ほんのりまろびね

パワプロクンポケット(パワポケ)の二次創作小説(SS)をぼちぼち書いてます。

パワプロクンポケットΦ 5話『JUST PITCH'n MORE』(パワポケ7異聞)

梨子の空き缶。それはポケ7永遠の謎。

第1章は次回で最後です。

 

 

前の話はコチラ。

 

marobine105.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 薄手の白いカーテンの向こうから、雨が窓を叩く音が響く。

 周は窓際に置かれた机に頬杖を突きながら、ぼんやりとその音を聞いていた。手元には一冊の本も無ければ筆記具も無い。起きてから、何をするでもなく、こうして無為な時間を過ごす。読みたい本も、見たいテレビも、やりたいゲームも無い。整理整頓の行き届いた広い机の片隅にぽつんと置かれた携帯電話には多くのメールアドレスや電話番号が登録されているが、誰一人として連絡を取りたいと思う人もいない。正確に言えば、昨日まではいたのだ。それももう、いなくなってしまった。

 夜の静寂に一筋の弧を描く白球は、流れ星のように見えた。古河レオが投じたその一球は外灯に照らされ煌めきながら、儚く闇夜に溶ける。それは彼らしく武骨で大胆で、そして何よりも力強い復活の咆哮。流れ星が消えるのと共に、自身の浅ましい願いも露と消えた。

『今更こっちに戻って来られても、もう笑えないからな』

 レオに告げた最後の言葉が耳鳴りのように残り続けている。

 苦境に歯を食いしばって立ち向かうことも、そこから這い上がった友人の背中を押してやることもできず、あまつさえ呪詛を吐きつける。

 どこまで惨めなのか。

 どこまで情けないのか。

 何もかもが嫌になったというのに、投げ出すものすら見当たらない。

 いっそ、こんな脆い腕など、千切れてしまっていれば完全に諦めもついたのに。

 組んだ両腕を枕代わりに机に突っ伏す。真っ暗になった視界の中で途切れなく続く雨音に耳を委ねながら、全てが夢だったらいいのにと、少年は固く目を閉じ祈った。

 一定の静謐さを保っていたエレジーに、コツリという異質な音が混ざったのは、その直後だった。続けて、片流れの屋根を何かがカラカラと音を立てて転がる。風が出てきたのだろうか、と考えていると、今度は甲高い金属音が鳴り響いた。

 窓だ。何かが窓に当たっている。

 身を起こしカーテンを引く。降りしきる雨の中、門の前にビニール傘の花がひとつ開いている。傘の主はこちらをじっと凝視しており、周と目が合った瞬間、にこりと嬉しそうに微笑んだ。

「石川……さん?」

 元クラスメイトの名前を呟くと、周は慌てて部屋から飛び出した。

 

 

 

「やー、気付いてもらえて良かったよ。周君は見えてるのに、チャイム鳴らしても誰も出てくれないからさ」

 濡れた袖口や淡いデニムスカートの裾をハンカチで拭いながら、梨子は椅子にどかりと座り込む。周は記憶の中の大人しげな印象との乖離に小首を傾げつつベッドに腰掛けた。

「あ……ごめん。ウチ、共働きだからさ。この時間は、俺しかいないんだ。ちょっとぼーっとしてて、気付かなかった」

「いいよ、いいよ。気付かれるまで投げるつもりだったけど、二発で気付いてくれたし。それにしても久しぶりだね。背ぇ伸びた?」

 屈託なく白い歯を見せ、少女は緑茶の缶を二本、どこからともなく差し出す。周がぼんやりとしていると、大丈夫、投げたのは空き缶だから、と聞いてもいない注釈を入れ、ぐいと少年の胸元にそれを押し付けた。そういうことじゃないんだけど、と口籠もる周を余所に少女は自身の緑茶のプルタブを軽快な音と共に引き上げ、ごくりと喉を鳴らした。釈然としないものを感じつつ、礼を述べ周もそれに倣う。清涼感が喉を通りすぎると、少しだけ頭の中もすっきりとしたように思えた。

 そういえば、朝から何も口にしていなかったな。

 周はひと息に缶の半分ほどを飲み干し、指先で口元を拭った。

「どうやって、ウチの場所を?」

「んー? 連絡網だよ。レオの家にあったから」

 レオの名が出た瞬間、どろりとした澱みが胸の裡に溢れる。

 そういえばあの日、石川さんも見たような気がする。レオの一投に脳髄を殴り飛ばされたような衝撃を受けた所為でほとんど認識していなかったことを、周は思い出した。

「でも、周君が珍しい名字で良かったよ。住所なんて大体の位置しか覚えないじゃん? 田中とか鈴木だったら確実に見つけられなかったからねー」

「ああ……確かに、そうかもね」

 そこでふと、疑問が浮かんだ。一学期のみとはいえ同じクラスだったのだから、梨子も連絡網は持っているではないか。そもそも、在学中に梨子とレオが仲が良かったところはおろか、会話をしていたところすら見たことがない。

