ほんのりまろびね

パワプロクンポケット(パワポケ)の二次創作小説(SS)をぼちぼち書いてます。

エイエンノセカイ

(初出:2008年)

 

令和ですね。新時代もよろしくお願いいたします。

そんな慶事の日にとんでもないSSを…!

 


 私には、大好きな人がいます。
 名前は八雲陽さん。私のお兄ちゃん。私を、家族として求めてくれたひと。
 本音を言えば私は、あなたの隣で恋人として笑っていたかったです。ですが、それは私には分不相応な願い。兄と妹という関係でも、恵まれすぎているくらいの幸せです。
 だから、たとえこの先、陽さんが私を、妹としてしか見てくれなくても。
 私は永遠に、あなたの隣にいられるのであれば、それでも全然構わないのです。

 

 アカネの朝は、いつもローテンションな鳩さんと、朝から元気な雀さんの鳴き声でスタートします。『ほーっほ、ほーほー』っていう鳴き声はフクロウさんだと思われがちですが、キジバトという鳩さんなんですよ。幸運を呼ぶ鳥とも呼ばれているそうでアカネも可愛い見た目は好きなのですが、アカネハウスにフンをすることもあるので愛憎相半ばといったところです。
 公園独特のひんやりとした空気と落ち着いた静寂は、目覚めの気分をとても健やかにしてくれます。公園の生活というものは、住む前に想像していたよりよっぽど快適で清々しいものでした。まさに、住めば都、という言葉通りなのです。
 ですが、残念ながらアカネにはそんな朝を堪能する暇は無いのです。早く登校して、授業が始まる前に水泳部のシャワーをお借りし体をさっぱりさせなくてはいけません。朝シャンです。朝の教室、まだ少し濡れそぼった髪のアカネ――どこかちょっと背徳的です。チョイ悪です。でも、盗んだバイクで走りだすのは立派な犯罪です。
 昨晩のうちに用意しておいた朝ご飯をお腹に流し込み、すぐに制服に着替えて出発です。もちろん、アカネハウスを出るときに戸締りは忘れません。『最近の世の中は物騒なんだぞ』と、陽さんが眉を顰めていましたからね。安定した収入が望めるようになったら、セキュリティ会社に申請をしなきゃいけません。
 走り抜ける通学路、その途中でアカネはいつもふと足を止めます。ホッパーズ寮です。試合と練習でお疲れの陽さんは、カーテンを閉めずに寝てしまうことが多いため、朝早く駆けつければ寝顔拝見のチャンスとなるのです。部屋は一階ですが、建物を囲む塀はちょっとだけ高いので、拝見するにはちょっとだけ手間がかかります。ですが、そのくらいの障害でこのドキドキは抑えられません! 近くにあったゴミ箱を足場代わりに、塀の上からそっと敷地内を覗き込むと――すぐ目の前に、陽さんがいました。どうやら朝からお庭で素振りをしていたようです。
「アカネ? 何やってんだ、こんな朝早くに」
「わ、わわわっ!!」
「うわ、危ない!」
 慌てたので、塀の向こうへとバランスを崩してしまいました! 重力の法則に従い、地面に落ちるアカネの体――のはずが、一向に地面が迫ってきません。恐る恐る、固く瞑った両目を開くと、アカネの細身を抱え込む陽さんの物凄い表情が目に入りました。さすがは野球選手さん、ナイスなスライディングキャッチです。
「セーフだな……大丈夫か、アカネ」
「はいです! 頼れるお兄さんのお陰で、掠り傷一つありません! ありがとうございます、陽さん!」
「それならいいけどさ、それならね――よっと」
 陽さんの驚異的な腕力で、アカネの体はお姫様のように持ち上げられ、開けっ放しの窓からそのまま室内へといざなわれます。これはラッキーです。まさに棚から鏡餅です♪
 陽さんは私をベッドに優しく下ろすと、いそいそとカーテンを閉めてしまいました。ちょっぴり薄暗くなる室内。なんだかムーディです。まさか、朝からラブシーン?
「で、だ。アカネはこんな朝早くから何をしてたんだ? まさかついに、公園内の住居不定者の一斉摘発が行われたとか……」
 社会福祉制度の見直しが急務だろ、などとぶつぶつ呟く陽さん。
 むぅー、どうやら朝からラブラブな雰囲気にはなれないようです。
「違いますよ陽さん。アカネは、陽さんにおはようを言いに参上したのです」
 朝、誰よりも早く陽さんに挨拶をするという幸せ。本当の理由ではないですが、これも一つの目的ではあります。陽さんは、はじめ何のことか分からないといった風にキョトンとしていましたが、すぐに私の意図を察したのか、柔らかく表情を崩し微笑みました。
「そっか。わざわざ来てくれたんだな」
「はいです♪ おはようございます、陽さん」
「おはよう、アカネ」
 大好きな人の部屋で二人、笑顔で挨拶――まるで新婚さんのようです。新婚さんならばこのあと、お出かけのチューやらお出かけ前の摘み食いやらがあってもいいところなのですが、こういうことに関して陽さんは意外と奥手なので、私から押せ押せムードにでもしない限り、そんな特殊イベントは起こらないのです。裏返せば、陽さんは場の状況に流されないので、他の方に貞操を奪われることも無さそうということなのですが。嬉しいやら悲しいやら、乙女心は複雑です。
「そもそも、アカネには時間が無いのでした……とても遺憾です」
「ん? 何が遺憾なの?」
「な、なんでもないデス。アカネはすぐ学校に行かなきゃいけないから、もうお別れしなきゃいけない、という話ですよ」
「そっか。それなら、ちょっと待ってな」
 そう言うと陽さんは扉を薄く開けると、じっと廊下の様子を探りはじめました。しばらく耳を澄ませたあと、よし、と小さく頷きました。
「うん、まだ誰も起きてないらしい。気をつけて行って来いよ、アカネ」
「はいです! それでは陽さん、また今度です!」
「ああ、行ってらっしゃ――あ、ちょっと待った!」
 陽さんエネルギーを充電して、元気一杯部屋から飛び出そうとした矢先、バッテリーこと陽さんに呼び止められました。どうしたのでしょう? もしかして、ついに、ついにその気に。
「その、優しくして下さいね――?」
「……お前が何を言ってるのか、俺にはさっぱり分からないよアカネ」
 やんわりといなされました。むぅー、スカートの翻り具合を計算したのに――陽さんは制服フェチでは無いのでしょうか?
「アカネは今日、バイトあるのか?」
「バイトですか? 今日はお休みです」
「そっか。じゃあ、学校が終わったくらいの時間に公園に行くよ」
「本当ですか? やりましたです♪」
 棚から栗金団になりました! 朝から陽さんとお話できただけでなく、なんと放課後の約束までできてしまうとは。これはいつもより念入りに、体を隅々まで洗わなくてはいけません。
「あの、優しくして下さいね――?」
「……いや、だからワケ分かんないから」

