ほんのりまろびね

パワプロクンポケット(パワポケ)の二次創作小説(SS)をぼちぼち書いてます。

黄昏時に彼女は微笑む

(初出:2008年)

 

これにて再掲SS終了です!

さあ、新作新作!!

 

 

 

 

 

 総てのものから維織を守ると誓った夜。

 あの日から、俺と維織の関係は変わってしまった。

 二人の旅。俺が過ちに気付くのに、そう時間は掛からなかった。

 断ち切ることのできない鎖に繋がれた二人。

 ずっと一緒だと、一緒にいられると信じていた。

 呪いのような宿命を引き摺って、どこまでも歩いて行けると信じていた。

 

 

 

 

 

 

「……イタロー、君」

 衣擦れの音ほど微かな空気の震え。それが自分の名を呼ばれたということを理解するのに、九堂伊太郎は僅かに逡巡した。

 綿の少ない平べったい布団の上に、維織は横たわっていた。その髪は色艶を失い痩せ細り、ところどころ赤みの目立つ頭皮を露出させている。染みと吹き出物の目立つ肌は不健康に白く、唇は一切の水分を感じられないほどささくれ立っていた。

 出会った頃の彼女とは別人としか思えない相貌に、目を逸らしたくなる衝動を胸の奥に抑え込み、伊太郎は震える声を振り出した。

「維織。俺は、ここにいるよ」

「イタロー、君、どこ……」

 その声は届かなかったのか、弱い光を放つ瞳がゆらゆらと揺れる。緩慢な動作で蠢く小枝のような指先を、細心の注意を払い両手で包み込んだ。

「あ……」

「ここだ。ここだよ、維織」

 洞のような能面に、微かな喜色が見えた。その笑顔でさえ、骨の形をなぞるような眼窩の窪みによって、ますます鋭利に伊太郎の心を抉る。

 こんな結末、誰も望んでいなかったはずなのに。

 彼女は、大きな翼で自由に生きるはずだったのに。

 悔恨という鉛が胸を圧し潰す。自分に知識があれば。未来を見通す目があれば。過去に巻き戻る魔法が使えれば。意味を持たない絵空事が浮かんでは消える。今はただ、手を握り名前を呼び掛けることしかできない自分を、深く呪った。

「いた、ろー、くん」

「ああ。大丈夫。俺はここにいるよ」

 返事をしてから、様子がおかしいことに気が付いた。話す体力も碌に残っていないはずなのに、維織は必死に言葉を紡ごうと口を動かしている。

「……た、び、たのし、か、った」

「維織……大丈夫だ。俺がついてるから。ずっと一緒にいるから」

 うわ言のように同じ言葉を繰り返す自分の口が恨めしい。だが、そうしていれば、今にも消えそうな命の灯を守っていられるような気がしていたのだ。

 だが、そんな妄想を嘲笑うかのように、維織の瞳の色は朽ち果て、

「……り、が……と……」

 両手の隙間から、か細い腕が、音も無く滑り落ちた。

 

 

 

 

 

 

 大きく息を吐き出し、目を見開く。起きしなに何か叫んだような気もしたが、周囲には老人がひとり、少し驚いた様子でこちらを見ているだけだった。伊太郎が困ったようにはにかみつつ会釈をすると、翁もまた得心したとばかりに眉尻を下げた。

 また、あの夢を見ていたのか。

 胸の動悸は激しく律動を続けていたが、半身に伝わる温もりを感じ取ると、それはやがてゆるゆると平常運転へと戻っていった。

 額にびっしりと浮かんだ汗を拭う。もう何日も水を飲んでいないかのように喉が渇き切っている。水筒の蓋を開け、中身を勢いよく飲み干した。

 カタカタと規則正しいリズムを刻みながら、心地良い振動で乗客を揺らす寂れた列車。乗客は自分たちを除けば、通路を挟んで反対側のボックス席に腰掛けている、先程の翁しか見当たらない。

 視線を車窓側に戻す。

 肩にかかる、僅かな重み。

 首をくすぐる、暖かな寝息。

 その手元の文庫本には、開かれたままのページに四つ葉の枝折が挟まっている。

 維織は安らかな表情で隣人に身を預けて眠っていた。

 甘い香りの漂う艶やかな長い髪をそっと梳くと、清流のような輝きを残し、するりと手応え無く指から抜けてゆく。髪の手入れなんて、旅をする者にとっては碌にできたものではない。旅人にとって名刺代わりとも言える好き放題に伸びる髪や、整えられることの無い無精髭は、ごく普通に日々の営みを送っている人々から見ればほぼ確実に白い目で見られるものだろう。しかし、無宿者にとってはそれが当たり前のことなのだ。

 伊太郎は目にかかる前髪を左右に払い、ふぅと小さく息を吐いた。

 維織と共に旅をするようになってからは、以前よりも頻繁に銭湯に寄るようにしている。服は定期的に新しいものに変えているし、旅路も公共交通機関の利用が増え、行脚の際も山道獣道は避けるようになった。路傍の草や変色したパンを最後に食べたのはいつだったか覚えていない。レストランやコンビニのゴミ捨て場を、人目を避けながら漁ることも無くなった。宿こそ相変わらずのテント暮らしだが、週に一度以上は屋根のある建物に泊まるようになっている。

 圧倒的な生活水準の向上。以前より確実にふっくらとした自分の頬を撫でた。

 それでも、普通の人であれば、増してや女性にとっては、このような生活は過酷のひと言だろう。いつだったか、伊太郎は故あって一人旅をしているという女性と出会ったことがあったが、栄養失調が祟り落ち窪んだ眼窩と痩せこけた頬、それに青白い肌によく目立つ赤い発疹が正視に堪えなかったことをはっきりと記憶している。生物学では男性よりも女性の方が飢餓に強い、という研究結果もあるようだが、向き不向きで言えば確実に後者だろう。

 ところが維織はどうだろう。元が色白ではあるが、頬は健康的に薄く朱が差し、唇は張りのある桃色。黒々とした瞳は、心なしか出会った時よりも輝いて見える。旅を始めて一年ほどになるが、ここまでは体調を崩したこともない。

 これは維織が野崎家との縁を切った今でも、ある程度の資力が彼女にあることが大きな要因だ。もっとも仕送りがされている様子はないので、恐らくはかつての貯金を切り崩し続けているのだろう。今の生活は、放浪というよりは物見遊山に近い。

 ――いつまで、こんな生活を続けられるんだろうか。

 それは二人で旅をすることが現実になって、はじめて鎌首をもたげた疑問だった。その日暮らしが当たり前だった筈が、徐々にその感覚は薄れている。名前も知らない雑草やキノコを口にするのに躊躇するようになった。自分の容姿や体臭が気になるようになった。格安のホテルであっても、ベッドで寝た翌日にテントで寝ると、地面の固さでなかなか寝付けないこともあった。

 もし、維織の貯蓄が尽きたとき。俺たちは寒空の下で路傍の草を煎じて飲むことができるだろうか?