 失礼かとも思ったため、極めて平静なトーンを装い、周は訊ねた。

「石川さんとレオって、付き合ってるの?」

 その瞬間、中空に緑茶の飛沫が舞った。口から唾なのか緑茶なのか判別できない汁を漏らしながら咳き込む梨子に、慌ててティッシュを差し出す。しばらくして人心地ついた少女は、極めてストレートに、怒気を言葉に滲ませながら叫んだ。

「やっ、やめてよ! あんなバカでガサツで無愛想なヤツ、あり得ないし!」

「ご、ごめん。この前も一緒にいたし、レオの家の連絡網を見たって言うから、そうなのかなって」

「あー、ええっと、それは……ちょっと色々事情があってさ。少しの間だけ、一緒に住んでるんだよね。あっ、ていうか聞いてよ周君! 昨日もレオのヤツ、着替え覗こうとしてきたんだよ! 『オレはランニングから戻ったら汗を流すって決めてんだよ。大体お前、何分風呂入る気だ。水道代払え』って、何様って感じじゃない? まずゴメンナサイの一言も言えないのかっての。ホンット、デリカシーってもんがないよね。周君もそう思うでしょ?」

 妙に特徴を捉えている口真似を聞いていると、どうやら少女の言う事は本当らしいと周にも呑み込めた。事情とやらも気になるが、そこに突っ込むと変な方向に飛び火し兼ねない。周が黙って首をかくかくと縦に振っていると、梨子の堪忍袋が空気の抜けた風船のように萎んでいくのが目に見えて分かった。

「あ……ご、ゴメン。思い出したら、ムカついてきちゃって」

「いや、いいよ。なんか、レオがゴメン。俺が言うことじゃないけど」

 少年の苦笑いを見て、梨子はクスリと頬を緩ませた。

「変わってないね、周君。覚えてる? 入学式の日、友達があたしの机蹴ったのに、周君が謝ってくれたの。その時と同じ顔してるよ」

「ああ……あったね、そんなこと」

 『三中トライアングル』だったっけか。名前が思い出せない三人の顔を思い浮かべながら、周は照れ臭くなって顎の下を撫でた。

「男の子ってみんなそうなのかなー。周君の爪の垢、ちょっと貰っていい? レオのお茶に混ぜとくからさ」

 冗談のつもりだったのだろう。梨子は口にした直後、目の前の少年が困ったように曖昧に微笑むに留まるのを見て、思わず視線を逸らした。

 そして椅子に腰かけ直すと、周の目を正面から覗き込んだ。

「ねえ。周君とレオって、友達だよね」

 やっぱり、そう来たか。

 レオの名前が少女の口から発せられた時点で、周には彼女がここに来た理由が、なんとなく分かっていた。

 さあさあとさざめく雨音に静寂を任せていると、それも承知の上なのか、梨子はそのまま話を続ける。

「昨日レオ、珍しく……って言っても、知り合ったのついこの前なんだけど。とにかく同じ人とは思えないくらい落ち込んでてさ。ちょっとゴタゴタがあった時は元気だったんだけど、その後はすぐ黙り込んじゃうの。何があったのか訊いても、周君と何かあった、ってことしか分かんないし。周君なら、教えてくれるかなって」

 少女の言葉は不明瞭な部分が多い。適当にはぐらかしてしまおうかという捨て鉢な考えが脳裏を過ぎる。

 だが。

 周はちらりと窓を濡らす雨を見た。雨脚は突発的に強まり、驟雨の様相を呈している。

「面白くない話だけど、聞いてもらってもいいかな」

 どうせ、何もやることなんてないんだ。

 梨子が小さく頷くのを皮切りに、周は記憶を呼び起こすように天井を見つめた。

「自分で言うのもどうかと思うけど、俺は昔から何でも卒なくできるタイプだったんだ。勉強も運動も、予習や練習なんてしなくても普通以上にこなせる。才能があるヤツには勝てなくても、それはそれで仕方がない。努力して惨めに負けるくらいなら、中の上さえキープできればいいってね。だから、レオみたいなヤツは……正直、鬱陶しかった。知ってるかい。アイツ、練習が終わった後も投げ込みとかランニングとかずっとして、監督によく怒られてたんだ。何かに特別優れているわけでもないのに、バカみたいに努力してさ。二人とも、この三年じゃ復帰できないって言われてんのに、それでも努力して、あそこまで回復させるなんて、本当にどうかしてるよ。