 

 

 その日の学校は、ほとんど上の空で過ごしていました。頭の中は放課後のことで一杯で、とても授業に手が付く状態ではありません。これほどまでに、時計の針が早く進めばいいのにと思った日が他にあったでしょうか。終業のチャイムが鳴った瞬間、弾かれるように席から立ち上がり、期待に胸を膨らませながら来る時以上のスピードで下校しました。
 いつも陽さんと待ち合わせをするベンチ。私が公園に辿り着いたとき、陽さんは既にそこに腰を下ろしていました。まだ、こちらには気付いていない様子です。荒い呼吸を整えながら、私はこっそりとベンチの後ろ側へと回り込みます。真後ろにいるのに、陽さんは全く勘付いていません。含み笑いを堪えつつ、勢い良く飛び出すと、陽さんの厳つい肩へと抱きつきます。
「わっ!!」
「えへへ、ただいまですっ」
 予想通り、素っ頓狂な声を上げる陽さん。とても驚いたようですが、私だと気付くとその表情は、いつものように私を虜にする優しいスマイルに変わります。
「ああ、お帰りアカネ。ちょっと早いかなと思ったけど、丁度良かったみたいだな」
「はいです! 陽さんに会えると分かっていたので、アカネもギアを十にして駆けてきました!」
「お前の体はマウンテンバイクなのか、そうなのか? ていうかとりあえず、いい加減離れなさい」
 むぅー、できることならずっと抱きついたままがよかったのですが。離れてゆく体温を名残惜しく感じながら、陽さんの隣に座り、今度は腕にすがりつきます。あ、もしかするとこっちの方が密着できるかもしれませんです♪
「やれやれ、小判鮫みたいなヤツだな」
「えへへ、ずっとくっついてます!」
 こうしていられる時が、一番幸せなのです。どんなものにも代えることのできない、至福のとき。このまま時計の針が止まってしまったら、と思うほどに、愛おしい時間――。