 伊太郎は思う。恐らく、俺は元に戻るだけなのだろうと。揺り戻しの代償は大きいだろうが、病に臥せりながら、新聞紙にでも包まり冷風に身を晒しながらでも、かつての生活に戻ることはできるだろうと。

 たが、彼女は話が異なる。遠前町で数カ月ほど過ごした部屋を思い返す。郊外の片田舎ではあるが、セキュリティ完備の立派なマンションだった。カレーを作るためだけに業物の包丁を買い寄せたことも、伊太郎に腕を披露するためにピアノを即日取り寄せたこともあった。そもそも自分は、一年間コーヒーを飲み続けていても問題ないほどの恩顧を受けていた。彼女がどんな半生を送ってきたのかは極めて抽象的に、しかし容易に想像ができる。そんな深窓の令嬢が、宛て無き放浪生活にいつまで耐えられるのか。ひと月は確実に持つまい。一週間も怪しい。いくら彼女が自由を望んでも、願望や根性だけでは生きていくことはできない。結局のところ、育ってきた環境が違うのだ。不確定期限付きの自由の旅。その終焉の形は、じわじわと真綿を締めるように訪れるのかもしれないし、驚くほど呆気無く唐突にやってくるのかもしれない。木々が枯れ空気が冬の気配を運び寄せるにつれ、伊太郎の脳裏には克明にその情景が浮かぶようになっていた。痩せ細った彼女の肢体。弱々しい光を放ちながら自分を見つめる瞳。夢にまで見るようになって以来、伊太郎は生まれて初めて眠ることへの恐怖を抱いた。

 あの光景が、現実になりかけたとき。俺はどうするのだろう。

 金も知識も持ち合わせていない自分には成す術がない。だとすれば、手段はひとつしかない。野崎家にコンタクトを取り、助けを請う。彼女は拒絶するだろうが、最悪の事態は回避できる可能性が高い。そして彼女は夢から覚めるように元の人生に戻り、自分と出会うことは二度となくなるのだろう。

 彼女は自分を恨むだろうか。

 それとも悲しむのだろうか。

 どちらにしても、伊太郎には見て見ぬ振りしかできない。元々、あの街でいらぬ世話を焼いたことが異常だったのだ。自分とは関係のないことだと、目を背けることには慣れている。一人で旅をすることも。

 そうなれば、維織は二度と笑えなくなるのかもしれない。彼女が本当に笑える日まで守ってやると誓ったはずなのに、いつの間にか終点は笑顔が消える日になっている。その日を恐察するたび、伊太郎は自身の軽率さを呪った。

 どうして、俺が守るなどと妄言を吐いたのか。

 どうして、同じ屋根の下で暮らしてしまったのか。

 どうして、あの喫茶店に足しげく通ってしまったのか。

 どうして、あの街に逗留すると心に決めてしまったのか。

 どうして。どうして。どうして。どうして。

 彼女のことを本当に案ずるなら、突き放してでも定められた道を歩ませるべきだったのではないか。

 思念は渦を描き胸の深いところへと沈んでゆく。晴れることの無い澱みが、じわりじわりと心を蝕んでいる。

 停車を知らせるアナウンスが、年期を感じさせるノイズと共にスピーカーから発せられる。窓の向こうには、閑散とした山麓の村がひっそりと佇んでいる。ここが終点ということを、車掌が間延びした声で放送している。この村に来た深い理由は無い。海に行けば次は山、山の次は海といった具合に、当て所もない旅は続いている。

 もたれかかっている彼女の肩を優しく揺すり、眠たげに開かれた薄目を覗き込む。

「維織。終点だよ。そろそろ起きようか」

「……やだ」

「え?」

「……キスしてくれないと、起きない」

 このお嬢様は、白雪姫の夢でも見ていたのだろうか?

 維織は僅かに頬を赤く染めると、伊太郎の視線から逃げるように車窓を見遣った。どうも最近、キスをせがまれることが多くなった。こういう時の彼女は本当に頑固だと、伊太郎は経験上理解していた。軽く息を吐くと、彼女を抱き寄せ言われるままに唇を重ねた。驚いたように見開かれる瞳が視界に入ったが、気に留めず長いベーゼを続ける。一時の静寂を置いて、伊太郎は顔を離した。

 維織は恍惚とした面持ちで、唇を指でなぞった。

「今日のイタロー君は、ちょっと大胆」

「そう、かな。いつも通りのつもりだったんだけど」

「……今夜は、ちょっと大変かも」

「だから、いつも通りだって」

「いつも通りでも……大変」

 そういう意味じゃないんだけどな、と伊太郎は頬を掻いた。

 ぼんやりとした足つきで立ち上がった維織は、ふと思い出したように、極まりが悪そうな男の顔をまじまじと見つめた。

「どうしたの。俺の顔、何かついてる?」

「少し。なんだか……疲れてるように見える」

 ぼんやりしているようで、目敏い。維織は怪訝そうに眉で八の字を描いている。

「大丈夫だよ。ちょっと、酔ったのかも。結構カーブとか激しかったからさ」

「そう……なら、いいんだけど」

 維織は少しの間首を傾げていたが、イタロー君がそう言うなら、と嚥下すると降り口へと向かっていった。彼女を不安がらせてはいけない。伊太郎は両手で頬を軽く叩き、荷台に乗せていた襤褸袋を引き摺り下ろした。

 旅の終わりが、近付いてきている。そんな予感めいた思いを胸に仕舞い込み、維織の後を追った。

 ホームに降り立つ直前。ふと振り返った無人の座席を、小さな日溜りが照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 振り被った鉈を、木片目掛けて垂直に振り下ろす。小気味のいい音を立て真っ二つに割れたそれを、軍手をはめた維織が回収し次の薪を立てる。