 昨日はさ、野球部の先輩とレオが話してるところを、偶然見ちゃったんだ。内容は聞いてないけど、見た瞬間に、自分がどうしようもなく惨めになって……レオもレオだよ。俺なんて放っておけばいいのに、わざわざ追ってきたりするからさ。思ってたことをそのまま、ぶつけちゃったんだ。全部、自分のツケが回ってきただけなのにな」

 周は軽く息を吐き、寂しそうに頬を緩めた。

「さっきの答えだけど。俺は、レオの友達なんかじゃないよ。ただ、傷を舐め合う仲間が欲しかっただけさ。アイツにはそんなもの、いらなかったのにね」

 言葉にしてみると、自分がいかに脆くちっぽけなのかがよく分かる。黙りこくっている梨子も、おそらく同じことを考えているだろう。沈黙に耐えることができず、周は首を垂れた。

 部屋の中には、雨音だけが響く。

 梨子は手元の緑茶をぐいと飲み干し、目尻を緩やかに下げた。

「レオには、勝手なこと言うなって怒られるかもしんないけどさ。あたしは、そうは思わないよ。周君もレオも、お互いを意識してたんでしょ。それってライバルじゃん。友達とは、ちょっと違うのかもしれないけど」

「レオは、俺のことなんて意識してないと思うけど」

「意識もしてない人のこと、あんなに気にしないよ。あの、バカでガサツで無愛想でスケベなレオはさ」

「……なんか、一つ増えてない?」

 私怨の籠った少女の愚痴に、周は思わず笑みを零した。

「――でも、その感じなら、あたしの出番はここまでだね」

「えっ?」

 おもむろに立ち上がった梨子を見上げる。

「レオんち、行こ。二人が話さないと、二人ともこのままだよ」

 差し伸ばされた手をじっと見つめる。

 梨子は言った。二人とも、と。

 まだ立ち上がれるのだろうか。

 あの、不機嫌そうに鼻を鳴らす少年と共に。

 おずおずと差し出した右手は、向日葵のような笑顔と共に力強く握り返される。

 雨は依然として降り続いていたが、一時の勢いはすっかり衰えている。それは走れば弾き飛ばせそうにも思えた。

 

 

 

Φ

 

 

 

 タオルが鋭く空を切る。これで100回目だが、肩に痛みは無い。

 レオは額にかいた汗を拭い、肩を回しながらごろりと横になった。視界に入るのは天井と、オフィスで使うパーテーション。昨晩、春香を家まで送り自宅へ戻ってきたところ玄関前に放置されていたものだ。どうやら、梨子がバイト先から拝借したらしい。ただでさえ狭い部屋が、半分になった。どういう神経してんだと、レオは忌々しげにプラスチック板を軽く叩いた。梨子は春香にも同居を勧めていたようだが、レオが不満を述べるよりも早く少女に辞去を申し入れられている。

 半信半疑ではあったものの、どうやらブラウン登場によって刻み込まれた怪我は完全に癒えたらしいと、今なら確信できる。実際にボールを握っていないので感覚に関しては不安が残るが、それでも一歩どころか十歩も二十歩も前進している。雨さえ降らなければ、河川敷のグラウンドにでも行ったというのに。仰向けのまま、黄ばんだカーテン越しに雨雲を睨んだ。

 もっとも、身体は万全かもしれないが、心がついていかない。

 故障部分が直ったはいいものの、ガソリンタンクは依然として空のままだ。

 思えばこの数日、色んなことがあり過ぎた。

 オルフェノクとして復活し、ヒーローと戦い、同族と戦い、梨子と再会し、黒野たちと出会い、ファイズとやらになれという申し出を断り、怪我が治ったことを知り、梨子が家に転がり込み、駆の妄想話を聞き、東と七瀬に復帰を勧められ、周に決別され、また同族と戦って少女を救い。

