パワプロクンポケットΦ 3話『CHAOTIC MIND』(パワポケ7異聞)
梨子が加わると一気に会話量が増えるから助かる。
パワポケ界における超便利屋も登場します。
前の話はこちらです。
春特有の甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる4月。
花丸高校の入学式を終えたレオは詰襟のボタンを片手で外しながら、初日から喚声に沸く教室を忌々しげに見つめる。とにかく、うるさい。初々しさ弾けるクラスの話題は定型的で、誰もが同じような質問を口にしている。中学校はどこだっただの、隣のクラスの本村とかいう担任がタイプだっただの、部活は何に入るだの。他人と打ち解けるのが苦手、もとい後に豹の化生になるにもかかわらず一匹狼を信条とするレオは、最後列の席から一人教室を俯瞰していた。
右前方、教卓側の出入り口から一番近い席の周りはひと際やかましい。見ると、何人かの坊主頭が大人しそうな少年を取り囲んでいる。早速イジメか。それともいきなり強請りか。野次馬根性丸出しで耳をそばだてると、どうやらそんな不穏なものではなく、むしろ正反対の状況だということが分かった。
「まさかあの、七中の周と同じクラスになれるなんてな! 俺、徳本。よろしくな!」
「僕は新井。徳本は周のファンなんだ。練習サボって試合観に行って、カントクに超怒られたこともあるくらいね」
「なーなー、やっぱり周は野球部に入るんだよな? えー、どうしよっかな~。テニス部とかにしようと思ってたけど、周がいるなら……もしかしたら甲子園とか行けちゃうんじゃねーの!?」
「オメーじゃスタメンどころかベンチにも入れねえよ。周の足を引っ張ろうとするんじゃねえ! あ、こいつは河内な。覚えなくていいけど」
七中の周。その名前はレオにも聞き覚えがある。というより、投げ合ったことすらある。
多彩な変化球と、コースにきっちり投げ分けるコントロールを持ち合わせる技巧派左腕。横手から繰り出されるフォームは球の出所が見づらく、初見ではなかなか対応できない。変則的な投球に翻弄された打線は周が降板した後もちぐはぐで繋がらず、レオも粘り強く投げ続けたものの熱投虚しく敗北を期した。対戦はその一度きりだ。
草食動物を連想させる温和そうな横顔を眺めながら、こんなに大人しそうな顔をしていたのかと、レオはぼんやりと思った。
「でもなんで花丸なんて来たんだ? ここ公立だし……周だったら私立からも声かかりそうだけどなあ」
「俺程度じゃ全然だよ。全国には行けたけど初戦敗退だしね」
草食動物が襟足に隠れたうなじを摩りながらはにかむと、取り巻きがわっと沸いた。男たるもの謙遜なぞ不要をモットーとするレオは、対照的に眉根を寄せる。そもそもお前が全然なら、それに投げ負けた自分はどうなる。超高校級などと自分で言うつもりは毛頭ないが、それなりのピッチャーであることには自負があっただけに、周の言葉は余計に鼻についた。
アイツにだけは、絶対にマウンドは譲らねえ。
早く放課後になってくれ。不機嫌そうに椅子に深く身を預け、レオは固く目を瞑る。そのため、周がチラチラと横目にレオを伺っていたことには一切気が付かなかった。
「周が入るなら、俺も野球部にするぜ!」
「そうか、よろしく。ええと……」
「徳本ね。じゃあまた、僕ら『三中トライアングル』でガッチリ援護しますか!」
「あ、トクがサードで、新井がセカン、オレがショートね。周、後ろは任せろ~!」
捕球からの流れるような送球モーションを披露する河内。狭い通路で目いっぱいに体を使ったため、当然のようにその足は周の後ろの机に当たった。
「イテッ」
「あ、バカ! 河内は相変わらずだな……」
「もう中学生じゃねえんだから、気を付けろよな」
三人にとってはよくあることなのか、特に悪びれた様子も無い。周はくるりと上体だけ向き直ると、ずれた机を直す少女に頭を下げた。
「ごめん。ちょっとテンション上がってるみたいで……うるさいよね。それも、ごめん」
「えっ? あ、うん」
少女は話しかけられたことに驚いたかのように目を見開き、すぐに教室の喧騒へと視線を逸らす。薄いリアクションに周は若干面食らったが、大人しい子なんだろうなとすぐに自分を納得させた。
この少女こそ、後にスラッグオルフェノクに襲われレオと偶然の再会を果たす石川梨子その人なのだが、もちろんこのとき当人たちは、そんなことになるとは露知らず。もし梨子が周の後ろの席でなかったら、レオは顔すら覚えていなかっただろう。
なお、『三中トライアングル』は硬式野球にコミットできず5月の連休を前に早々に退部し、別々の道で高校生活を謳歌した。仮に続けていたとしても続々と参入するヒーローたちによって出番を剥奪されていたことを考えると、ある意味彼らは非常に賢い判断をしていたとも言える。
人生の選択とは斯くも難しいものだが、これはレオを取り巻く物語とは一切交差しない話である。
Φ
石川。周の後ろに座っていた女。
レオの顔に驚きの色が浮かんだのは閃く雷光ほどの間であり、その瞳はすぐに細く引き絞られる。
「石川……いや、石井……石倉だったっけか」
「“石”しか覚えてないじゃん!」
「仕方ねえだろ。喋ったことねえんだし」
いちクラスメイトでしかなかった梨子の顔を覚えているだけでも奇跡的だと言わんばかりに、レオは唇を尖らせた。そもそも記憶が正しければ、梨子が花丸高校に在籍していたのは夏休みまでの短い期間のはずだ。
そんなもん、覚えてる方が気持ち悪いだろ。
さざめくように揺れる水面へとかったるそうに視線を逸らすレオに、梨子は人差し指を突きつけた。
「美少女の名前くらい覚えときなさいよねー」
「言われなくても覚えるさ。美少女だったらな」
言うや否や。
レオの眼前に、見覚えのあるコーヒー缶のパッケージが迫る。カンという小気味のいい音と共に、目の奥に小さな火花が散った。
「ってーな! なんだよ今の! つーかそれが命の恩人にする態度か」
「それはそれ! これはこれ! あたしだってガッカリだよ。こんな失礼なヤツが命の恩人なんて」
音も無くグラウンドを転がる空き缶を拾いつつ梨子は呻く。そして、寸劇により忘れ去りそうになっていた先刻の一幕を思い出した。
「っていうか、さっきの何なの? 歩いてたらいきなり襲われたんだけど」
「知るか、バーカ」
薄く朱に染まる額を摩りながら吐き捨てる。キラリと少女の瞳が光った、ように見えた。
急速に迫る風音。レオは野性的な反射神経で首を捩り、迫り来る空き缶を皮一枚のところで躱す。空き缶が地面を転がる虚しい音色が遠巻きに響く。オルなんとかで良かった。ファンファーレに包まれるように、レオはその残響を莞爾として聞いた。