 餅つきのような共同作業を、傾き始めた陽光だけが見つめている。額に浮かんだ汗を手の甲で拭うと、涼やかな風がするりと抜けていった。

 縁側に腰掛ける維織の前には、伊太郎が一時間近く掛けて割った薪が小さな山を作っている。自分で決めたノルマまであと幾つだったか、思い出せない。伊太郎は任せて下さい、と軽率に重労働を引き受けた過去の自分を恨んだ。

「今、いくつ割った?」

「四十二……あと五十八」

 まだ半分以上も――伊太郎は軽い眩暈を覚え、鉈を杖代わりにその場に座り込んだ。

 目的地にたどり着いたまでは良かったものの、この村は予想以上にひっそりと静まり返っていた。家同士の間隔は広く、それも両手で数えられるほどしかない。宿泊施設はもちろん、店らしい店も存在しない。完全なる自給自足の限界集落。鉄道が通っていれば、さすがに食料を調達できる店のひとつくらいはあるだろうと高を括っていたのが浅慮だった。日が高いうちにテント泊の場所を探そうと駅前をうろうろしていたところ、先ほど車内で会釈をした翁が声をかけてくれた。旅人が珍しいようで、よかったらうちに泊まって、旅の話を聞かせてくれ、とまたとない勧誘を受けた。断る理由なんてどこにもない。伊太郎は二つ返事で一晩の宿を恵んでもらうことにした。

薪割りは、せめてもの恩返しを、と自分から提案したものだ。ただ泊めてもらうだけでは気が済まない、などと心にもないことを理由付けた。本心は、何か無性に体が動かしたくなったのだ。旅の話をするとなれば、必然的にこれからのことを考えてしまう。今から気が滅入っていては翁に申し訳が立たない。その程度の軽い考えだった。

せっかくだから村人たちにも声をかけてこようと、翁は家を二人に預けて外出している。見ず知らずの赤の他人に留守を任せるあたり、この集落の治安の良さと防犯意識の低さが思いやられたが、悪い気はしなかった。

「つつ……こりゃ、想像以上に重労働だな」

 じんじんと痛む掌を見ると、あちこちに肉刺が浮かんでいる。二の腕から先はすっかり腫れあがり、巧いように力が入ってくれない。二度三度と拳を閉じたり開いたりしてみたが、そんな動作でさえあやふやで苦笑が漏れた。

 あと、五十八。このままのペースでは文字通り日が暮れてしまう。

 肩を摩り、腕を回しながらゆっくりと立ち上がる。明日は筋肉痛だなと確信し、伊太郎は深く溜息をついた。

「イタロー君」

 呼びかけに振り向くと、維織がすぐ隣でブラウスの袖をまくっていた。既にキャメルのジャケットは折り畳まれている。その双眸は、いつもより少しだけ険しい。伊太郎は同じような目を、カレーを作る、と言い出したときに見たものと同じ色だと感じた。

 まさか、俺に代わって薪割りをするつもりなのか。

 彼女の細腕と足元に転がる肉厚の鉈を見比べる。贔屓目に見ても難しい、というより無理だ。薪を割るどころか、鉈を持ち上げる段階で怪しい。コーヒーカップよりも重い物を持ったことが無いだろうと、伊太郎は内心で維織を酷く侮蔑した。

 憐憫の目で自分を見つめる伊太郎に、維織は意味が分からないといった様子で首を傾げた。

「何か、言いたそう……」

「維織。気持ちは嬉しいけど、俺は鉈に振り回される維織は見たくない」

 維織は、ぶぶー、と呟き唇を窄めた。

「はずれ。肩、揉んであげようと思っただけ……」

 なんだ、そういうことか。伊太郎は胸を撫でおろした。

「ありがとう。それじゃ、お言葉に甘えようかな」

 一度大きく背筋を伸ばし、伊太郎は手ごろな高さの切り株に腰掛けた。座り込むと筋肉の疲労具合がはっきりと感じ取れた。鉛でも埋め込んだかのような両肩がずしりと主張をはじめる。維織はいそいそと男の後ろに回ると、華奢な指を滑らせるように、ガチガチに固まった肩に触れた。

 指に込められた力は、想像していたよりも遥かに弱い。揉んでいるというよりは、くすぐっているといった方が近かった。

「そこそこ、その辺……もっと強くやっても大丈夫だよ」

「でも、イタロー君が痛がるかも」

 そこまで強くできるかは甚だ疑問だ。

「マッサージってのはそういうもんさ。むしろ、そうじゃないと効果ないよ」

「そうなの?」

「ああ。筋肉を解さなきゃいけないから、多少は痛いくらいじゃないと」

 這うように蠢いていた指の動きが止まる。何かを思案するかのような沈黙の後、維織は残念そうに小さく息を吐いた。

「……でも、残念」

「え? 何が?」

 今一度、肩の上で細い指が踊る。やはりその指使いは、摩っているようにしか思えないほど貧弱なものだ。心は癒されるかもしれないが、体力は一向に回復しそうにない。

 どうやらこのお嬢様は、自分が想像したよりも遥かに非力らしい。さしずめ、巌をスコップで掘り返そうとするようなものか。維織は両手を片方の方に置き、全体重をもって凝りを解そうと試みているが、やはり微弱な重みしか感じられない。うん、という小さな唸り声が、妙に可愛らしいものだったので、伊太郎は思わず噴き出した。

「イタロー君……失礼」

「ごめん、ごめん。くすぐってるみたいで笑っちゃった」

「もっと失礼……んっ」

 肩に乗っていた微かな負荷が、消えた。続けて、床板に何かを打ち付ける音。振り向くと、維織は縁側に横倒しになっていた。自分でも何が起こったか分からないといったように目を丸くする維織を、慌てて抱き起こす。

「大丈夫? どこか、打たなかった?」

「……大丈夫。ちょっと、滑っただけ」

 そう呟く維織は自分の掌を見つめている。小さな額にはところどころに玉のような汗が噴き出していた。呼吸に、僅かな乱れ。この村に辿り着くまで、今日は六時間ほどの電車旅だった。自分にとっては楽なものだったが、維織にとってはどうか。伊太郎は自身の気の回らなさに唇を噛んだ。