 オレは一体、何がしたいんだろうな――。

 目を瞑ると、様々な人が語り掛けてくる。ここ数日、ずっとそうだ。

『――まさかとは思ってたけど、本当に生きてるとはな』

『古河君、キミは……いいヤツだな』

『古河っていったバッタね。会わせたい人がいるでバッタ』

『この通りだ。おこがましいことだとは重々承知しているが、力を貸してはくれまいか』

『テメエが自分を人間だと思うなら、テメエは人間だと思うぜ』

『でも、治ったんだよな。おめでとう』

『君は、野球を続けるつもりは……あるのかな』

『どうだい、レオ。さぞかし良い気分なんだろう? 怪我が治って大好きな野球ができるってのはさ』

『助けて頂いて、ありがとうございます!』

『素直になればいいのに。意地張って得することなんてひとつもないよ』

 走馬燈はいつも、膨れっ面の梨子で締めくくられる。

 そんなこと、分かってんだよ。

 今朝起きたときには既にその姿を消していた少女へと、レオは舌を出す。

 自分のしたいこと。そんなこと、一つしかない。

 マウンドに、もう一度立つ。オルフェノクだろうと人間だろうと、願いはそれだけだ。

 それに、この力が役に立つというのなら、黒野の頼みも吝かではない。

 野球部への復帰、ファイズへの変身。いずれをも拒むのは、純粋な恐怖だ。

 グレー、スラッグオルフェノク、バタフライオルフェノク。豹への変化のきっかけは、いずれも『やらなければ、やられる』というシンプルな生存本能だ。その一言を正義の御旗とばかりに振りかざし、生態系を引っ繰り返しかねないほどのオルフェノクの力に身を任せる。

 その事実が、レオには堪らなく恐ろしく思えた。

 東と七瀬の、人間としての古河レオへの期待。

 黒野と梨子の、オルフェノクとしての古河レオへの希望。

 どちらにも応えられない自分は、果たして何者なんだろうか。

 弾かれるように、上体を起こす。良くない思考だ。どうせ考えていても、結論が出ないことくらい分かっているのに。

 身体を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。

 もう一度。タオルを右手へと押し込める。

 間延びしたチャイムの音が鳴ったのは、その時だった。

 

 

 

Φ

 

 

 

「お前……」

「よう、レオ。久しぶり……ってことも、ないよな」

 玄関の戸を開けた先には、気まずそうに視線を逸らす周の姿があった。

 髪から滴る水滴が地面に落ちる。見ると、髪どころか全身が濡れそぼっている。

「お前、傘差さなかったのか」

「このくらいなら、大丈夫かと思ったんだけど……そうでもなかったな」

 苦笑いを浮かべる周の息は荒い。オリーブ色のチノパンは、足元のところどころに泥が跳ね水玉模様を染みつかせている。

「どうして、ウチに」

「ん……まあ、ちょっと、話をね。実はさっき、石川さんがウチに来てさ。本人はバイトがあるからって、行っちゃったんだけど」

「リコが? アイツ……」

 姿が見えないと思ったら、そんなことをしていたのか。梨子のしたり顔が脳裏に浮かび、レオは臍を噛んだ。

「上がれよ。タオル、取ってきてやる」

 どんな顔をすればいいのか分からず、レオは踵を返す。

 背中からは扉が閉まる音と、ありがとう、という小さなつぶやきが聞こえた。

 

 

 

 六畳の狭い和室を両断するパーテーションに目を丸める周の前に、レオはわざとどかりと音を立てて座り込んだ。水分を拭き取られ無造作に跳ねる髪を撫でつけながら、少年がくすりと微笑む。

「一緒に住んでるとは聞いてたけど、ホントだったんだな」

「言っとくけど、アイツのことなんてなんっとも思ってねえからな」

「ああ。それは、石川さんも言ってた」

 いい根性してるじゃねえか、アイツ。全く性的な意味を伴わない今夜の勝負へと、レオは胸裏の炎を燃やした。

「昨日のことは、ごめん。一方的に言いたいことだけ言って、悪かった」

 口をへの字に曲げ腕組みをするレオをどこか懐かしげに見つめていた周の頭が、不意に下がる。

「俺はさ、ずっとお前が羨ましかったんだ。バカみたいにひたむきで、真っ直ぐで。羨ましくて……ウザかった。俺が花丸を選んだのは二つ理由があるんだけど、一つはあそこならトップが張れると思っていたからなんだ。県立ならそんな本気のヤツなんていないだろうし、特に実績も無かったからね。レオを野球部で見たときはビックリしたし、恨んだよ。なんでこんなヤツと同じチームなんだってね。努力して一番になればいいだけなんだけど、俺にはそんな根性は無いし。だから、レオが怪我をしたときは……正直、喜んだよ。その時の俺はもう、トップになることなんかよりも、ただ自分のプライドを守ることの方が大事だったんだ。