渾身の一投を見切られたことに目を丸くしつつ、梨子は犬歯を剥き出しにして地団太を踏んだ。
「避けるなっ!」
「避けるに決まってんだろ! 大体どっから出したんだよそれ」
「細かいこと気にしてるとモテないよ」
「あぁ? 関係ねえだろ」
野球の練習でもバイトでも戦闘でも感じたことの無い疲労感が、レオの両肩にどっと押し寄せる。もう帰ろうかと斜面を登りかけたレオの目前に、そうは問屋が卸さないとばかりに少女が立ち塞がった。
「で? 知らないってことはないでしょ。アンタもその……同じような感じになってたんだし」
「一緒にすんな。あんな気持ち悪くねえ」
「ああもう、そこはいいから!」
全然良くない。思春期の少年にとって、自分が豹なのかナメクジなのかは、思春期女性にとっての前髪級の問題だ。とはいえ、いつまでもこんなところで押し問答を続けるのも望むところではない。レオは短く息を吐いた。
「……知らねえよ。いつの間にか、こうなってた」
「正体。知りたいでバッタ?」
その珍妙な語尾の主は、もちろん空き缶女ではなかった。
斜面を登り切った一本道に立つ影。その相貌は、人間とはかけ離れた異形そのもの。というより、バッタそのもの。
無意識のうちにレオは梨子の前へと立ちはだかり、バッタ男と対峙した。
「逃げろ石田。オルなんとかだ」
「石川! どんだけ物覚え悪いのよ!」
「違うでバッタ! 俺は改造人間の立花ボボ!」
前後から訂正を入れられ、レオは憤懣やるかたなく地面を蹴った。バッタ男はバッタ男で気に障ったらしく、不機嫌そうに前足、もとい両手を擦り合わせている。
「まったく。どっからどう見ても、オルフェノクより俺の方がカッコいいでバッタ」
それはどうだろうと梨子は思ったが、話がこじれそうなので口を閉ざした。
「ちょっと待て。今、オルなんとかって言ったな」
「オルフェノク、でバッタ。アンタさっき、戦ってたでバッタ?」
「……見てたのか」
「もちろん。そこのお嬢さんと一緒にでバッタ」
ややこしいもん連れてくんな、バカ。怨嗟の念を十二分に込め振り返る。梨子はぺろりと桃色の舌を出した。
「隠れて古河を見てたらさー、『あれ、知り合いでバッタ?』って訊いてくるから。びっくりしたけど、とりあえず、そうですって」
「その時はオレだって気付いてなかっただろ」
「まあ、いいじゃん。実際そうだったんだし?」
「お前なぁ……」
「ちょ、ちょっと! 俺をムシするなでバッタ!」
溜まった不満をぶつけようと口を開きかけたとき、バッタ男が慌てて二人の間に入ってきた。ムシはテメエだ、バーカ。少女が聞いたら間違いなく空き缶を投げられるような古典的な悪態をつくよりも早く、焦れた立花がぐいと一歩前に歩み出る。
「古河っていったバッタね。会わせたい人がいるでバッタ」
「あぁ? 誰だよ」
「ついてくれば分かるでバッタ。さあ、日も暮れたしさっさと行くでバッタ!」
意気揚々と右腕を上げ立花はずいずいと歩き出す。茶色の素体に青のボディスーツ。そもそも、見た目がバッタ。レオは立ち止まったまま、その怪しすぎる風体を眺めた。成り行き上自分だけついていっても話にならないので、梨子もそれに倣う。
立花はしばらく二人が付いてきているものだと信じ込み得意げに何かを喋っていたが、100メートルほど離れてからやっと違和感に気が付き、バッタの脚力を活かした猛烈な勢いで戻ってきた。怒りに震えるバッタの顔に、少女は鬼を見た。
「何をしてるでバッタ! さっさとついてくるでバッタ!」
「嫌だね。めんどくせえ」
「こっ、コイツ……」
「暗いし、腹減ったし、帰る」
「そんな理由が通るかでバッタ! いいから黙って来るでバッタ!」
「嫌だっつってんだろ。そもそも、人を呼びつけるなんて失礼じゃねえか。用があるならテメエから来いってんだ」
「ぐ、ぐぐぐ……」
まさに一触即発。もはや立花は言葉での説得は諦めたらしく、レオが右に一歩踏み出すとその前に立ちはだかり、それではと少年が左に進路を取るとバッタもまた体を横に動かす。ボールがあればバスケみたいだ、と梨子は溜息を吐いた。
「行けばいいじゃん、古河! なんか、面白そうだし」
「全っ然、面白そうじゃねえ。こっちはあの、気持ち悪いオルなんとかをぶっ倒して疲れてんだよ」
「オルフェノク! アンタだって、そのオルフェノクってのがなんなのか知りたいでしょ?」
その指摘は、少年の臍を的確に突いていた。駆との会話により多少の落ち着きは取り戻したものの、依然として正体が分からないという状況に変わりはなく、酷く心地が悪い。
少年の急所を見抜いた梨子は、ここぞとばかりに右拳を振り上げた。
「そういうわけで、立花さん。案内よろしく! レッツゴー!」
「はぁ。なーんか不安でバッタけど、仕方ないバッタね……」
二三歩ごとに後ろを振り向く立花に向けて梨子は親指を上げ鼓舞すると、腕組みをしたまま棒立ちを続ける少年の背後に回り込んだ。
「ほら、あたしたちも行くよ!」
「分かった、分かったから押すな! 自分で歩ける!」
レオは吐き捨てるように叫び、ジーンズのポケットに手を突っ込みながらふらふらと歩き始める。
バッタ男と異形の豹。何が何だか分からないが、何か面白いことが起こりそうな匂いがする。寂しく揺れる外灯に照らされ薄く伸びる影を眺めながら、梨子も二人の後を追った。
Φ
半開きの自動ドアを潜りバッタ男の背中が暗闇に溶ける。少年は不気味に聳え立つ建物を見上げた。繁華街の片隅にひっそりと佇む五階建ての廃ビル。元はビジネスホテルだったらしいということが、すっかり塗装の禿げた看板からかろうじで読み取ることができる。廃業してからそれなりの年月が過ぎているのか、白い外壁は砂埃で黒ずんでいる。ところどころに見受けられるスプレーの落書きも色褪せており、寂寥感を引き立てるアクセントと化していた。
観察を続けるばかりでビルに入ろうとしない少年の顔を、梨子は下から覗き込んだ。
「何してんの古河。立花さん見失っちゃうよ」
「こんなところにいるヤツ、絶対ロクなヤツじゃねえぞ」
「そう? たぶん、なんかワケアリなんだよ。ほら、廃ビルといえば悪の秘密結社じゃん?」
やっぱりロクなヤツじゃねえじゃねえか。
レオは嘆息を吐き、小さくなりつつあるバッタ男の背中に目を凝らすと、溢れ出る好奇心を隠そうともせず小刻みに縦に揺れる少女に耳打ちした。
「今更だけど、あのバッタ野郎を信用して良かったのか」
「んー、大丈夫じゃない? 悪い人じゃないよ。あたしの勘だけど」
「さっき、悪の秘密結社とか言ってなかったか」