 

 

 今日はどこかに出かけるのではなく、公園で陽さんとお喋りをすることになりました。
 学校で起きた出来事、最近公園で見つけた面白いものなどなど、息をつく間もない程に口を動かします。陽さんは温かな視線で見守りながら、また時折鋭いツッコミを入れつつ――私の話を穏やかに聞き続けてくれます。ずっと見ていたくなる、黒々とした瞳。その中に映る私は、あなたにとっては妹でしか――。
 その時、陽さんの胸にぴったりとくっつけていた頭に、弱い振動が伝わります。
「あらら? 陽さん、携帯ですか」
「だね。しかもどうやら電話みたい。ちょっと、ごめん」
 陽さんは胸ポケットから携帯電話を取り出すと、手刀で詫びを入れつつベンチを立ちます。むぅー、とても残念です。後もう少しで、そのまま膝枕に移行できたのですが。
「――もしもし? ああ、冬子さん。どうしたの?」
 少し離れた場所に移動する陽さんですが、挨拶の声だけは聞き取ることができました。トウコさん。女性の名前。聞いたことの無い名前です。プロ野球選手ですから、知り合いも多いでしょうし。当然です。
 笑い声交じりの会話。ですがその笑い方は、微苦笑という言葉が相応しいような、少し引きつった笑い方で、心持ちその声にも困惑の色が浮かんでいるように聞こえました。
 三分ほどで会話を終えた陽さんは、ふぅと大人の溜息をつくと詫びを入れつつ戻ってきます。
「ゴメン、ゴメン。それで? 掃除当番だったアカネが、どうしたんだって?」
「――陽さん。今のお相手は、どんな方なのですか?」
「え。話、聞こえてたの?」
「いえ、そういうわけではないのですが……話している陽さん、なんだか困っているようだったので」
 お節介かもしれません。アカネには関係の無いことだ、と一蹴されるかもしれません。ですが、陽さんの困り顔を見ていたら、そう聞かずにはいられなかったのです。陽さんは話すか話すまいか迷っているのか、顎に指を当て黙考していましたが、すぐに曖昧な笑みを浮かべその間を取り繕いました。
「まあ、困っていると言えばその通りなのかな。そう言えば、アカネにはまだこの話、してなかったか」
「トウコさんのお話でしょうか?」
 陽さんは気難しい顔で首肯すると、事のあらましを話し始めました。コーチに合気道を習い始めたこと。その道場で、トウコさんと知り合ったこと。ひょんなことから晩餐に招かれ、これまたひょんなことからトウコさんの恋人役を引き受けることになったこと。一通り話し終えた陽さんは、疲れたようにばたりと体を背もたれに預けました。
「さっきの電話さ、『明日のデートの行き先、早く決めてくださる?』って。何回かデートはしたけど、ちっとも親密になってる気がしないよ」
「え――陽さん、もうデートもされているのですか」
 その声は、心なし震えていました。
「ん? ああ、一応ね。一方的に押し付けられたとは言え、見捨てるわけにもいかないしね」
「そう、なのですか」
 アカネが越えることのできない一線を、『役』とは言えいとも簡単に。
 陽さんは、アカネがどうしてそんなことを聞いたのか分からないといった風に、きょとんとした顔をしています。その鈍感さが、唯一の救いのように思えました。
「あの、陽さん。こんなことを尋ねると、その、厚かましいと思われるかもしれませんが――」
「ん? 何?」
「陽さんは、トウコさんとのお付き合いを……どう考えていらっしゃるのですか」
「そうだな……」
 再び、思案のポーズ。そして、子供のような笑みを浮かべて、一言。
「――はっきり言っちゃえば、面倒だよね」
「そ、そうでしたかっ」
 思わず跳ねる声。臆面も無く、私は喜んでいました。大丈夫です。こんな言い方をしてしまえば、本当に私は薄汚い女に成り下がってしまうかもしれませんが――陽さんが、トウコさんにトられることは、まずありえないのです。
「えへへ、えいっ」
「わ、アカネ! 一言言ってからにしろっ」
 あまりにも嬉しかったので、背もたれに身を預けたままの陽さんのフリーな膝に飛び込んでしまいました。慌てる陽さんも、注意はするものの拒絶はしません。
 ――この距離にいるのは、私だけ。その事実が、とても嬉しかったのです。