 レオの怪我が治ったって知ったときは驚いたけど、それ以上に俺自身に失望したよ。同じ立場になっても、レオは何も諦めてなんかいなかったし、俺は俺と同じ高さに落ちてきたレオと一緒に過ごすことで自分を慰めようとしかしなかった。そう理解した瞬間、怒りが抑えきれなくなったんだ。それをお前にぶつけるなんて、お門違いも甚だしいよな。本当に、悪かった。許してくれとは、言わない」

 胸の奥に、何かが詰まっていく。周の深憂に満ちた顔は、どこかで見たことがある。すぐに喫茶店で見た、庇護を求める子供のような駆の沈痛な面持ちが思い起こされた。

 周も、駆も、恐らくは自分も。みんな、どこか似ている。憂いや悔恨を抱きつつ、乗り越えることを、前を向いて生きることを願っていても、同じ円環の中で同じ軌跡を描き続けてしまう。這い上がることも、足を着くこともできない沼。その無力さはもしかしたら、人としての弱さなのかもしれない。

 それでも言葉として、心を通じて、その弱さを分かち合うことができれば。もうひと漕ぎ、藻掻く力になるのだろう。たとえそれが、特効薬のように劇的な変化がなくとも、人はその僅かな糧を燃料にして、果ての見えない沼を泳いでいける。

 少年は、そう信じたかった。

『素直になればいいのに。意地張って得することなんてひとつもないよ』

 お前のお陰かもしれないな。

 レオは瞳を閉じ、厄介な同居人に微笑みかけた。

 周はひとつ大きく息を吐くと、それじゃ、とわざとらしく勢い良く切り出した。

「これで、俺の話は終わり。次は、レオの番だ」

「……オレの?」

「ああ。昨日、俺に何か話そうとしてただろ。聞かせてくれよ」

 夕暮れの街並みで話そうとしたこと。今なら、言葉にできる。

「言っても、多分信じられねえぞ」

「なんだよ、それ。信じるかどうかは、聞いてから判断するよ」

 挑発するような周の言葉に、レオは頬を緩ませた。

 そして、少年は話し始めた。

 オルフェノクという人外の存在として生き返ったこと。

 その副作用として、肩の怪我が恐らく完治したこと。

 そして代償として、身体と感覚に大きなズレが生じてしまっていること。

 人間とオルフェノクという種族の狭間で、どう生きればいいのか分からないこと。

 この数日で体験したほぼ全てのことを、周は全て黙って聞いていた。

 口元に手を当て眉根に皺を寄せていた周は、話が終わってしばらくしてから、険しい面持ちを崩さぬままレオに訊ねた。

「その、オルフェノクって姿。見せては……くれないよな」

「……悪い。できれば、見せたくねえ」

 全て話せたとはいえ、やはりオルフェノクになるのには抵抗がある。

「だよな。いいよ、無理にとは言わない」

「やっぱり、信じられねえよな」

「――いや、信じるよ」

 周は、さも当然とばかりに、さらりと言う。

 あまりにもあっさりとした返答であったため、レオは二の句を継ぐことができず、ただ驚きに丸まった目で少年を凝視した。

「なんだよ、その目。このひと月くらいはずっと一緒にいたんだ。こんな雰囲気で、このタイミングで、お前が嘘をつけるようなヤツじゃないくらい、俺にだって分かるさ」

「……それって、バカにしてんのか?」

「どうだろう。まあ、レオは正直なヤツだからね。嘘をつくメリットも考えられないし。オルフェノク、かぁ……怪我が治るなら、ってのはレオに失礼だろうけど。やっぱりちょっと、羨ましいな」

「そんなに良いもんじゃねえよ。変なヤツは部屋に住み着くし、下手したらナメクジだぞ、ナメクジ」

「えっ、なんだよそれ」

 示し合わせたように、二人で吹き出す。両肩に乗っていた重荷が、するすると抜け落ちていくように感じられた。周とレオはしばらくの間、そうして何を言うでもなくケタケタと笑い合っていた。

「いいんじゃないかな。野球部、戻っても」

 目の端にうっすらと浮かんだ人差し指で拭いながら、周が切り出す。レオは首の後ろを掻きながら、曖昧に視線を逸らした。

「いや、でも……」

「お前らしくないなあ。オルフェノクだかなんだか知らないけど、結局はレオの力なんだろ? 制御できるようになったらいいだけの話じゃないか。何も身についてないくせに先の心配をするなんて、つまんないこと言うなよ。そんなの、俺が恨むくらい憧れたレオのセリフじゃないって。きっと神様が見ててくれたんだろ、レオが一人で頑張ってるのを。だから、もう一回生き返って野球やれよって言ってくれたんじゃないか。ただ、やりたいならお前らしくバカみたいに頑張れよって。どうだ。これならやる気になるだろ?」