「……もしかして古河、怖がってる?」
「んなわけねえだろ。仕方ねえ、行くぞ。バッタ野郎を見失っちまう」
ニヤニヤと愉快そうに頬を緩める梨子を置き捨て、ビルの中へと踏み入れた。どうにも、この女といると調子が崩される。元は鮮やかな臙脂色だったと思われる浅黒いカーペットが発する埃の臭いに顔を顰めながら、レオは首を捻った。
さして広くもないロビーを抜け、バックヤードに通じる重い扉を開ける。館内の照明は当然打ち切られているはずだが、スタッフすぺーすにはところどころに裸電球が吊り下げられており、ただ歩く分には苦労しない。打ち捨てられたオフィスデスクの波を越え階段を下り、大小さまざまな太さのパイプが天井を走る廊下を過ぎたところで、バッタ男はひとつの扉の前で立ち止まった。
「博士ー。ただいまでバッタ~」
場にそぐわない間の抜けた挨拶。ややあって、古びた扉に取り付けられた小窓が開く。ガラスの向こうに、怪しく光る瞳が見えた。背中に少女の手が触れた気がしたが、敢えて気付かなかった振りをする。
「……合言葉は」
「『改造人間の第1号はバッタ人間でやんす』でバッタ!」
「……真実は」
「『蜘蛛男』でバッタ!」
立花の声が廊下に幾重にも反響する中で、扉がキイキイと耳障りな音を立てながら開かれる。まさかの二重認証に呆然としていた二人に対し、バッタ男はさっさと入れと言わんばかりに手で中空を薙いだ。
バックヤード同様に裸電球に照らされた狭い室内は、少女の『悪の秘密結社』という言葉にはやや迫力不足であったが、それでも邪さを想起させるには十分な雰囲気があった。中央を陣取る木製の大きな作業台から、ここが元々は施設や備品の修理などを受け持つ部屋だったのだろうと推察できる。傷だらけの作業台を囲む四面の壁には、何に使うのか見当もつかない機械や作りかけのロボットの部品がゴロゴロと無秩序に並べられている。充満する油の臭いにレオが辟易していると、作業台の奥に潜んでいた影が、ぬるりとその姿を電球の灯りの下に姿を現した。顔つきは老人そのものだが、足腰がしゃんとしているのか身長は高く黒い外套が映える。右目に嵌め込まれた片眼鏡の奥の瞳がぎょろりと動き、瞬きを忘れ立ち尽くしていた二人を捉えた。
「よく来てくれたな……む、二人? ボボよ。まさか二人ともオルフェノクなのか?」
「えっ、あ! おいアンタ、なんでついてきたでバッタ! この秘密のアジトを見て、生きて帰れると思うなでバッタ!」
両手を握りバッタ男が気色ばむ。梨子は反射的に手を伸ばした空き缶から手を離した。どうやら、まだお決まりのご挨拶をするほどの間柄ではないと判断したらしい。
「失礼ね! 誰が古河を連れてきたと思ってんのよ。それにあたしは被害者! あたしだって、色々知る権利ってもんがあるんだから! ね、古河!」
「……オレは別に、連れてこられちゃいねえけどな」
ぼそりと吐き捨てるや否や半身を逸らす。胸元を掠めた空き缶は壁面にぶら下がっていた何かの機械に当たると、その発明品もろとも地面に落ち派手な音を立てた。身を竦める老人と立花を余所に、少女は頬をぷーっと膨らませる。
「だーかーらー、避けるなっ!」
「そもそも投げてくんな! 今のはオレ関係ねえだろ!」
「いってーな! オイ、アジトでポイ捨てすんじゃねーよ!」
突然の乱入者。二人が声のした方を見ると、発明品が落ちた場所にあったロボットが空き缶をぐしゃりと握り潰していた。
「うわっ、ロボット!」
「ロボットじゃねえ! オレはたかゆきだ!」
少女へと声高に謎の反論を叫ぶロボットを冷めた目で眺めながら、レオはもう帰っていいかなとうなだれる。どうやら、バッタ男の合言葉の認証相手はこのロボットだったらしい。
「……紹介が遅れたな。そこにおるのがたかゆき。こっちが立花。二人ともワシの助手じゃ」
そこで老人はひとつ間を置くと、わざとらしく喉を震わせて笑う。狭い室内に、しわがれた高笑いが反響する。
「そしてワシは黒野鉄斎。世間を恐怖に陥れる、悪の天才科学者じゃ!」
「……おい。帰るぞ、石本」
「帰るなっ! それと石川!」
ついに我慢の限界を迎え踵を返したレオの襟首を梨子が掴む。少年は乱暴にその手を振り払い、見るからに珍妙な黒野一門を順番に見渡した。どちらかといえば、サーカス団と言われた方がまだ納得できる。
「聞いてただろ。どう考えたって関わり合いにならない方がいいヤツらだ」
「そうかな? バッタ怪人に自我を持つロボットにマッドサイエンティスト! こんな面白いことって他に無いよ!」
「お前な……その面白いか面白くないかを物差しにすんの、やめろ」
信じられないといったように首を振るレオに舌を出し、梨子は勢い良く右手を挙げた。
「はーい、博士! 質問質問!」
「おぬしら、テンションに差がありすぎるな……まあ、いい。なんじゃ?」
「オルフェノクって何ですか? まさか、博士が作ったとか」
黒野は一度目を伏せ、鼻から息を吐く。両手を握りしめた少女の喉がごくりと鳴った。
「半分は正解じゃな。あくまで半分じゃが」
「えーっ! じゃあ古河も博士の手先だったの!?」
「バカ言うな。こんなジジイ、初対面だ」
「コラ! 年寄りに失礼な口を利くな!」
まったく最近の若者は、といった老人のテンプレートのような台詞をぶつぶつ呟いたあと、黒野は大きくひとつ咳払いをした。
「オルフェノクとは、端的に言えば人類の進化の可能性じゃ。一部の人間の体内に存在するオルフェノク因子が覚醒することにより誕生する。人間と同等以上の知性と、人間を圧倒的に凌駕する身体能力と何らかの動植物の特質を併せ持つ生命体じゃ。まだ数は多くないんじゃろう。個体の目撃情報はほとんどと言っていいほど上がっていない。インターネットの掲示板の都市伝説レベルの存在じゃな」
「へー。そんな珍しいんだ、アンタ。動物園に売ったらいくらになるかな?」
「人を珍獣扱いすんな。ぶん殴るぞ」
「古河があたしをレディ扱いしてくれたら改めるよ」
しばしの睨み合い。黒野は二人を交互に見比べ、引き分けと見做し話を続けることにした。どうやら早くも二人の扱いがわかってきたらしい。
「オルフェノクの語源は、ギリシャ神話の『オルフェウス』と旧約聖書の『エノク』を組み合わせたもののようじゃな。オルフェウスは死んだ妻を取り戻しに冥界に踏み込んだ人間じゃ。竪琴の名手で冥府の門番も番犬すらも魅了したらしい。冥王ハデスもまたその腕前と勇気に免じて妻を返す決断をしたんじゃが、『妻が冥府を抜けるまでは振り返ってはいけない』という条件を付けた。オルフェウスは辛抱強く我慢しておったが、最後の最後で過ちを犯してしまった。妻は冥界に連れ戻され、オルフェウスは一人現世へと戻ってきたんじゃ」