「ごめん、維織。疲れてるところに、無理させちゃったな」

「ううん。平気……本当に、ちょっと滑っただけだから」

「薪割りは一人で続けるから、維織は先に部屋で休んでなよ」

「嫌……イタロー君、一人じゃ大変」

 傾き始めた陽光が雲に遮られたのか、維織の顔が翳る。つい先刻までの空気が嘘のように、その相貌は色を失って見えた。

 脳裏に過ぎる、いつもの予見めいた光景。床に臥すやつれた維織。呼吸に合わせ小さい律動を繰り返す胸。恐々と振れた指先は骨と皮だけのように細く、小刻みに震えている。

 どうして、俺は――いつもの逡巡。目の前が暗い帳に覆われてゆく、イメージ。

「ダメだ。今日は、もう」

「――やっと見つけましたよ。こんなところにいたのですか、維織お嬢様」

 その声は暗幕の向こうから、唐突に落ちてきた。

 

 

 

 

 

 

 いつからそこに立っていたのか。

 頬のこけた細身の男は、口を真一文字に結びこちらに近寄って来る。寒村には不似合いなフォーマルスーツと淵の薄い眼鏡からは、堅物で融通が利かなさそうな、ひどく厳格そうな印象を受けた。身長は伊太郎より頭半分ほど高いが、体躯は遥かにひ弱に映る。卸したてのように皺一つないグレーのダブルスーツは、入学したての中学生のように不自然に大きく見えた。

 だが、伊太郎の意識を奪ったのは、男の最後の言葉だった。

 維織、お嬢様――。

 その言葉を口にしたのは、彼が知る限りでは二人目。一人目は、全てを知った上で維織の逃避行を黙認した喫茶店のマスター、世納。

「三島……」

 背後から、誰ともなしに零れた呟き。

やはり、二人は顔見知りか。それも、NOZAKIグループ絡みの。

伊太郎の背中に何かが振れた。維織の手が震えていた。大企業の、令嬢が名を知るような位の男がこんな辺鄙な土地まで足を運んできた理由は火を見るより明らかだ。

 三島は二人から一メートルほど離れた場所で止まると、おもむろに右手をジャケットの内側に差し入れた。

実力行使。まさか。いや、しかし。

脳髄に警笛がけたたましく鳴り響く。伊太郎は身を低く構え、維織を背後に隠した。

 滑らかな動作で腕が引き抜かれる。咄嗟に胸の前で両腕を身構えた伊太郎の前に、小さな紙切れが差し出された。

「名刺?」

「もちろん。君は知らないかもしれないが、日本では一般的な社会人はこうやって挨拶をするんだ。クドウ、イタロウ君」

 訝しげに睨みを利かせる伊太郎を睥睨し、三島は頬を持ち上げた。その薄ら笑いは、妙にこの男にしっくりくる。抑揚に欠ける話し方と相まって、自分とはあまり親しくなれないタイプだ、と伊太郎は瞬時に目の前の男を理解した。

 警戒を解かずに名刺に視線を落とす。名前の横には『NOZAKIグローバルシステム 執行役員』との肩書が付されている。企業の形態は分からないが、あまり歳がいっているようには見えない目の前の男が役職付きということに、軽い驚きを覚えた。

 暫時、睨み合いが続く。三島はやがて、仰々しく両手を開き、名刺をポケットに戻した。

「出された名刺は受け取る。これもまた礼儀だ。覚えておくといい」

「……あいにく、貰っても返すものがないんでね」

「だろうな。名刺を作ったら教えてくれ。その時に改めて交換しよう――お喋りはこの辺で失礼していいかな? 君と昼下がりの会話を楽しむために、こんな辺境に来たわけじゃないんでね」

 いちいち鼻につく言い方をする男だ。脳髄が熱を帯びてゆく。そんな伊太郎の心情を知ってか知らずか、三島は満足げに小さく鼻を鳴らし、陰から顔を覗かせていた維織へと、狐を思わせる細い目を向けた。

「さて、お嬢様。言いたいことは、もうご理解いただいていますね」

 先程とは変わった慇懃な物言いではあるが、その表情は能面に近い。維織は首を横に振ると、その照準から逃れるように広い背中へと身を引いた。

「お嬢様が失踪されてから間もなく一年経ちますが、NOZAKIグループの内紛は全く鎮静化する様子はありません。社長……お父上への風当たりはますます厳しい。後継者論争に託けて、辞職に追い込もうという声も上がっております」

「お父様は……関係ない。これは、私が決めたこと」

「残念ながら、それこそ関係のないことです。権力争いとは醜いもので、利用できるものがあれば何でも利用する。社長就任を目前に控えていた一人娘を教育方針の不一致で出奔させ、あまつさえその同伴者は戸籍すらあるかどうか怪しい旅の人。駆け落ち同然とはいえ、それを見逃してしまうような人間はとてもとても、グループを率いる器ではない――人格攻撃も甚だしいですが、立場というものは得てして、そういった小さな傷から致命傷に拡がるものです」

「そんな……」

「社長は今ならまだ許すと、こうして私を派遣した次第です。さあ、お嬢様」

 背中の気配が揺らぐ。伊太郎はただ黙って、自分をすり抜ける二人の会話を聞いていた。

 本心を言えば、心のどこかでは、こうなることを望んでいたのかもしれない。NOZAKIの追手が現れて、無理矢理にでも連れ戻される。夢を見るほどに苦しめられていた最悪の事態は回避される。選択の放棄という、甘美な囁き。

 だが、維織の気持ちはどうなる。

 瞼の裏には今でも一年前の聖夜に見た光景が焼き付いている。淵のギリギリまで水を張ったような彼女の表情も、痛切な悲鳴も全て覚えている。自分はあのとき、確かにこの口で言ったのだ。君は俺が飛び立たせると。維織が囚われていた鎖から解き放つのだと。あの街で自分と出会ってから、維織は何度も悩み、本来であれば必要のなかった傷を無数に心に刻みつけてきたというのに。その果てに生まれた願いを、一方的に反古として切り捨ててしまっていいはずがない。

