフェノクも正体は自分と同じはずだ。
ゆらゆらと揺れるように佇んでいた蝶の動きが、ぴたりと止まる。渦巻き状の口吻が鋭利な針の如く一直線に飛んだ。レオは倒れ込むように左前方に転がる。直後、獲物を刺し損ねたバタフライオルフェノクの口吻が吹き戻しのように瞬時に巻き戻される。再装填。
――速い!
昨日のナメクジとは比べ物にならない。追撃を避けるべく、咄嗟に背後へ飛び退く。
が、すぐにその浅慮な判断に臍を噛んだ。
蝶は愉快そうに身体を小刻みに揺らすと、空中で無防備な肢体を晒す格好の獲物目掛け、鋭利な口吻が放たれる。躱すことも掃うこともできない。左の太ももがかっと熱を帯びた。灰色のスウェットパンツが紅く彩られる。着地した瞬間、足元がふらつく。体液を吸引されているのだと、脈打つ口吻を見て理解した。
テメェなんかに、一つたりともくれて堪るか!
裂帛の気合が吼え声に代わる。口吻を切り離さんと振るった右腕は、豹の化生のそれへと変化していた。手の甲から伸びる刃が触れる寸前、血液を滴らせながらホースが引き戻される。相手もまた異形であると認識したバタフライオルフェノクは、背中から生える二対の翅をはためかせ、中空へとその身を浮かせた。
レオパルトオルフェノクは、まだ射程距離範囲内で捉えられるうちに飛び上がろうとして、すぐにこれが蝶の誘いであると思い至りその場に踏み止まる。避けるだけならまだしも、捕まえることは不可能な程度に相手の突きは速い。単純な速度比べなら負ける気はしないが、羽の無い自分では空中戦での目は無い。
だったら、手段は一つだ。
豹が跳びかかって来ないと見るや、バタフライオルフェノクは口吻による高速の突きを連続で繰り出す。レオはそのひとつひとつを見切り細かいステップで躱しながら、じわじわとその距離を詰めていく。焦れた蝶の化生が、レオの脳天目掛けて突きを放つ。鈍色の豹が、大きく後ろへ跳ねた。
脇腹に衝撃。レオが顔を顰めるのと対照的に、蝶は笑ったように見えた。内臓までも吸い出されるような得体の知れない感触に攪拌される脳髄を、首を強く振り目覚めさせる。蝶風情が、人を標本みてえにしやがって。腹筋に力を籠め、突き刺さった管を両手で掴んだ。
口吻を引き戻そうとしたバタフライオルフェノクは、その一撃がカウンターのために敢えて受けたということを知った。
腹筋により固着させられた口吻は、蝶の意思ではびくともしない。翅を忙しなくばたつかせる異形の姿を見上げ豹は薄く笑うと、膂力をもって口吻を力の限り引いた。
逆転する立場。一本釣りの要領で急速に迫る蝶の顔が絶望に染まる。レオが左右に大きく腕を開くと、巌を砕いたような十本の爪が広く展開する。五指を揃えると、それは大きな二本の角のようにも見えた。
突き出した両腕が、バタフライオルフェノクの身体の中心に風穴を開ける。蝶は最期にびくりと大きく痙攣し、そのまま音も無く灰化した。
「やっぱ、何度見ても凄いね――って、レオ、それっ」
オルフェノクが完全に灰化するか否かのタイミングで飛び出してきた梨子が、レオを指差し悲鳴を上げる。視線の先にある自分の腹部を見ると、穴の開いたシャツが鮮血に染まっていた。
「掠り傷だ。大したことねえよ。それよりお前、あの女は」
「まあ、レオがそう言うならいいけど……あっ、そっちの方は安心して。オルフェノクの姿はあの子には見せてないから」
それを聞いて人心地ついたのか、レオはその場に座り込んだ。脇腹と腿がじくじくと痛んだが、そこまで深い傷ではない。オルフェノクの治癒能力がどれほどのものか見させてもらおうと思ったものの、さすがに人目に触れては騒ぎになりかねない。レオはシャツを脱ぎ血が付いていない部分を引き千切ると、患部を隠すように服の上から粗雑に巻いた。
「うわっ! いきなり脱がないでよ、ヘンタイ」
「仕方ねえだろ。このままじゃ目立っちまう」
路傍のスウェットを拾い上げ、素肌の上に纏う。既に腹部の出血は止まっており、傷は外側から瘡蓋へと変化していた。
「あ。そうだ。えーと、実はね」
珍しく歯切れの悪い調子で梨子が呟く。レオが視線を向けると、先程の少女がおずおずと近付いてきているのが見えた。双眸を細め、落ち着きなく視線を彷徨わせる梨子を凝視する。
「この子が、どうしてもお礼が言いたいからって……逃げなくてさ」
「あぁ?」
「あっ、あの。助けて頂いて、ありがとうございます!」
音の出る勢いで、少女は腰を90度に折る。じろりと梨子を睨むと、あたし関係ない、とでも言いたげに両手を振った。
たっぷり5秒間、頭を下げていた少女が顔を上げる。あどけなさの残る相貌に、花弁を模した髪飾りがよく似合っていると、レオは柄にもなく思った。
「私、倉見春香って言います。ええと……お名前を、聞いてもいいですか?」
「……別に」
名乗ったところで厄介事が増えるだけだ。そっぽを向いたレオだったが、見かねた梨子が少年の背中を叩いた。
「古河だよ。古河レオ!」
「お前なぁ……」
「古河さん。ありがとうございます! その……できれば、お礼を……」
再び頭を下げる春香の髪がばさりと揺れる。片や、助けたら家に転がり込まれ。片や、常識的すぎるほど丁寧に扱われ。どっちにしても面倒くせえなと、首の後ろを掻いた。
「いや。そういうの、別にいいから」
「えっ! いや、そんな、困ります! 古河さんは、命の恩人で――」
春香はなおも食い下がってくる。もう、勘弁してくれ。レオは無視を決め込み、家どっちだ、送ってやるから、と一方的に告げ一人歩き始めた。
「……ホントに大丈夫でバッタかねぇ」
もう一人の少女が後ろ手に持つアタッシュケースを屋根の上から眺めながら、バッタ男は困ったように触角を揺らした。
Φ
「よお、ブラック。早いお帰りだな。なんか面白いことでもあったのか」
アジトに帰還したブラックを青い仮面が迎える。室内に残っているのはブルーとグリーンのみで、他のヒーローたちはおろか、レッドの姿も見当たらない。レッドの命で哨戒に当たっていたブラックは、ブルーに話していいものかどうか僅かに逡巡したのち、ぽつりとその名を呟いた。
「……オルフェノク」
「へぇ。野良モンか。ただ、この辺じゃそこまで珍しくもなくなってきただろ」
「……見たことのある、顔……たしか、野球部」
その瞬間、ブルーは例の機械から黒い仮面へと、弾かれたように視線を映した。
「なるほどね。そいつは確かに――面白そうだ。詳しく聞かせてもらおうか」
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