不意に鼻をすする音が聞こえ、レオは隣を見遣りぎょっとした。潤む瞳を隠そうともしない少女を、肘で突き小言を漏らす。
「お前、ガキかよ。今ので泣くか普通。ただの作り話じゃねえか」
「はぁ。ダメだよ古河。オルフェノクになっても、人間の心まで失っちゃ」
開戦の合図と受け取った少年が口飛沫を飛ばすよりも早く、梨子は作業台に手を突き身を乗り出した。
「それで!? エノクはどんなロマンスストーリーなの?」
「うむ……エノクはな、あまり文献に残っていないんじゃ。いわゆる『箱舟』で知られておるノアの曽祖父らしく、300年以上は軽く生きたとされておる。『神に連れていかれた者』と言われておってな、死せずしてこの世を去ったらしい」
今度はお気に召さなかったのか、少女は唇を尖らせる。しかしすぐに小首を傾げ、あれ、と小さく呟いた。その横顔が、見る見るうちに曇っていく。
「オルフェウスは、あの世から生きたまま帰ってきた人。エノクは死なないであの世に行った人ってことよね。二人の共通点って……」
そこまで言うと、何かを考えこむように黙り込んでしまう。
一人だけさっぱり話が見えてこないレオは、焦れたように頭を掻いた。
「なんだよ。ただの昔話だろ」
「いや……そうとも言い切れんかもしれん。名付けたものは、オルフェノクのことを熟知していると見える。さっきも言ったが、オルフェノクの因子を持つ者は人間でも一握りしかおらん。そのうえ、ただ生きているだけでは覚醒することは無い。進化の路を辿るには、大きな関門を突破しなければならん」
そして黒野もまた、何かを逡巡するようにその口を閉ざす。たかゆきと立花は既に答えを知っているのか、さっきから沈鬱な面持ちのまま黙りこくっている。無音の作業室は、通風孔から流れるごうごうという低い空気の音だけが支配している。その雰囲気に呑まれたのか、動物的な勘がもたらしたのか。額から頬へと冷たい汗が流れた。
「はっきり言えよ、ジジイ。オルフェノクになる条件ってのは、何なんだ」
耐えきれなくなったレオが声を荒げる。
黒野は唇を噛むと、腹を決め俯き気味に、しかしはっきりとした口調で告げた。
「……死じゃ。オルフェノクの因子を持ち、人間として死を迎えた者。それが覚醒の鍵じゃ」
その瞬間、黒野の姿が突然小さくなったように視界が歪んだ。
人間としての死。今までの話の半分も理解していなかった少年でも、その言葉の意味だけははっきりと解る。生との乖離。寝起きして、バイトに行き、周と他愛もない話に興じた自分が、本当は死んでいる。悪の科学者に、バッタ男に、ロボットに、空き缶女。こんなに非常識な連中に囲まれているのに、自分だけが。
押し黙るレオに代わり悲痛な声を上げたのは梨子だった。
「で、でも! 古河が死んでるなんて、そんな……信じられないよ」
「詳細に言うなら『死んだ』じゃ。人として死を迎えたあと、オルフェウスの如く冥界から帰還する。あるいは、エノクの如く死せずして冥界を見たのかもしれん。古河といったな。おぬし、死ぬような凄惨な体験をしたのではないか?」
記憶の棚を引っ繰り返すまでもない。グレーと初めて邂逅した夜。
灰色の戦士は勘違いと思い込んでいたようだが、なんてことはない。彼は立派に自身のミッションを遂行していたのだ。目撃者は確実に絶命した。しかし、あろうことかその男は復活した。オルフェノクとして覚醒したのだ。
抜け落ちた記憶のピースがひとつ、かちりと音を立てて嵌った。
「……そうか。死んでたのか、オレ」
「古河……」
梨子の震える声が絞り出される。
さすがのコイツも、これは面白いなんて言えないんだな。
レオは場不相応に口の端を持ち上げた。
未だにショックは残っている。お前はもう死んでいるなんて、昔読んだ少年漫画でしか聞いたことがない。しかしそうだとすれば、色々と合点がいくのも事実だ。鏡で見た異形のフォルム。二度のみとはいえ、その超越的な力をもって戦ったこと。その非現実を呑み込むには、やはり非現実によらなければいけないのだろう。
「仮にじゃ。人の命を交換不能な電池するなら、おぬしの電池は一度外れ、そして満充電され再装填されたことになる。今のおぬしは間違いなく生きておる。何の慰めにもならんとは思うが……それだけは、付け加えておくぞ」
「……そうか」
再び通夜のような重い沈黙が辺りを包む。少女は両手を作業台についたまま顔を伏せている。ついさっきまであれだけ鬱陶しかったはしゃぐ姿が、急に懐かしく思えてきた。
暗い雰囲気は苦手だ。ましてや、その原因が自分ならなおさらだ。
レオは少女の細い腰の両側に腕を回すと、服の上から手を動かした。
「ひゃっ!?」
「なんだお前、痩せてんな。メシちゃんと食ってんのか」
「あっ、アンタね――」
振り被られた手首を掴む。空き缶がからりと乾いた音を立てて作業台に落ちる。
露わになった真っ赤に充血した大きな双眸からは、決壊した涙が頬を伝い流れ落ちている。なんて顔だ。隠そうと抵抗する腕を左右に操りながら、レオは笑った。
「ブッサイクだな、石坂」
「誰のせいよ……」
「オレじゃねえだろ。あのジジイに言ってくれ」
親指で唖然とした様子の黒野を示す。その瞬間、爪先を勢いよく踏み抜かれた。
「――ってーな! 何すんだ!」
「ああ、今ので分かった! 古河は生きてる! オルフェノクか何か知らないけど、死んでたら足なんて踏めないし! あと、石川! いい加減覚えろ!」
「分かったならさっさと足をどけろ! テメッ、ぐりぐりすんな!」
「ふん。美少女にセクハラしたんだから、このくらいで済んで良かったと思いなさいよねっ」
存分に古河のスニーカーを黒く汚した少女が赤い舌を剥き出しにする。しおらしいままの方が、やっぱり断然良かった。レオは恨み千万とばかりに歯を剥いた。
「……でも。ありがと」
「あぁ?」
「古河が死んでたら、あたしもオルフェノクに襲われて死んでたし。生き返ってくれて、ありがと」
少女の涙声に、レオは視線を所在なくうろうろとさせる。お前だったらオルフェノクになってるよ。そんな憎まれ口も浮かんだが、今は叩く気になれなかった。
「……どうやら、ワシが思った以上にタフなヤツだったようじゃな」
二人を観察していた黒野が割って入る。その場の空気が多少は弛緩したように思えた。
「ジジイ。能書きは分かったから、本題に入れよ。俺に用があるってのは、まさかテメエが死んでるって伝えるだけなんてことはねえだろ」
「おまけに、肝心なことに関しては頭も切れるようじゃな……悪くない。気に入ったぞ、古河。そのひん曲がったクチ以外はな」