 これが、折れそうな心を唯一支える、誓いを守る騎士としての信念だった。

「はぁ……イタロウ君。部外者面を決め込んでいるようだが、君にだって責任はあるんだ。誘拐犯として世間を賑わせたくないんだったら、君からも何か言ったらどうだ」

 維織のだんまりに痺れを切らしたのか、ねめつけるような眼光が伊太郎へと向く。自分はその立場にないと言わんばかりに、その視線を真っ向から受け止めた。三島は驚きに片眉を吊り上げ、苛立たしげに犬歯を剥き出しにした。

「君もどうやら……いや。予想通り、社会の道理というものが分かっていない愚か者のようだ。本当は、お嬢様の意志に委ねたかったが。やむを得まい」

 動く気配。反射的に、三島の行く手を阻むように前に出た。

 その時。

 どさりと耳に残る嫌な音を立てて、維織の体が倒れた。

「維織!」

「どけっ」

 振り返った間隙に胸に強い衝撃を受け、身体が大きく揺らいだ。三島は俊敏な動作で縁側に腰を下ろすと、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す維織を掻き抱いた。

「熱い……お嬢様。失礼します」

 汗で張り付いた前髪を撥ね退け、小さな額に手を添える。阻む気が無いのか、その気力すら失われているのか、維織は抵抗もせずそれを受け入れた。

 その光景を伊太郎は、呆然と立ち尽くしながら見ていた。三島の来訪によって、すっかり失念していたのだ。維織の様子がいつも違ったことに。

 心拍数が跳ね上がる。不意に息苦しさに襲われ、伊太郎は膝から崩れ落ちた。昼間の悪夢が腹の底から何かを押し上げてくる。喉元を押さえ、懸命にそれを抑えつけた。

「酷い熱だ。よもや、知らなかったなんて言うつもりは無いだろうな、クドウ」

 地面に這いつくばる男を冷え切った目で眺めつつ、三島は吐き捨てるように糾弾した。浸み込むような侮蔑の眼差しを背に受けるのを感じたが、何を言い返すこともできず、伊太郎は力なく三島を見上げた。

「全く、この一大事に何をしているんだか。まあ、いい。所詮、君はその程度の男だということだ。そこでゆっくりしているといい。後の処断は追って知らせるから、せいぜい見つからないようにコソコソ逃げ回ることだな」

 愉悦交じりの宣告。三島はその細身に似合わぬ膂力で維織を抱え上げ、足元に積まれていた薪の小山を伊太郎に向け蹴り放った。鋭い痛みが頬を走る。伊太郎が床板を手摺代わりに立ち上がるのと同時に、薄く目を開いた維織を視線が交錯した。

「……イタロー、くん」

「維織っ」

「お嬢様、暴れないで下さい!」

 こちらへと伸ばされた手。三島の上体が揺れる。短い悲鳴は誰のものだったか。維織の体が地面に落ちた。土くれを蹴り飛ばし駆け出す。眼前に大写しになった三島の顔が驚愕に歪む。勢いを乗せて振り抜いた右の拳が、頬骨を強かに叩いた。大きく息を吐いたとき、痩身の男が地面を転げ土煙が舞った。

 骨の髄に響くような鈍い痛みが腕を伝う。全身を土埃で汚した維織へと即座に駆け寄ると、再び彼女と三島の間へと回り込んだ。

「やってくれたな、クドウ……低俗な連中はこれだから嫌なんだ。困ったら暴力。どうしてすぐ、人間であることを放棄しようとするかね」

 三島はよろよろと身を起こし、口の端から引かれた赤い筋を親指で拭き取る。スーツに満遍なくあしらわれた砂埃を叩き落すが、まだ脳を揺さぶられた衝撃が残っているのか、その足元は酩酊しているかのように覚束ない。

「ひとつだけ、訊いておこう。お前は旅と称して、目的もなくふらふらと遊んでいるらしいじゃないか。宿はテント。飯はその辺りの草だとも聞いた。見たところお嬢様に変わりはないようだから、どうやらお前の大好物の草を食べさせてはいないようだが」

「……何が言いたい」

「お前にとってもこの話は悪くないんじゃないのか、ってことだよ。自由気ままな諸国漫遊のご旅行に、はっきり言えばお嬢様は荷物でしかないだろう? そりゃ、今だけはお嬢様の金で僅かばかりの贅沢を楽しんでいるのかもしれないが、そんな生活はいつまでも続かない。私はてっきり、お嬢様の我儘に嫌々付き合っているもんだとばかり思っていたがな」

「そんなことは、ない。俺は、維織を自由にしてあげるために一緒にいるんだ」

「いいや、同じだ。こんな生活、お嬢様にとっては何の意味も無い。お前とお嬢様は住む世界が違うんだ。どうだ? 今の生活が惜しいのなら、NOZAKIからまとまった金が引き出せるよう、私が交渉してやってもいいぞ」

「俺は、金のために一緒にいるわけじゃない」

 暫しの黙考。三島は眼鏡の蔓を持ち上げ、口の端を持ち上げた。

「……そうか。どうやら旅生活というのは、なかなかの女日照りらしい」

 金ではないのなら、女。野卑な発想に、視界がぐわりと撓んだ。

 立ち上がりかけた伊太郎を留めたのは、背中から聞こえた弱々しい声だった。

「だめ……イタロー、君……」

 上気した顔を苦しそうに歪める。体力が下降線を辿っているのは、一目で見て取れた。

 音も無く、褐色の地面に斑点模様が生まれる。雨が渇いた庭土を濡らす。最初は遠慮がちだったそれは、見る見るうちに勢いを増し三人を包み込んだ。

 もう、言うことは無い。伊太郎は維織を抱き上げると、土の匂いが立ち込める庭先から避難するべく縁側へと歩き始めた。三島が追い縋る気配は無い。

「せいぜい、最後のお愉しみに興じることだ」

 背中に投げられた言葉。湿った薪を踏み割ることで応えとした。

 車のエグゾースト・ノイズが大きく聞こえ、それはすぐに遠ざかっていった。

 

 

 

 

 

 

 帰宅した翁に事情を告げ、維織は即時に客間へと運ばれた。十二畳ほどの静謐な和室は平時は使われていないのか、部屋を彩るものと言えば質素な作りの卓袱台くらいのもので、ひっそりと佇む床の間も白い壁紙を剥き出しにしている。染みの目立つ障子の向こうから、唐突に振り出した驟雨の音が届いていた。

 客間に到着してからもしばらくは苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた維織は、今は疲れ切った相貌で眠りに落ちている。安らかなはずの寝顔は、怯えるかのように不安に揺れているように見えた。