 

 

 数日が過ぎて、陽さんと私はまた公園で静かなひと時を過ごしていました。
 アカネと陽さんが会える日は、週に一度あるかどうか。野球選手なので当然といえば当然なのですが、試合のある日は当然会えませんし、試合が無い日もいろいろとお仕事があるようで、確実に会えるというわけではありません。遠征とやらのスケジュールによっては二、三週間ご尊顔を拝見できないこともあるため、こうしてお日さまが元気な時間から一緒にいれるということは、一粒万倍日よりも幸運な一日なのです。
 いつもと同じように、私が率先してお喋りを進めていますと、陽さんが突然立ち上がりました。
「ど、どうされましたか?」
「ごめん、電話だ――ちょっと、待ってて」
「あ、陽さん――」
 一方的にそう言うと、手で謝意を表しつつ胸ポケットから携帯を取り出し、離れていきます。ディスプレイを見た陽さんの口が、「冬子さんか」と動くのを、私は見逃しませんでした。
 通話はとても短く、顔色を伺うまでも無く終わってしまいました。携帯を折りたたんだ陽さんは、私の元に戻ってくるなり、謝罪の言葉を口にしました。
「ごめん、アカネ。突然呼び出されちゃって――急用らしくてさ」
「あ、そうなのですか……残念です」
「ごめんごめん。今度、晩飯でも連れてってあげるからさ」
 俯く私の頭に、陽さんの大きな手が乗せられます。普段なら、それだけで舞い上がってしまう私なのですが、今回はとてもそんな気分になれませんでした。
「あの、もしかして、お電話のお相手は――」
「ん? ああ、そう。冬子さんだよ。それじゃ、またなアカネ」
 それだけを言い残し、陽さんは走り去って行きました。

 

 

 後日、この時の用件が、『次の授業まで暇だから、話し相手になってほしい』だったのだと、苦笑いする陽さんから聞かされたとき。
 私は始めて、トウコさんのことを、憎いと思ったのです。

 

 