「ほっとけ」
梨子は未だに鼻を啜っている。見かねた立花がティッシュ箱を差し出すと、遠慮や恥じらいなど微塵も感じさせない大音声で鼻汁を吐き出す。これにはレオのみならず、黒野もたかゆきも立花も後ずさった。
「あー、すっきりした。ありがとね立花さん」
「……そっちの石川とかいう小娘も、なかなかの根性をしておるな」
「らしいな。気に入ったか?」
黒野はその問いには答えず、再び面持ちを固めた。
本題はここから、というわけだ。
「さっき説明した通り、オルフェノクは人間とはかけ離れた戦闘力を有しておる。それが原因なのかは定かではないが、同時に凶暴性も増してしまうことが多いようじゃ。力に溺れたのか、それともそれがオルフェノクという種の定めなのか……古河。おぬしは特に、そういった変化は無いのか」
「……さあな。特に何も変わってない、と思う。オルフェノクになったときは、声みたいなのは聞こえるけど」
「ほう。声とな」
「声っていうか、動物の鳴き声みたいな。テンションは上がる。凶暴性って言われたら、そうなのかもしれねえけど」
「ふぅむ。個体差があるのか、おぬしが特にタフな個体なのか……判断にはデータが足りんな」
黒野の広い額に皺が寄る。
脳裏に響く豹の咆哮。人間が近現代社会を形成するうえで隠すようになったそれは、威圧的で粗野な刺々しさを伴い、常識や理性を食い尽くさんと暴れ狂う。しかしレオは不思議と、その中に懐かしさすら覚えていた。
「まあ、いい。それはおいおい判明するじゃろうて。おぬしに頼みたいこととは、これじゃ」
ごとりと荘厳な音を立て、それは作業台の上に置かれた。
銀の光沢を放つアタッシュケース。黒野はぱちりと音を立ててそのロックを外し、中身をレオに見せるように開いた。
「……ケータイ?」
梨子が不思議そうに首を捻る。
上下に分かれたアタッシュケースの下部には、携帯電話と思しき端末とカメラ、そして手持ちの望遠鏡のようなツールがスポンジに囲まれ収まっている。上部には、何かを装填するためのスライドを備えた銀の帯。それは大業なベルトのバックルのように見えた。
「おぬしには影響がないようじゃが、オルフェノクの凶暴性は看過できるものではない。既に人間を襲ったという話も聞いておる。もっとも、元々が都市伝説レベルの話じゃ。警察はまだ気付いてはおらんし、そもそも人間が太刀打ちできる相手ではない。そこで天才であるワシが開発したのが――この、ファイズギアじゃ」
「……この、ケータイとかを? 博士が?」
梨子がファイズギアとやらと黒野の顔を交互に見比べる。たしかに、アングラ感溢れる黒野の風体と現代文化の象徴とも言える携帯電話の組み合わせはいささか、いやだいぶミスマッチだ。しかし黒野にとってはさぞ自信作なのか、目を閉じ悦に入った様子で首を上下に振っている。
「詳しい説明は省くが、これによっておぬしはオルフェノクを超える身体能力を持つ戦士、ファイズに変身できるのじゃ。武器もそれぞれ、ヤツらにとって天敵とも言えるフォトンブラッドを流し込めるように設計しておる。これならそこらのオルフェノクには、決して負け――」
「ちょっと待てジジイ。あんたの発明自慢なんて、どうでもいいんだよ」
「は、発明自慢……」
さすがに心外だったのか、黒野はあんぐりと口を大きく開いた。構わず、少年は机を一度平手で叩く。
「そもそもだ。都市伝説レベルの怪物なのに、なんでそんなに詳しいんだ。それにあんた、オルフェノクを半分は自分が作ったとか言ってただろ。ありゃどういう意味だ」
「……おぬし、本当に妙なところは頭が回るのう」
「それ、あたしも同感……すっかり忘れてたよ」
呆気にとられたように見つめてくる四つの瞳から逃れるように、レオは顔を逸らした。立花とたかゆきは露骨に顔を背けている。虫の知らせのように、頬がぴくりと痙攣した。老人は悪戯を見咎められた子供のように、躊躇いがちにその口を開いた。
「実は……実はな。オルフェノクの存在を知ってから、ワシはどうしようもなくそれに惹かれてしまったんじゃ。ツテのツテの、そのまたツテを辿ってオルフェノクの血液や体成分を入手して、その……開発しようとしたんじゃ」
「……何を」
「……オルフェノク製造マシーンじゃ」
時間が瞬間的に放り投げられる。ヤバいヤツだとは思っていたが、ここまでとは。ボキボキと豪快に指を鳴らしながら黒野へ迫ろうとするレオを、少女は慌てて胸を押し留め制止した。
「おい、ジジイを押さえとけ。ここでやるぞ」
「ちょ、ちょっと! いくらなんでも、それは」
「ま、待たんか! 話は最後まで聞けい! 結局な、そいつは途中で放棄したんじゃ」
「信じられるかと思うか」
「信じるも信じないも事実じゃ! 二人にも聞いてみろ!」
張り子の虎の如く首をがくがくと縦に振るバッタ男とロボット。そりゃ、こいつらはそう言うだろうよ。ちっとも衰えていない少年の暴虐なオーラを感じ取ったのか、黒野は捲し立てるように続ける。
「マシーンの開発を始めてしばらくした頃、オルフェノク覚醒の条件とその凶暴性が発覚したんじゃ。ワシは以前、怪人製造マシーンというものを発明したが、あれはただ肉体を変化させるだけのもので、人格には何の影響も無い可愛いもんじゃった。オルフェノクの潜在的な危険性はそんなもんじゃない。下手をすれば地球上の生態系を引っ繰り返しかねん。いくら悪の天才科学者といえど、ワシもそこまで厭世しとらん」
怪人製造マシーンという不穏なワードに片眉を吊り上げたものの、幾分溜飲は下がったのか、少年の力が抜ける。梨子はふうと吐息をつき、未だ曇ったままの黒野の顔を見た。
「それで? マシーンの開発は中断したんだよね?」
「うむ。そうなんだが……」
「だが?」
レオの小鼻が犬のようにぴくりと動く。あ、これ、ダメかも。更なる嵐の予感に、梨子は諦めたように笑った。
「廃品回収に出しとった未完成のマシーンが……盗まれたんじゃ」
果たしてその言葉は、少年を低い沸点をリミットブレイクするには十分であった。
「おい、今度こそ止めんなよ。一発はぶん殴らねえと気が済まねえ」
「だ、ダメだって!」
「そんな危険なモンを、テレビかなんかと勘違いしてるジジイの目を覚ましてやるだけだ」
「ああもう! そこの二人! 見てないで手伝いなさいよ!」
少女の怒号に、おろおろと慌てふためいていた立花と愉快そうに観客を決め込んでいたたかゆきも攻防戦へ参入する。結局三人がかりで壁際に押さえつけられたレオは、さすがに気力が削がれたのかそれ以上は抵抗せず、ただ鋭い眼光だけを黒野へと向けた。