 額に乗っていた濡れ手ぬぐいを手に取る。生温くなったそれを洗面器に張った冷水に曝し、絞り、また額へと戻す。ほんの少し、表情が和らいだように感じた。

 村に医者はいない、という翁の話を思い出す。近くの診療所は電車で三駅とのことだが、電車は自分たちが乗ってきたものが折り返しで終電。村に車を運転できる人はおらず、そもそも車が無い。雨という悪条件を差し引いても、人を抱えて歩く距離ではないという。八方塞がりとはまさにこのことだと、頭を抱えた。

 暗い室内に維織の白い顔が映える。それはまるで、あの夢の陰惨な光景が近い未来であることを示しているかのようで。何かが臓腑からせり上がってこようとするのを、必死の思いで抑えつけた。

 

 

 

 

 

 

『いろいろな所って、全国?』

 コーヒーが細い喉を通る。喫茶店は心地よいざわめきに包まれていた。全国、という部分は、僅かだが声が弾んだようにも聴こえた。

『そうだよ。秘境と呼ばれるところにも行ったし、この街よりももっと田舎の町にも寄ったりもした』

『流れる雲みたい……うらやましい』

 ふわふわしていて、掴みどころがない。伊太郎にとっては彼女の方がよほど雲のように思えたが、話がややこしくなりそうなので胸の内に留めておくことにした。

『維織さんがうらやましいと思う程、良い物じゃないよ。自給自足だし、大変さ。でも、それは自分が望んだ事だから、今の生活に不満は持ってないけどね』

 野草や茸、木の実といった主食のラインナップに、暑さも寒さも凌げない愛居。冬場はまだしも、夏場は着ている自分でもうんざりするような悪臭を放つ一張羅。もちろん願ったのは何にも縛られない自由な生活であって、人権国家にあるまじき水準の生活を謳歌したかったからではない。

 何かを欲するということは、何かを手放す覚悟をするということだ。

『……ねえ』

『ん?』

 読んでいた本をぱたりと閉じ、維織は真っ直ぐとこちらを見つめていた。

 維織は決してポーカーフェイスではない。アクションこそ控え目ではあるが、四種の感情は表出している。准に告げたときは、よく気付いたねと目を丸くされたことを思い出した。

 彼女の様相の変化を嗅ぎ取り、居住まいを正した。

『私に教えて。貴方がこれまで旅して来た話を。見て感じた事を。貴方だけが知っている世界を。本じゃ知る事ができない……貴方の物語を私に教えて。どんな事でも、きっと私では体験する事ができない事だから』

 以前から気にかかっていた、彼女の言葉の節々に現れる小さなほつれ。世間との関わりを断って、ガラス張りの檻の向こうから話しかけられているような錯覚。そんな話をするとき、決まって維織の目は孤独に揺れた。

 ――ああ、そうか。喫茶店に通い詰めていた理由。思い出した。

『ああ。いいよ。じゃあ――』

 その瞳の、意味が知りたかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 一段と激しさを増した雨音で目が覚めた、ように感じた。

 知らぬ間に、坐したまま微睡んでいたらしい。悪夢を見ずに済んだのは、いつ以来だったか。

凝り固まった首を一周させると、喉から小さな呻きが漏れる。その声に呼応するように、維織の長い睫毛が揺れた。

「……イタロー、君」

「あ……ごめん。起こしちゃったな」

 ゆるゆると首を横に振る。部屋は薄暗いままだったが、その頬には少しだけ朱が戻ったように見えた。胸中を埋め尽くしていた澱が、僅かに消える。

「具合は?」

「大丈夫。まだ少し、ぼーっとする、けど」

「そっか。まだ、安静にしてた方がいい」

 起き上がろうとする維織を押し留める。

 彼女は抵抗せず床に就いたが、すぐに困ったように眉を下げた。

「……おなかが空いて、眠れない」

「そう言われると、俺も……今、何時だろ」

 周囲を見渡したものの、時計は見当たらない。

「ちょっと、爺さんに訊いてくるよ」

「……いい。今は、一緒に、居て欲しい」

 体の向きを変えかけたところで、シャツの裾を掴まれる。分かった、と小さく頷くと、そこは雨音だけが響く静寂が舞い降りた。伊太郎は何度か口を開こうとしたが、何を話しても上辺だけの会話になってしまいそうな気がして、その言葉を飲み込んだ。

 沈黙を破ったのは維織だった。

「……三島は、お父様と一緒にいるところを、何度か見たことがある。若いけど優秀だから、私のことも支えてくれるだろう、って」

「けど、お父さんも人が悪いな。世納さんなら、もっと落ち着いて話もできたのに」

「世納は……私の肩を持ってしまうから」

「でも――」

 三島のやり方は間違っている。言いかけて、飲みんこんだ。

 体裁こそ懐柔、提言の様相を呈していたが、一つずつ退路を潰していくようなそれは維織の意思の有無を問わないものだ。彼女の懊悩を、そんな強引な方策で振り出しに戻すのは、納得できない。

 ただ、所詮は感情論。

 正義の御旗は三島にある。

 そして選択権は、自分ではなく維織に委ねられている。

 自分が酷く無力な存在に思えた。

「イタロー君」

 名を呼ばれ、我に返る。真っ直ぐにこちらを見つめる双眸。

「貴方は……どう思うの?」

「どう……っていうのは?」

「三島の言っていたこと。お父様のこと。私自身のこと……私はまた、檻の中に戻らなきゃいけないの?」

 息が詰まる感覚。雨音が一段と強く、耳朶を打つ。

 あの頃の――遠前町に逗留していた頃の自分なら、自信を持って否定できたのだろうか。だとすれば、一体何が変わってしまったのか。

 わからない。わからない。

「俺は――」

 何かを言わなければ。その一心で、かさつく唇を動かした時。

 襖の向こうから足音が近づき、翁の呼び声が聞こえた。夕餉の支度が整ったこと。維織の容体の確認。安堵の溜息が、知らず漏れ出た。

 声は維織の耳にも届いていたのだろう。振り返ると、僅かな間を置き小さく頷く。

 彼女を布団から起こすときも、連れ添って広間へと誘う間も、その翳差す相貌を見ることはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 広間には十数名の老男女が囲炉裏を囲んで集合している。翁は維織の体調を鑑み解散しようかと気遣ってくれたが、彼女自身がそれを固辞した。