 得心顔で人差し指を立てる少年をレオは口を半開きにしたまま見つめる。

 ふと顔を逸らした周は感嘆の吐息を漏らすと、何かを思案するように顎に手を当てた。

「なあ、レオ。グローブ、二つあるよな?」

「え? ああ……あるけど、お前」

「キャッチボールしようぜ。雨も上がったみたいだし」

 周が親指で示す先を見る。窓の外は、眩いばかりの橙色に包まれている。

「いいけど、右しかねえぞ」

「だからいいんだよ。今は左は使えないからな」

 首を捻るレオに、周は悪戯っぽくウインクをして白い歯を見せた。

 

 

 

Φ

 

 

 

 頭上へと腕を大きく振り被るワインドアップ。近年では機動力野球の台頭により、隙が大きくバランスも取りにくいワインドアップは減少傾向にあったが、それでもレオはこのフォームを愛用している。身体を一本の線にしたときに訪れる、まるで時間そのものが静止したかのような一瞬がこの上なく好きだったのだ。

 屈んだ周のグローブに吸い込まれるひと筋。イメージではそのはずだったのだが、白球は少年の頭上を遥か高く越え、泥濘の残る河川敷の草むらへと消えていった。

「どこ投げてんだよ、ヘタクソ! さっきから、何回走らせるんだ!」

「今のはお前が全力で投げろって言ったからだろ! 黙って走れ!」

 野次を飛ばしながらボールを追う周の頭上で、花丸野球部の帽子が揺れる。周が自分の家から持ってきたものだ。最初から、こうするつもりだったのかもしれない。サイズが大きいのか度々手で押さえながら戻ってくる様子を眺めながら、レオは呆れたように笑みを漏らした。

 右腕からサイドスローで放たれる一球が、レオのグラブに乾いた音を立てる。しなやかなフォロースルーをたっぷりと披露した周が満足げに鼻を鳴らす。

「今のはストライクだろ?」

「お前、右でも結構いけんじゃねえか」

「まあね。器用さだけでここまでやってきただけあるだろ? 誰かさんと違って」

「嫌味か、クソ」

 語気とは裏腹の緩やかな一球を放る。力を抜いた球でも高く逸れたが、今度は周がジャンプしてキャッチした。これでもダメか。思わず舌打ちが漏れたものの、不思議と悪い気分はしない。

 感触を確かめるようにボールを手の中でくるくると弄んでいた周は、夕暮れの空を見上げ、一度大きく首を縦に振った。

「なあ、レオ。俺もさ、野球部戻るよ。やっぱり俺、野球が好きみたいだ」

「いいじゃねえか。ブラウンもシルバーも、オレたちでベンチにしてやろうぜ」

「いいな、それ。最高だ!」

 投げ返された一球は、今日一番の快音を河川敷に響かせた。

 掌に伝わる痺れに、思わず笑みが零れる。

「でも、先発のマウンドは譲る気はねえからな」

「オレだって、もう負ける気は無いぜ」

「どうかな。お前、スタミナねえからなぁ。ランニング、付き合ってやるよ」

「豹のペースは勘弁してくれよ。甲子園の前に倒れちまう」

 甲子園。目の前の一球、一試合しか意識してこなかったレオにとって、それは現実味を帯びない絵空事でしかなく、部員たちが挨拶のように交わす『目指せ甲子園』という合言葉も虚ろな響きにしか聞こえなかった。しかし今その言葉を聞いた瞬間、噎せ返るような熱気に包まれた満員のスタンドと、その中央で主を待つ小高いマウンドが、はっきりと網膜に焼き付くのを感じた。足元から吹き上げる熱風に目を細める。再び目を開いたとき、そこは返球を待つ少年が佇む河川敷に戻っていた。

 球児たちの夢の場所であり、並大抵の実力や運では手が届かないことも理解している。それでも周と一緒に前に進めるなら、決して夢物語ではない。歯が浮きそうな青臭い理想も、今なら信じられるような気がした。