「ワシの天才的発明を完成させられる者がおるとは思えん……思えんが、このところオルフェノクの活動が活発化しているという話も聞いておる。そこで急遽開発したのが、このファイズギアというわけじゃ」
「それで罪滅ぼしのつもりか。天才科学者ってのはずいぶんおめでたい性格らしいな」
「……否定はせんよ。人類進化の可能性などというダーウィン以来の進化医学の躍進に、年甲斐もなく心が踊った。燻っていた科学者としての本能が疼いたのは事実じゃ」
「でも、博士は危険に気付いて発明を辞めたんだよ。そりゃ、廃品回収はあたしもどうかとは思うけど……古河。博士は悪くないよ」
少女の訴えかけるような目線をまじまじと感じる。それは梨子だけではなく立花も、またたかゆきの感情を映さぬ単眼すらもそう言っているように見えた。
本心ではレオもまた理解している。憎むべきは力に溺れた心であり、オルフェノクという種そのものだと。自分がそうであったように、オルフェノクは本来自然発生的なものなのだ。黒野はむしろ、その未曽有の危険をいち早く察知したに過ぎない。ただ、この数日のことを含め、納得したと思い込ませていた感情の蓋が開いてしまったのだ。行き場のない激情を誰かにぶつけなければ、頭がパンクしてしまいそうだった。
少年は一度吼え、石打の壁を強く叩いた。
「……もう、分かった。分かったから、さっさと離れろ」
「……ホント?」
「なんか、萎えた。ジジイを殴っても後味が悪そうだ」
その呟きを契機として、恐る恐ると三人分の戒めが解かれる。
「それで、あんたはオレにそのオモチャを使ってオルフェノクを倒せってか」
「オモチャ……ま、まあ、そういうことじゃ」
レオはファイズボックスに近づき、アタッシュケースから折り畳み式携帯電話型の変身デバイス・ファイズフォンを手に取る。大きめの掌にすっぽりと収まるそれを一度、開いて閉じた。続けて、帯状の転換装置・ファイズドライバーを抜き取る。バックル部分に備えられたスライドは携帯電話の形状と一致しており、そこに鎮座すべき主が誰なのかを明示している。帯の長さからして、これを腰に装着して使うのだろう。
「こんなんで、オルフェノクを倒せるってか」
「ファイズに変身して、な。そのアタッシュケースごと託そう。おまけというわけではないが、そこのバイクもおぬしにやろう。ファイズの相棒になってくれる筈じゃ」
黒野が目で合図を送ると、たかゆきが部屋の片隅で何かを保護していた銀のポリエステルシートを一気に捲る。その下から現れたオフロードバイクは薄暗い灯りの中で鈍い輝きを放ちながら、薄暗い灯りの中で主を待つかのように眠っていた。少女が感嘆の吐息を漏らす音が、薄く聞こえる。
レオはドライバーとファイズフォンをアタッシュケースへと戻した。
「……まあ、言いたいことは分かった」
「では、このファイズギアをおぬしに――」
「いや、いらねえ。却下だ」
ケースの蓋を閉じ、黒野へと押し戻す。当然受け取るものだろうと思い込んでいた梨子の瞳が、吃驚で大きく見開かれる。
「なっ、なんで!? 古河、変身できるんだよ?」
「嫌だね。めんどくせえ」
「めんどくさいって……そんな理由?」
「そりゃそうだろ。何が悲しくて、高2にもなってヒーローごっこなんてしなきゃいけねえんだ。変身したけりゃ、ジジイがやりゃいいだろ」
「そんな、ムリだよ! 博士、おじいちゃんなんだし」
「だったらお前がやればいいだろ。変身すりゃオルフェノクなんて楽勝なんだろ?」
「あっ、あたしぃ? そりゃ、できるならやってみてもいいけど」
「……残念ながら、それはどちらも無理じゃ」
苦虫を噛み潰したように黒野が呻く。
「ファイズに変身できるのは、オルフェノクだけじゃ。ただの人間では適合できず、変身が解除される。ワシも、石川も、これで戦うことはできん」
「そっか……だから立花さんは、古河に声を掛けたんだ」
「そういうことじゃな。立花には街を巡回して、適合者を探してもらっていた。オルフェノクの種の本能に抗い、ファイズの力を正しく使える人間をな」
黒野はそこで一度言葉を切り、深々と腰を折った。そんなことまでされるとは夢にも思っていなかったレオの顔に影が差す。
「まさしく雲を掴むような話じゃ。オルフェノクという個体が少ないうえに、その中でいるかどうかも分からぬ適格者を探さなければならん。これだけ早く見つかったのは、奇跡的と言っても差し支えないじゃろう……古河。この通りだ。おこがましいことだとは重々承知しているが、力を貸してはくれまいか」
「……悪いな。そういうの、趣味じゃねえんだ」
「嘘だよ。あたしのことは、助けてくれたじゃん」
「あれは……別に、お前のためじゃねえよ。オレはただ、自分の正体が知りたかっただけだ」
不躾に吐き捨てられた言葉に、梨子はかっと頭が熱くなるのを感じた。そんな、自分勝手な。しかし、喉まで出かかっていた罵声は、感情を押し殺したような少年の横顔を目の当たりにした瞬間、どこかへと雲散してしまった。
「悪いが、他のヤツを探してくれ。良いのがいたら、オレが紹介してやる」
「……そうか。相済まなかった。酷なことばかり告げてしまった」
「博士……いいんでバッタ?」
「仕方あるまい。実際に戦うのは古河じゃ。危険が伴う以上、ワシらに無理強いすることはできん。立花、お前にも悪いことをしたな。また探してもらえるか」
「俺は別に、いいでバッタけど……」
それだけ聞き届けると、少年は踵を返した。
もう、ここにいる必要もない。
レオは最後に一度だけ、陽炎のように佇む黒野へと振り返った。
「じゃあな、ジジイ。長生きしろよ」
足早に出口へと向かうレオの前に、たかゆきが立ち塞がる。こいつも引き下がってくるのかと鬱屈たる思いで睨むと、ロボットはレオの考えとは裏腹に、独り言のように呟いた。
「オレは別によお。こんな見た目だし、オルフェノクとかファイズとか、正直どうでもいいんだけどよ」
モノアイが顔を正面から捉える。レオはその機械の面容が、笑ったように見えた。
「テメエが自分を人間だと思うなら、テメエは人間だと思うぜ」
「……何の話だよ」
「さあなぁ。まあ、せいぜい悩めよコウハイ」
少年はそれ以上は何も言わず、扉を開けた。
Φ
周が呼び鈴を押してしばらくしてから顔を覗かせたのは、レオの父親だった。
バイトが終わる時間からはしばらく経っているが、まだ少年は帰ってきていないらしい。日を改めようと思ったが、そのうち帰ってくるだろうから上がって待っとけという父親の言葉に甘えることにした。
彼が季節外れのランニング姿でくつろぐ居間から襖一枚を挟み奥にあるのがレオの部屋だ。締め切るのも失礼かと思い薄く開いておいた襖の隙間から、バラエティ番組の笑い声と煙草の香りが漂ってくる。