 宴席を彩る山の恵みがずらりと大皿に並ぶ。山菜の天ぷら、鰆の塩焼き、牡丹鍋、そして地酒。どれもなかなか口にする機会のない豪奢な御馳走だったが、肝心の食欲が湧いてこない。

 状況は何も変わっていない。三島は当然、あのまま引き下がるつもりはないのだろう。これからのことを考えようとすると、胃の辺りがじくじくと疼いた。

 最初こそ、村民たちが維織に慮り粛々と大皿を突っつく座談会の様相を呈していたが、彼女用に作られた卵粥が空になる頃には、矢継ぎ早に旅の話を訊ねる盛宴へと変化していた。よほど客人が珍しいのか、旅人が珍しいのか、話の節々で笑ったり驚いたりと忙しない。道中の話をすることには慣れていた。街の居酒屋ではこの話術が飯の種になる。運が良ければ宿を恵んでもらえることもある。

だが今日だけは、オートマティックに動く弁舌とは裏腹に、頭の片隅は常に冷え切っていた。

『私に教えて。貴方がこれまで旅して来た話を――』

ふと、先ほど見た夢の光景が脳裏にフラッシュバックする。

維織は静かに宴の喚声に耳を傾けながら、広間の中心に坐する囲炉裏の熾火に視線を落としている。血色は快方に向かっているように見えるが、その眼差しはどこか遠い所を見ているように感じた。形相こそギリギリのところで平静を保っているのかもしれないが、蓋を開ければ中身はぐちゃぐちゃに散らかっている。恐れていた想像とは違う形で、容易に二人の関係は崩れようとしている。

いや、違う。

俺が崩したのだ。

維織との誓い。維織を縛る鎖を切り離して、どこまでも一緒に行くと契りを交わした聖夜の記憶。自分は、己惚れていたのだ。あの妙にノスタルジーを匂わせる街で、企業の侵食から商店街を救い、低迷していた野球チームに活気を戻したヒーローとして持て囃されるうちに、本当に自分が超人になったかのように錯覚してしまったのだ。

 ――自分を縛る鎖を引きちぎる事ができるのは自分しかできないんだ。

 いつだったか、維織に告げた言葉が鉛のように重く胸に響く。

 半年あまりの同棲期間は、彼女にとって夢のような時間であると同時に、心痛伴う葛藤の時間だったのだろう。維織の知人を二人しか知らなかったが、その背中にはきっと多くの人々の視線が常に注がれていたはずだ。三島もまた、その一人だったのかもしれない。自分がやっていたのは、そんな人々の深慮を無視した、ただのヒーローごっこだったのではないか。鎖を切る、引きずる。そんな浅薄な言葉で、彼女の視界を優しく、残酷に覆ってしまったのではないか。

ああ。なんて、滑稽なんだろう。

 誰かが注いだ清酒を一飲みに呷る。わぁっと歓声が沸いたところで、すみませんが今日はこのあたりで、と告げた。

 辺境の住民たちは不満げに唇を尖らせたが、すぐに事情を呑み込んだのか、口々に維織への見舞いの言葉を述べ、その場は散会となった。

熾火がひとつ、ぱちりと音を立て真っ二つに割れる。朱に染まった断面は一瞬眩く広間を照らし、やがて静かに色を失った。

 

 

 

 

 

 

『道が……見えるの』

 夢を見ている。

穏やかに晴れたあの街の公園で、彼女は本を読み、伊太郎はぼんやりと流れる雲を眺めていた。

 何がきっかけで、そんな話になったのか。維織はいつものようにゆっくりと、しかしはっきりとした口調で、寂寞の時間を繋ぎとめるように呟いた。

『その女の子は決められた道が……子供の頃から見えてた。それは真っ直ぐで、そして霧一つなくて、道の終わりまではっきりと見える。何も変わらない。何も変えられない。そんな道を自分の足じゃなくて、誰かに背中を押されてその女の子は歩いていた』

 誰が聞いても分かる、拙い例え話。

自分は、腹を立てていたのかもしれない。

 自身の話を他人事のように俯瞰した物言いをする彼女に。

『その女の子は……待ってるのか? 自分じゃ何ともならないから、他人の手を使って別の道を歩きたいと思ってるのか?』

『そう……かも』

『じゃあ、その女の子は間違ってる。誰かの手を借りる事は間違ってない。だけど、全てをその手に委ねる事は、ほんの少し道が変わっただけで、真っ直ぐで終わりが見える道には変わりがないんだ。だから、その道を変えるのは自分でなければならない』

 何も背負っていない男が嘯く。酷い言い草だと思った。

 彼女はずっと、助けを求めていたのに。

『そうじゃないと――』

『おしまい……戻ろう。コーヒーが飲みたい』

 本を閉じベンチから立ち上がると、振り返ることもなく歩き始める。

 虚空に呑まれた言葉が何だったのか。今となっては、辿る術もない。

 

 

 

 

 

 

 断続的に続く、静かに時を刻む雨音が目覚まし代わりに聞こえた。障子の外は薄暗い。

 想像以上に酔いが回っていたのか、部屋に戻るや否や強烈な眠気に襲われた。なんとか寝支度を整えることはできたようで、隣では維織がこちらに身を寄せながら小さな寝息を立てていた。こんな状況なのに、手間を掛けさせてしまったのかもしれない。その頭をそっと撫でると、少しだけ表情が緩んだ、ような気がした。

 翁は広間で朝餉の支度をしていた。申し出るよりも早く、旅人さんさえよければもう一晩泊まるか、と勧めてくれた。この近辺の山道は地盤が不安定とのことで、驟雨による土砂崩れが多発するらしい。三島の動向こそ気になるが、未だ不安の拭えない維織を連れて雨路を征くメリットは少ない。素直に厚意に感謝することにした。

 広間には味噌の香りが充満している。何か手伝えることはないかと訊ねると、もう間もなく準備はできるから、維織を起こしてあげたらどうかとやんわりと断られた。やむを得ず、元居た部屋へと蜻蛉返りすることになった。

 ひんやりとした廊下の板張りの感触。右手には、ガラス越しに雨模様が見える。雨の勢いは思ったよりも強く、大小さまざまな水溜まりが庭一面に広がっている。いつまでもこの家に世話になるわけにもいかないが、もう少しだけ、この雨が続いて欲しいと願った。