「まあ、先発は譲る気ねえけどよ。お前が控えてくれてるなら、全力で行けるかもな」

「ああ、それは同感。俺もレオなら、安心して後を託せる」

 投球モーションに入っていたレオは、急に照れ臭くなって髪を掻き毟る。ボークだろ、という野次から逃げるように視線を斜陽へと向けた。

「ありがとな。相棒」

 帽子を目深に被り直す少年から零れた呟きを、オルフェノクの聴覚が拾い取る。レオは聞こえなかった振りをして、白球を放った。

「そういや、レオはどうして花丸に来たんだ?」

 凡庸な県立高校を選んだことに深い理由なんて無い。私立に行くような金は無いし、強豪校からの推薦が来るほどの成績も残していない。

 だが、強いて言うなら。

「ウチは髪形が自由だからな」

「ああ、じゃあ俺と一緒だ。坊主にするの、嫌だったんだよね」

「お前はお山の大将になりたかったからだろ」

「酷い言い様だなぁ。理由は二つある、って言っただろ?」

 夕焼けが街並みに沈み水銀灯の薄暗い照明がつき始めてからも、河川敷のグラウンドには乾いたグラブの音と、二人の少年の喚声が響いていた。

 

 

 

Φ

 

 

 

 暗渠からぬるりとその影が姿を見せたのは、右腕が乳酸ですっかり張った頃だった。

 ヘラジカの特性を備えたムースオルフェノクと、シロペリカンの特性を備えたペリカンオルフェノク。初めて見る二体同時の異形の出現に、頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。まだ異変に気付いていない少年へと、レオは叫んだ。

「周っ! 逃げろ!」

「えっ? いきなり、何を」

 周囲を見渡した周はよろめくように一歩一歩近付くオルフェノクを捉えると、驚愕に瞳を見開き短い悲鳴を上げる。そしてレオは、さらにその背後から夜闇に溶けるような藍色の戦士が現れるのを見た。

「寒色七人衆が一人! 策謀のインデゴ見参! オルフェノク退治に来てやったぜえ」

 灰色の戦士の威圧的な立ち姿が脳裏を過ぎる。グレーが狙ったのは、何らかの秘密を目撃したレオであり、オルフェノクになったレオだ。ヒーローにとってオルフェノクは狩りの対象でしかない。

 ここは、アイツに任せるのが賢明なのか。

 立ち竦んだままの周に号令を送ろうとしたとき、レオの耳は、到底信じられないインデゴの呟きを捉える。

「って、あれ? 二人いるじゃねえか……聞いてねえぞお。おい、オルフェノクはどっちだ? 正直に答えたら、人間の方は見逃してやるよ」

 ヒーローは二体の前に踊り出ると、両手を広げオルフェノクの進路を防ぐ。それはまるで、飼い犬に待機を指示する主人のように見えた。

 人間の方は見逃してやる。

 その意味を瞬時に察したレオは大地を蹴り飛ばし叫んだ。

「周っ! 何してんだ!」

「おっ。てことは、お前が豹のオルフェノクだな。よし、アイツだ――って、おいおい!」

 その時、『待て』に耐え切れなかった二体のオルフェノクが、主人の静止を振り切り走り出した。ムースオルフェノクはレオへ。そして、ペリカンオルフェノクは周へ。

 猛然と突進してくるヘラジカを前転で避ける。ぬかるんだ地面に足を取られ受け身が崩れる。起き上がったレオは、ペリカンの鋭利な嘴が、尻餅をついた少年の胸目掛けて振り下ろされる光景を見た。

「やめろおっ!」

 豹の屈強な両脚が地面を抉る。間に合え。二体の距離は瞬きの間も無く縮まる。弓なりに開かれた胸筋を収縮する。十本の爪が閃く。皮を断ち、肉を裂く感触。夜気を断ち切る豹の爪が、ペリカンオルフェノクの身体を腹から両断した。

 周。

 これ以上ないほどに見開かれた少年の瞳がレオを捉える。

 間に合った。

 小さく息をついた豹は、薄く開かれた周の口から、鮮血がごぶりと吐き出されるのを見た。

「周――?」

 絶命したはずのペリカンオルフェノクの嘴は、既に少年の胸の中央に大きな穴を開けていた。シャツにじわじわと紅い染みが拡がっていく。ペリカンが完全に灰化するのと同時に、周は驚愕の表情を張り付けたまま仰向けに倒れた。

「あーあ。オルフェノクってのはどうして命令を聞いてくれないんだろうなあ。人間の方は洗脳で済ましてやろうと思ってたのによお」

 誰かが零した不満。もはやそれは、レオの耳には届いていない。

 レオは、かろうじで保っていた理性を放棄した。

 奇怪な唸り声を上げ、頭上から伸びる一対の角を向け突進してくるムースオルフェノク。豹は低く身を屈めると独楽のように身体を回転させる。角の切っ先が脇腹に食い込む。両脚の爪を地面に食い込ませその場に留まると、両腕を遠心力をそのままに上から振り抜いた。背中の固い表皮に爪が噛みつく。爪の根元に痛みが走ったが、吼え声と共にさらに押し込む。ヘラジカの脇腹の肉が、ごそりとこそげ落ちた。悲鳴は誰のものか。構わず、左に開いた両腕を一文字に薙いだ。首の肉に刺さる十本の刃。丹田に力を籠め、ヘラジカの首を千切れ飛ばした。指から腕へ走り抜ける激痛。何本か爪を持っていかれたらしいが、知ったことではない。