そういえば、家族の話を聞いたことは無かった。
居間を抜ける際に見た仏壇を思い出す。遺影に映っていたのは、まださほど年老いては見えない女性。もしかすると、母親なのかもしれない。そういえば、野球の試合にもレオの家族が応援に来ているのを見たことは無い。声援を受けることもなく、小高いマウンドでただ一人腕を振る姿は、さながら縄張りを守る孤高の獣のようにも見えた。
周の部屋も余計なものは置かない主義だったが、レオの部屋はそれにも増して物が少ない。殺風景と言っても差し支えない六畳ほどの四角い空間には、敷きっぱなしの布団とローテーブルを除けば家具らしい家具は見当たらない。テーブルの上には乱雑な扱いにより表紙が折れてしまったバイク雑誌が置いてある。そして、床に散乱するのはハンドタオルやハンドグリップ、ダンベルといった細々としたトレーニンググッズ。ほつれの激しいタオルを手に取ると、片側だけが異常に皺だらけになっていた。このような使用法を、周はひとつしか知らない。
シャドウピッチング。
ふと気になって、襖の奥で紫煙を燻らす父親にレオの家での過ごし方を訊いてみる。仕事の都合上家にいることは多くないが、夜になると息子はジャージに着替えてどこかへ行くと言う。どこに行くのか尋ねると決まってコンビニと答えるが、それにしては時間がかかり過ぎている。その辺を走ってるんだろうなあ。アイツ、野球しか知らねえからな。父はそう言って、フィルターギリギリまで吸った煙草を灰皿に押し付ける。周は軽く礼を述べ、再び床に視線を落とした。
レオはまだ、マウンドに戻りたいんだな。
おもむろに立ち上がり、左手にタオルの端を握る。ノーワインドアップ。ここまでは、大丈夫。利き足に体重を乗せ、左腕を引く。その刹那、肘の内側に電撃が走った。布切れが音も無く床に落ちる。
内側側副靱帯の損傷。手術をしない限り投球はできない。手術をしても、元通りになるかどうかは分からない。絶望的な響きを持った医者の言葉は、今も耳朶にこびりついている。元々弱ってきていた靱帯が、事故により完全に断裂したのだという。
レオの事故は、周も目撃者の一人だった。轟音と共に部室が爆発し、黒煙の中からブラウンが現れる。これ以上なく派手なヒーローらしい登場。既に全体練習が始まっており、部員、マネージャー共に全員グラウンドにいる、はずだった。日直の都合で遅刻していた、レオを除いて。
ロッカーの扉が盾代わりになったのは、まさに奇跡としか言いようがない。火傷は軽症で済み、露出部には目立つ痕も残っていない。ただし、右肩は潰されていた。レオの腕はもう、肩より上には動いてくれない。
正直に言えば、その時の周は、茶色のヒーローに感謝すらしていた。
レオの投球は粗削りではあったが、同級生の中では頭一つ抜け出していた。力強い直球を主軸に、ブレーキの利いたスライダーとカーブを投げ分ける投球スタイル。制球面でこそ周に軍配が上がったが、調子が良ければ9回まで投げ切れるだけのスタミナはレオだけの武器だった。ベンチの人数が少ない高校野球において先発完投型のレオは逸材そのものであり、順調に成長すればプロにも注目されるのではないか、とすら周は考えていた。
しかし周が真に慄いたのは、レオのマウンド姿だ。
レオは普段から何を考えているか分からない仏頂面だ。似顔絵を描けと言われたら、間違いなく不機嫌そうに唇を歪めた顔にするだろう。機嫌の良し悪しがすぐに出る立ち振る舞いも相まって、お世辞にも良い印象を与えるタイプとは言えない。
そんなレオがマウンドに立ったとき、そこは彼のテリトリーと化す。歯を食いしばり、帽子を投げ飛ばし、一球一球に魂を乗せるかのような闘争心の塊。中学時代に初めて投げ合ったとき、同い年ということを疑ってしまうほどに、その姿は圧倒的に映った。その試合は結局フォアボールにエラーが絡み辛勝したが、周の心は完全に敗北していたのだ。
俺はこいつには、勝てない。
その失意は、チームメイトになってからも変わることは無く。
――どけ。そこはオレのマウンドだ。
気付けばその細い瞳が、そんな風に自分に語り掛けているように見えた。
だからこそ。彼が存外の事故により退くことになったとき、周は心から安堵した。もう自分を脅かすものは何もない。ブラウンにはとても勝てそうにも無いが、それはヒーローだから仕方がないことだ。あとはチームメイトの湯田や村野に勝ちさえすれば、二番手ピッチャーとしての地位は確保される。結局二番手だが、同じ人間なのか、ヒーローなのかでは雲泥の差だ。
もう大丈夫。
自分の小さなプライドを傷つける者は、誰もいない。
シルバーが文字通り周の頭上に現れたのは、天罰だったのかもしれない。
病院のベッドで目覚めた周に、もはや再起するだけの闘志は残っていなかった。
血の滲むリハビリを越え、元の力を取り戻したところで、もはや三番手ピッチャーだ。いや、もしかすると、他の連中にも負けるかもしれない。
熾烈な競争で敗れるくらいなら、安穏たる脱落を選ぶ。
それの何が悪いのだ。
レオを遊びに誘うようになった理由も単純だ。
あいつも落伍者だから。
自分の判断は間違っていない。俺が弱いんじゃない。仕方がないことなんだ。
そうやって心の平静を保ってきたというのに。
お前はまだ、諦めていないのか。
持ち手の緩衝材が破れかかったダンベルに、雫が落ちた。
Φ
河川敷に戻ってきてなおも、梨子は執拗に後を追ってきていた。堤防の上の一本道を逸れグラウンドに降りても、その足音は追随して迫ってくる。
「ねえ、古河ってば! ちょっと――待ちなさい、よっ」
螺旋回転を伴った空き缶をダッキングで避ける。黒野のアジトを出てから、これで何度目になるか。レオは立ち止まると、肩で息をする少女を見下ろした。
「何だよ。まだついてきてたのか」
「ふん。分かってたクセに。それより、ホントに良かったの?」
「何が」
「ファイズ。ならなくて良かったのかって」
「興味ねえよ。大体、オレは高校生だぞ。学校に行かなきゃなんねえのに、ヒーローごっこなんてできるわけねえだろ」
唇を尖らせレオが嘯く。梨子はむっと頬を膨らませると、一人で歩き始めた少年の横に並んだ。
「それはそうだけど……じゃ、なんでそんなに不機嫌なのさ」
「あぁ? 別に、不機嫌なんかじゃ」
「嘘だよ。ほんの数時間しか話してないけど、古河は分かりやすいよ。博士のところ出てから……ううん。ファイズの話をされてからずっと、怒ってるじゃん」
「怒ってねえよ」
「怒ってるよ」
「怒ってねえ」
「怒ってる」