 初めてトウコさんの存在を知ってから、数週間が経ちました。今日も私達は、あの頃と同じように、同じベンチで、お互いの身に起きた出来事を話していました。
「――でさ。冬子さんと来たら、筋金入りなんだよ。ハンバーガー食べるときにも、『フォークとナイフはどこです?』なんて言っちゃってさ。つくづく、身分の違いを感じるよな」
 あの頃と違うのは、最近では陽さんがよく話すようになったということ。陽さんは自分から、トウコさんとのデートで起きた出来事を話すようになったのです。
 その顔に、以前のような困惑や鬱蒼とした色は無く。
「どうしたんだ、アカネ。あんまり、顔色が良くないけど」
 気がつくと、目の前に陽さんの心配そうな顔がありました。私の顔を覗き込む瞳の中には、まだ私がはっきりと映り込んでいます。
「大丈夫ですよ、陽さん。ちょっと、ぼーっとしていただけですっ」
「そうか? なら、いいんだけど」
 あっさりと引き下がる陽さん。むぅー。本当は、添い寝フラグが立つくらいまで粘って体調を心配して欲しかったのですが。ですが、私はめげません。トウコさんに傾きつつある陽さんの心を引き戻すべく、今日は私から晩御飯にお誘いするのです♪
「そんなことより、陽さん! 今日はこの後、何かご予定はありますか? よろしければ、私めと一緒に、ディナーでも」
「あ――悪い、アカネ。すまないけど、先約が入ってる……」
「え――」
 申し訳無さそうに頭を下げ、手を合わせる陽さん。相手が誰か聞こうとして、ふと冷静な自分がそれを咎めました。聞くだけ無駄だ、と。聞いたところで私には何もできないし、言葉として陽さんの口から聞かされれば、さらにショックを受けるだけ――そう理解しているはずなのに、一体何を求めてか、私の口はまるで自分のものではないかのように勝手に動き出します。
「トウコさん、ですか」
「ん? ああ、そうだけど」
「陽さんは、あの人と会うのが面倒ではなかったのですか」
「えっ? ああ、たしかに、そんなこと言ってたっけ」
 一度動き出してしまったものは、そう簡単に止まるはずもありません。
「トウコさんとは、ただの『恋人ごっこ』じゃなかったのですか」
「お、おい。アカネ。どうしたんだよ、いきなり――」
「答えてください陽さん。以前のあなたは、確かにトウコさんを拒絶していたはずです。それなのに最近は、口を開けばあの人の話ばかりするようになりました。押し付けられただけの恋人役を、いつの間にか本気にしてきているのでは無いですか? はっきりしてください、陽さんっ!!」
 戸惑う陽さんに構わず、早口にまくし立てます。信じられないものを見るような目を向ける陽さん。胸がきゅうと締まり、息苦しくなるのを感じながらも、私は陽さんから視線を外そうとはしませんでした。しばらくの間、お互いを見続ける二人。やがて陽さんは目を閉じ、ふっと軽く息を吐くと、観念したように首を横に振りました。
「そうだな。アカネの言う通りだ。役のつもりだった関係だけど、俺は冬子さんに惹かれてきている――いや、曖昧な言い方はしなくていいな。なんとなくぼやかして、自分の気持ちを見ないようにしてきたけど。今、はっきりと分かったよ」
 しまった。
 言わせてはいけない。それ以上は。
 しかし、私の願いも虚しく、その言葉は聞こえてしまいました。
「俺は、冬子さんが好きだよ」
 予期していた言葉。一番聞きたくなかった言葉。
 陽さんは真摯な眼差しで、はっきりと答えました。
「それは、一人の女性として……ですよね」
「もちろん、そうだ。でもアカネ、突然、どうしてこんなことを――あっ、オイ、アカネっ」
 陽さんの静止も聞かず、私は走り出していました。陽さんの答えを聞き、アカネの理性が急速に冷静さを取り戻した瞬間、その場から逃げ出さずには、いられなかったのです。
 ――最悪です。一時の激昂から、あんなことを口走ってしまうなんて。きっと陽さんは、私のことを利己的でヒステリックな女だと思うはずです。もう、合わす顔がありません――いや、もしかしたら、今までのように逢いに来てくれる事も無くなるかもしれない――。
 そう考えると、身も張り裂けそうなほどに、心がズキズキと痛み出しました。
 それほどまでに、私は陽さんを必要としていたし、また、私の知らないところから陽さんに近付くトウコさんの存在が、許せなかったのです。

 

 