「まっ、マジかよ。聞いてねえぞお、こんなに強いなんて」

 天を貫く咆哮。右腕の手の甲から腕に沿うように生えた刃を次の獲物に向けて構える。藍色の戦士は僅かに身じろぎしたが、すぐに戦士の矜持を思い起こし身構えた。

「あれ――?」

 その時には既に、目の前から豹の姿は消えていた。

 上空から迫る気配。弾かれるように見上げた戦士のマスク。何もかもが遅すぎる。咄嗟に頭上で交差させた両腕を、レオパルトオルフェノクの刃が刺し貫いた。響き渡る戦士の悲鳴。豹は刃を抜き取ると、爪の折れた拳を握り込んだ。殴る。殴る。ただひたすらに殴り続ける。両腕が使用不可能になったインデゴは、滂沱のような拳の連打を抵抗もなく浴び続けた。もはや、反撃の意思すら消えかかろうとしていたとき。右腕の一閃が、戦士の胸元を貫き通した。

「ウソ、だろ……俺は、寒色、七人衆の、ひとり、なのに……聞いて、ねえぞ……お」

 うわ言のように呪詛を呟く戦士は、やがてその身体を灰に変えていった。

 豹は灰に塗れた腕を大きく振るい、周囲をエメラルドの瞳で睥睨する。

 次だ。次はどいつだ。

 低い吼え声が周囲の空気をびりびりと震わせる。逆関節の足に踏み抜ぬかれた雑草が音も無く潰れた。

 視界に影が映り込む。土手の上から華奢な人間が駆け下りてくる。

「レオっ! 周君!」

 次はあいつか。

 土塊を辺りに弾き飛ばし跳躍。月を背負う豹は、欠けた爪を振り下ろさんと両手でXの文字を象る。その時、一筋の光が頭部目掛けて飛来した。造作もなく跳ね飛ばす。甲高い金属音が耳に響いたとき、レオパルトオルフェノクは何かを思い出した。

 だらりと両腕を下げ、着地。棒立ちで虚空を見つめる豹の頬を、少女は力強く叩いた。

「バカッ! 何してんの、レオ! アンタは人間でしょ!」

 リコ。

 そうだ。オレは、何を――。

 その瞬間、人間の肢体へと姿を戻したレオは、反射的に周の元へと駆け寄った。

「周!」

 呼びかけに、少年の虚ろな瞳が緩やかな弧を描く。口元を鮮血で汚した周は、頬を痙攣させながら、なんとか笑顔を作ろうと試みていた。

「はは……悪い、やられちまった……」

「バカ野郎! 喋んじゃねえ!」

「見せて、もらったよ……カッコいい……じゃん」

 胸の奥がきつく締め付けられる。

 周のズボンのポケットから携帯電話を引っ張り出す。まだ、助かるかもしれない。だがその願いを嘲笑うかのように、血に塗れた両手は携帯電話をするりと滑り落とす。

「待ってろ、今、今救急車を」

「レオ……俺の、夢、きいて……くれるか……?」

「喋んなって言ってんだろ!」

 レオの横では少女が救急を求める電話を繋いでいる。血と体液でぐしょぐしょになった周の身体をどうすればいいか分からず、レオはただ無意味に胸の中央に空いた空洞に手を当てがった。掌を通じて伝わる鼓動は、気を抜けば見失ってしまいそうなほどに弱い。

「満いんの、こう子園の……決しょうで……」

 レオの手の甲に、少年の両手が重なる。滑りそうになるそれを、レオは必死の思いで握り締めた。

「おれ、と……お前、で、なげるんだ……」

「ああ! そうだよ。投げるんだろ、二人で!」

「や……そく、して、くれる……か」

 今にも閉じそうな少年の瞳。砕かんばかりに歯を食いしばりながら、レオはかろうじで首を縦に動かした。

「よ……った……それ……で……そ……あ……ぼう、だ」

 微笑んだ少年の目尻から、すうと光の筋が流れ落ちる。

 それきり少年は、何度その名を呼んでも何も喋らなくなった。

 握り締めていた両手が灰化し、レオは地面に這いつくばる。

 どうして。どうしてなんだ。

 河川敷に少年の名前が木霊する。

 灰の中に残った帽子の上に、涙が零れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Next Φ's

 

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