「オレが怒ってねえって言ったら、怒ってねえんだよ!」
癇声が無人の河原に響き渡る。生い茂る草を薙ぐ風が、二人の間を吹き抜けた。
「……ほら、怒ってる。素直になればいいのに。意地張って得することなんてひとつもないよ」
「うるせえな。何でもいいから、もうついてくんな。鬱陶しい」
「そうはいかないよ。あたし、オルフェノクに襲われたんだよ? もしかしたら、狙われてるかもしれないじゃん」
「知らねえよ。お得意の空き缶で倒せばいいだろ」
「ムリだよ。そんなの、古河だって分かってるでしょ」
「じゃあ、どうしろって言うんだ。お前んちに泊まって四六時中見張ってろってか」
レオは冗談のつもりで口にしたのだが、どうやら梨子は真に受けたらしく、音がしそうな勢いで少年を仰ぎ見た。
「そっ、それはダメ。あたし、一人暮らしだし」
「一人暮らしぃ?」
この年頃からは珍しい発言に、思わず大きな声が出た。対して少女はさも当然とでも言うように涼しげな顔をしている。その相貌が、不意にぱっと明るくなった。
「ねえ、古河の部屋って広い?」
「あぁ? いきなり何だよ……お前、まさか」
動物の勘でも何でもない。話の流れからして、悪い予感しかしない。
「うん。そのまさか。しばらく泊めてよ。一人だと不安だし」
やっぱりか。レオはピタリと、着実に自宅に近づいていた足を止めた。
「ざけんな。お前、実家は」
「ん? あるよ。ここから少し行ったとこ」
「ならそっちに帰れ。それか友達の家にでも行けばいいだろ」
「やだよ。家族とか友達に迷惑かけたくないし。どうすんのさ、新聞の一面に『石川一家、謎の死!』なんて書かれてたら。夜も眠れなくなるよ」
「ちゃんと戸締りしとけ」
「もー、いいじゃん! こんな若くてカワイイ女子が一緒に住んであげる、って言ってんのに。何が不満なのさ!」
「不満しかねえ!」
自然と語気が荒くなる。ぺんぺん草も生えぬこの不毛な争いに終着点はあるのか。潜熱を訴え始めた額に手を当てた。
すると、梨子はおもむろに反転し少年に背を向けた。
「あのオルフェノクに襲われたとき……すごく、怖かった。逃げたくても足が動かなくて、ゆっくりアイツが迫ってきて。首を絞められても、全然抵抗できなかった。叫びたくても、声も出せないんだよ。ああもう死ぬんだなって思ったら、全身が氷に浸したみたいに冷たくなって。でも、アイツのぬるぬるした手だけは燃えるように熱くて……」
今にも泣きだしそうなか細い声。レオには背中が、微かに震えているようにも見えた。
ああ、クソ。厄日か。
こんな態度をされては、さすがの少年も先程のようには断れない。
「……分かった! 分かったから、そんな顔すんな!」
レオは両手で前髪を掻き上げ、天を仰いだ。
「少しだけだ。お前がオルフェノクに狙われてないと分かったら、すぐ帰れ。いいな」
「……いいの?」
「仕方ねえだろ。ホントに死んじまったら飯が不味くなる」
「やった! 古河、やっぱアンタいいヤツだねっ」
くるりと踵を返し満面の笑みを浮かべる梨子。その瞳には一点の曇りもない。やられた。その四文字が頭を過ぎったが、今更演技を指摘したところで、また千日手に陥るだけだ。レオはがくりと肩を落とした。
「あ、でも。だからって、スケベなこと考えたら空き缶投げるからね」
「安心しろ。指一本触れやしねえよ」
「……それはそれで、なんかムカつくけど」
額に皺を寄せていた梨子は、ふと何かを閃いたように、にこりと微笑んだ。
「リコ」
「あぁ?」
「あたしの名前。アンタ、2文字以上覚えらんないでしょ。特別に、名前で呼んでもいいよ。古河の下の名前ってなんだったっけ?」
「お前な……まあ、いい。レオだ」
もはや色々と諦めの境地に至っていたレオは、力なく、できる限りぞんざいに答えた。
「へぇ。カッコいいじゃん。レオには勿体ないくらい」
「余計なお世話だ」
照れたように顔を明後日の方向に向けたレオの背を軽く叩き、梨子はスキップ気味の軽い足取りで少年の横を駆け抜けていく。10メートルほど離れたところで、宝物を見つけたかのように目を輝かせその身を屈めた。
「ねえ、レオ。たしかアンタ、野球部だったよね?」
質問と同時に、梨子が何かを投擲する。また、空き缶か。しかし、緩やかな放物線を描き飛来するそれは、少年があまりにもよく知っている物と同じ形をしていた。
「バカ、いきなり投げてくんな――!」
見送れば頭上を越していくボール。腕は肩までしか上がらないことは十分承知していたが、反射的に身体が動いた。伸ばした右手の中に、懐かしい感触が蘇る。
「ナイスキャッチ!」
怪我のことなど知る由もない少女が拍手を送る。レオは黒ずんだ軟式ボールをキャッチした体制のまま、天に向かって突き出した右腕を見上げた。
痛みが、無い。
どれだけ投げたいと切望してもそれを阻んできた疼痛が嘘のように消えている。すぐに、オルフェノクの卓絶した治癒能力によるものだと思い至った。
恐る恐る肩を回すと、それは初めから何の問題も無かったかのように、中空にしなやかな円を描く。心臓が勢いよく脈を打つ音が、はっきりと聞こえた。
少女が早く投げ返せと催促している。軟球を持つ手がじんわりと汗ばんでいる。
半身の体勢から右腕を引く。突き出した左腕で作る壁。全力で投げる気なんてさらさら無いが、慣れ親しんだ投球動作に心が踊った。大きく踏み出した左脚。予想外に本格的なフォームに、少女がたじろぐ。バーカ、本気なわけねえだろ。口の端が持ち上がった。
あとは力を抜いて、山なりに投げるだけ。
擦り減った凹凸に掛けた指が、ボールを離れた。
「あーっ! もう、どこ投げてんのさ! ヘタクソーっ!」
その一球は、少女の頭を遥かに高く超え、闇夜へと吸い込まれるように消えた。罵声を飛ばしながら走る梨子の後ろ姿を、レオは右腕と交互に呆然と見遣った。
見た目に遜色はない。少なくとも人間でいるときは、腕の太さも長さも事故の前と何ら変わっていない。しかし力を籠めようとすると、排気量の大きすぎる単車のように、それはまるで自分のものではないかのように制動が利かなくなる。
それはオルフェノク化の果実であり、副作用でもあった。
そんなに旨い話ばっかりなわけ、ねえってことか。
レオは長く息を吐き、もう一度肩をぐるぐると回した。肩甲骨が剥がれる感触が、ひどく懐かしい。
嬉しさに自然と緩まる頬を、元に戻そうと苦心していた時。
「あれ? もしかして、周君? おーい!」
ボールを見つけることを諦め手ぶらで戻ってきた梨子が、堤の上に向けて大きく手を振る。
その先には、信じられないものを見たように呆然と立ち竦む周の姿があった。
Next Φ’s