 それから私は、自分から陽さんとは会わないようにしました。その期間がどれほどだったかは、よく覚えていません。ただひたすら、狂おしいほどに逢いたくて、これ以上無いほどに寂しくて。
 だからこそ、学校帰りの私が、家の前で佇む陽さんを発見したときは、本当に息が止まったかのような気がしました。
「陽、さん――」
「アカネ! やっと逢えた……心配してたんだぞ」
「陽さんっ」
 広い胸元に全身から飛び込みます。陽さんは突然のことで戸惑っていたようですが、すぐに私の背に腕を回してくれました。とても、温かいです。でも、何より温かかったのは、私を心配してくれたという、陽さんの言葉だったのです。
 しばらくの間、私たちは抱き合い続けていました。周りに人がいたら、私たちはきっと破廉恥なカップルに見えたことでしょう。そこまで考えて、私はやっと、この前の愚行を思い出したのです。
「――っ!」
「あ、アカネっ!?」
 逃げるように陽さんから離れます。戸惑う陽さん。当然です。自分から飛び込んできて、自分から拒絶するのですから。今、私はどんな女だと思われているのか――それを想像するだけで、とても惨めな気持ちに晒されます。
「どうしたんだよ、アカネ……」
 心配そうな、陽さんの声。その気持ちに偽りは無くとも、それはあくまで『妹』としての私に向けられた台詞。再会した時の気分が、暗鬱なものへと見る見るうちに変化していくのがよく分かりました。
「いいんです、陽さん。今近くに行けば、離れたとき苦しくなるだけですから」
「何を、言ってるんだ」
 陽さん――抱き付きたい。その温もりを手放したくない。
 陽さん――その瞳に、私だけを映して欲しい。
 陽さん――どうか、離れていかないで。
 でも、陽さんの気持ちを無視することは、私には出来ませんでした。
「陽さんには、トウコさんが、いますから」
 搾り出すようにそれだけを言い切ります。本当は、こんなこと認めたくない。ですが、これ以上陽さんに、賤しい女だと思われたくなかったのです。
 目を大きく開け、呆然としていた陽さんは、意外にも寂しげな笑みをこぼしました。
「冬子さんとは、別れたよ。告白されたけど、断ったんだ」
「――え? で、ですが陽さんは、トウコさんのことが」
「うん、好きだよ。でも、これで良かったんだ――俺は、そう思うことにした」
 それは、夢にまで見た言葉でした。
 陽さんの言葉は、もう割り切った様子でした。ですが、本当の感情はそれとは裏腹であると、誰にでも分かるほどに顔に浮かんでいます。
 その気持ちを知りながら、私は――そっと、陽さんを抱き留めました。
「大丈夫ですよ、陽さん」
「アカネ……」
「私は、どんなことがあっても、陽さんの傍にいますからね」
 甘い声での囁き――どうか、私に、堕ちて下さい。
「そうだな、傍にいてくれ。お前は俺の、たった一人の家族だからな」
 落ち着いた声で、陽さんが呟きます。それを私は、唇を噛み締めながら聞いていました。結局私は、『妹』という枠組みから抜け出すことはできないのだと、改めてその現実を突きつけられたのです。
 でも、今はそれでもいい。
「はい。アカネは、陽さんの妹ですから」
 こうして、あなたの傍にいられるのだから。

 

 

 赤や黄に染まった葉が全て散り、季節は冬になりました。雪がしんしんと舞い降りる町の中、ポカポカに温まった心を持った私は、鼻歌交じりに陽さんの寮を目指します。胸元に抱きかかえるのは、学校の家庭科部に一日入部して作った肉まん。少し冷えていますが、温めなおせばきっとホカホカです。こんな寒い日、布団に包まり震えているであろう陽さんへのプレゼント。二人仲良く肉まんを食べるシーンを想像しながら、一人笑みをこぼしちゃったりします。とても楽しみです。
 寮に辿り着き、頭や肩に積もった雪を払っていた最中、寮の奥から陽さんが走ってくるのが見えました。
「あ、陽さんですっ」
「アカネ? どうして、ここに――」
 いつになく険しい顔つきの陽さんの眼前に、今日の秘密兵器を差し出します。
「これを、陽さんと食べようかなと思いまして」
「肉まん、か。これを、俺に?」
「はいです! 初めてですが、美味しくできたはずですっ」
「そっか。わざわざありがとな、アカネ」
 大きな手で、頭を撫でてくれる陽さん――くすぐったいですが、とても気持ちいいです。
 ですが、陽さんのお返事は、残念ながらノーでした。
「でも、ごめん。今は――ダメなんだ」
「あっ、陽さんっ」
 陽さんは脇目も振らず寮から飛び出してゆくと、雪の中傘も差さずに白い町並みへとその姿を埋もれさせていきました。一人取り残された私は、追うことも出来ず、その背中を見送っていました。
「一体、どうしたんでしょうか……」
 とにかく、陽さんのいないこの場にいても意味がありません。
 ぽっかりと胸に穴が開いたような虚しさを抱えたまま、私は寮を後にしました。

 

 

 白く染まった公園。
 全てが雪に埋もれた世界。
 お互いの存在を確かめ合うかのように強く抱き合う、一組のカップル。
「陽さん――もう、離しませんから」
「俺もだよ、冬子さん」
 ああ、どうして私は、こんなタイミングでここに来てしまったのか。
 見たことの無いような表情で、自分と女の唇を重ねる男。
 その横顔は紛れも無く、よく見知ったあの人のものだった。

 

 

 おかしい。
 何かが狂っている。
 確かに私は聞いたのだ。陽さんは、あの女と別れたはずだ。
 誰よりも陽さんと近い距離にいるのは、私のはずなんだ!
 なのに、陽さんの隣に私はいない。
 どうして?
 答えは分かっている。あの女が帰ってきたからだ。
 お兄ちゃんは、別れてよかったのだと割り切っていたのに!
 あの女は魔女。お兄ちゃんの心を惑わし、私とお兄ちゃんの仲を引き裂こうとする悪女。
 そういえば、あの女がお兄ちゃんと知り合ってから、何かがおかしくなっていった気もする。
 だとしたら、お兄ちゃんを取り戻すのは簡単な話だ。
 あの女が、いなくなればいいんだから。

 

 

 しんしんと降り積もる雪の中。
 その輝きに負けぬほどの光沢を放つ、ナイフを懐に隠し。
 お兄ちゃんを手中に陥れ、上機嫌な微笑みを浮かべながら帰路に着く魔女の後ろから、音も無く忍び寄り、白銀の刀身を夜気に晒します。いざ刺さんとナイフを振りかぶったとき、以前お兄ちゃんがしてくれた魔女の話を思い出しました。
 ――冬子さんも合気道やっててさ、ひょっとしたら俺より強いんじゃないかな?
 魔女なのに武道。そのちぐはぐさに思わず吹き出しそうになりながらも、心の中でお兄ちゃんにお礼を言います。この時のためにお兄ちゃんは、私にアドバイスをしてくれていたのですね♪
 初撃で、確実に動きを封じます。
 ですが、簡単に殺しはしません。
 お兄ちゃんを惑わしたその罪を、存分に痛みで贖ってもらわなくてはなりませんから。
 まず、背中に。悲鳴が漏れぬように口をハンカチで押さえながら、間髪入れずにナイフを逆手に持ち替え、今度はお腹を滅多刺しにしてゆきます。ナイフを突き立てる度手にこびり付く、くぐもった喘ぎ声と共に吐き出される粘液がとても気持ち悪いです。しかし、その程度でめげる訳にはいきません。息の根が止まるまで、魔女と戦い続けなくてはなりませんから。
 ずぶずぶと刀身を肉に沈ませては、身を真紅に染めゆく魔女。飛び散る鮮血で、私の体も、真っ白な雪すらも、いっそ綺麗なほどの朱色へと塗りたくられます。次第に、ナイフを埋め込んだ瞬間の反応も弱まってゆき、最後にはナイフを突き刺しても血が出なくなってしまいました。私はついに、魔女に勝ったのです。
 赤い地面の上に倒れ伏す魔女を眺めながら、今まで感じたことの無いほどの達成感で胸が満たされてゆくのを感じました。腕は疲労で酷く重たかったし、血で染まった服が肌に張り付きとても気持ち悪かったですが、どんなものにも代えられぬ喜びを手にすることができたのですから、この程度の代償は安いものです。これでまた、私はお兄ちゃんの傍にいることができるのです♪
 その時、冬の風が強く吹き付けてきました。冷たい風。さっきまでは暑いと感じるほどに火照っていた体も、体にまとわり付く血液が相まって、急速に熱を奪われてゆきます――うう、とても寒いです。こんなとき、お兄ちゃんがいてくれれば、抱きつくことで一緒に暖まれるのですが。
「あ、いいことを思いつきました♪」
 キョロキョロと辺りを見回すと、都合良く電話ボックスを発見できました。パルスを通してお兄ちゃんの声が聞こえた瞬間、すぐにこの場に来て頂くようにお願いします。お兄ちゃんは優しいので、ちょっと不思議に思っていたようですが、すぐに了承してくれます。さすがはお兄ちゃんです。
 ――お兄ちゃんが来たら、いっぱい褒めてもらいます。私が魔女を倒したから、もうお兄ちゃんが迷惑をこうむることもないのです。きっとお兄ちゃん、たくさん頭を撫でてくれます♪

 

 

「なんだ、これ――」
 ですが、お兄ちゃんは褒めてくれませんでした。
 地面に転がる魔女の死体を見るなり、仕事を遂行した私などそっちのけで、死体を抱きかかえ泣き叫びます。ああ、そんなに顔を近付けたら、お兄ちゃんの端整なお顔が汚い血で汚れてしまうのに――。
「お兄ちゃん、どうしたのですか。何も泣くことなんかありませんよ。それに泣くのでしたら、そんな汚いものよりも、アカネの胸や膝をいくらでもお貸ししますのに」
「どうしてだよ――これからまた、二人で幸せになるんじゃなかったのかよぉっ」
 優しく声をかけるのですが、お兄ちゃんはちっとも聞いてくれません。魔女の名前を何度も呼んでは、狂ったように泣き続けます。むぅー、一体どうしてしまったのでしょう?
 とその時、私の頭の中を、いくつかのワードが飛び交い、一つの形を形成してゆきます。

 魔女の体を抱いて
 狂ったように泣き続ける
 お兄ちゃん
 その体を穢しながらも
 まるで
 何かに支配されるように

「ああ――そういうことだったのですね」
 バカなアカネにもやっと理解できました。
 そうです、相手は魔女だったのです。確かに魔女を倒すことはできましたが、魔女は既にお兄ちゃんに呪いをかけていたのです。お兄ちゃんを支配し、虜にする呪いを。そう考えると全ての辻褄が合ってきます。恋人ごっこのはずなのに愛してしまったのも呪いのせい。雪の中傘を差さずに飛び出したのも呪いのせい。お兄ちゃんがキスをしたのも呪いのせい。こうして今、ずっと泣き続けているのも呪いのせいだったのです。
 でも、だとしたらどうすればいいのでしょう? アカネは魔女ではないので、お兄ちゃんに掛けられた呪いを解くことはできません。お兄ちゃんを、心を支配する呪いから解き放ち、再びアカネに笑いかけてくれるようにするには、どうすればいいのでしょう?
 ふと、自分がまだ何かを握っていることに気がつきました。ナイフです。魔女の血は拭き取られ、銀の光沢を戻したナイフが、存在を主張するかのようにギラギラと光っていました。まるで、自分の出番だと言わんばかりに。
「あっ、そういうことなのですね♪」
 嬉しくなって、思わず声が出てしまいました。そうです。心を支配されていて微笑むことができないなら、心と頭を切り離してしまえばいいのです。我ながら、グッドアイデアです♪
 辺りを憚らずに泣き続けるお兄ちゃんの後ろに回りこみ、その首筋にナイフを翳します。
「お兄ちゃん。ちょっと痛いかもしれませんけど、これもお兄ちゃんの為なんです、我慢してくださいね。すぐ、その呪縛から解き放ってあげますから♪」
 返事が無いのが寂しいですが、これも仕方がありません。今度はただ刺すのと違って、やや骨の折れそうな仕事ですが――お兄ちゃんと私の幸せの為、アカネは身を粉にして頑張るのです♪

 

 

 夜の公園。お兄ちゃんと二人、アカネは星を見ていました。
「とても綺麗ですね、お兄ちゃん」
 お兄ちゃんは笑顔です。まだ呪いが完全に抜けていないのか、表情はアカネが変えないといけませんが、アカネが手動で口元を吊り上げると笑顔になってくれます。ちょっと引き攣ってますが、お兄ちゃんの笑顔に変わりはありません♪
 魔女も呪いも無いこの世界。二人だけの永遠の世界で。
 私はずっと、お兄ちゃんと一緒にい続けられるのです。