「……イタロー君?」

「うわっ」

 背後から唐突に名前を呼ばれる。振り返ると、薄く開いた襖の間から維織がこちらを覗いていた。

「ああ、びっくりした。おはよう、維織。体調はどう?」

「おはよう……うん、もう大丈夫」

 原因が解明していない以上、油断は禁物ではあったが、彼女の穏やかな声色に一先ず胸を撫でおろした。

「まだ、雨?」

「ああ。今日はここで、もう一晩お世話になろうか。この辺りは山道ばっかりで、足元も不安定らしい」

「うん……わかった」

 雨音が二人の会話の間隙を埋める。昨日の続きを話さないといけないのだが、声に出そうとすると、それは形を失ってばらばらと崩れてゆく。伊太郎は結局、曖昧に微笑むことしかできなかった。

「飯、出来たらしいからさ。呼びにきたんだ」

「……お腹すいた」

「病み上がり……だからね。じゃあ、行こうか」

「うん」

「朝食はなんだろうな。昨日の牡丹鍋、まだちょっと胃もたれしてるかも」

「私は……大丈夫」

 自然な会話だと思った。視線さえ合っていれば。

「イタロー君……」

 強引な駄弁を破る、小さな呟き。独り言のようにも聞こえた。

「ご飯食べ終わってしばらくしたら、少しだけ……話せる?」

 その声は、張り詰めた一本の糸を連想させた。

 また、後手を取ってしまった。あの聖夜のことも、昨日のことも、常に問題を先延ばしに、人任せにしている。そのツケが、全て返ってきているようだった。

 曖昧な首肯。ありがとう、と口が動いたように見えたが、一段と激しさを増した驟雨がそれを掻き消した。

 

 

 

 

 

 

 飯の味はよく覚えていない。翁の話も、ほとんど上の空で受け答えしていた。維織は先に部屋へと戻っている。

 鬼が出るか蛇が出るか。後片付けを手伝った後、伊太郎は自室の前に立った。

「維織。入るよ」

 襖を開く。維織は卓袱台に向かっていた。

「取り込み中?」

「ううん。ちょうど、終わったところ……」

 朝は気が付かなかったが、昨日から間借りしている部屋には甘い香りが漂っていた。伊太郎が酩酊して寝ている間に、維織はどうやら風呂を借りたようだ。

 上質なミルクのような香りを鼻腔に感じた瞬間、胸がどくんとひとつ大きく脈打った。手に脂汗がじんわりと滲む。興奮。有り体に言えば、欲情。こんな状況なのに、いや、こんな状況だからなのか、本能が疼くのを感じた。

「手紙、書いてたのか」

 揺れる意識を消し去るように話し掛ける。小さな天板の上に散らかる便箋は、維織の小さな旅荷物のひとつだ。

「相手は、友達のお嬢様?」

 合気道百段。いつか聞いた話。維織は首を横に振った。

「はずれ。正解は……准ちゃん」

「准?」

 それは、とても懐かしい響きだった。

 快活なメイド服の少女と、あの喫茶店の落ち着いた内装が脳裏に蘇る。維織は静かに読書に耽り、准がコーヒーを運んでくる。伊太郎はただそれを眺めながら、時たま維織に茶々を入れ、准にお灸を据えられる。客が他にいなければ、三人で他愛も無い話に花を咲かせる。

 今は遠い、何も知らなかった平穏な日々。

「懐かしいな。ずっと文通は続けてたのか?」

「お別れするとき……准ちゃん、寂しそうに見えたから」

「そっか。二人は、親友だもんな」

「うん……今まであったこととか、これから行くところを書いて……」

 これから行くところ。今の手紙には、どんな言葉が記されているのだろうか。

「アイツ、元気にしてるのかな。まあ、返事は受け取れないし、分からないか」

 旅人に手紙が届くはずも無い。しかし維織は、少しはにかみながら首を横に振った。

「ううん。たまに、電話してるから……」

「えっ、そうだったの?」

「うん。公衆電話からだけど。准ちゃん、相変わらず元気そう」

「そっか、相変わらずか。どんな話をするんだ?」

「手紙とは逆に、准ちゃんの近況報告。大抵、准ちゃんがずっと喋ってる」

「アイツの電話、長そうだしな」

「うん……長くなっちゃう。腕と耳が痛くなるけど、大丈夫」

 一方的に話し続ける准と、時折相槌を打ちながらそれを聞く維織の双方の姿が、容易に想像できた。

「もうバイトも辞めたんだよな。今、何してるのかな」

「大学を卒業して、最近は……本格的に、服をデザインしてるって」

「そういえば……アイツ、そんな夢があったんだったな」

 いつだったか聞かせてもらった准の夢。一流のファッションコーディネーター。彼女よりも着実に歩みを進め、しかし人生を自由に楽しんでいる人を伊太郎は知らなかった。自分とは異なり、准の毎日には何かしらの意味があった。伊太郎や維織がいなくなっても、それは彼女の人生に大きく影響を及ぼすものでは、無かったのかもしれない。

 俺の夢とは、何だっただろうか。

 聖なる誓いを立てた日。維織が笑えるまで守り続けると誓った日。あの頃の自分には夢があった。夢は誓いだ。誓いは呪いだ。二人を繋ぐ鎖をじわじわと侵食し、外側から錆びさせてゆく呪い。自分の夢は、最初から叶わないものだったのかもしれない。

 維織の夢が気になった。以前の彼女は、閉じられた世界から解き放たれることを待っていた。籠に繋がれた不自由な空の下で、自由な世界を夢見ていたのだ。だからこそ、解き放ってやると大言壮語を吐いた伊太郎の言葉に視界を奪われたのだ。結局この一年で出来たことと言えば、その鎖を伸ばしてやることだけだった。

 それでも今、彼女は自由の中に居ると信じていた。

 少なくとも、昨日までは。

「なあ、維織」

 だからこそ、

「ここまでに、しないか」

 その言葉が絞り出されたのは、きっと必然だったのだ。

 横っ面に、視線。伊太郎はそれを正視しようとはせず、僅かに開けたままになっていた襖の間から、軒先に降りしきる驟雨を眺めていた。

 雨音が支配する沈黙は、永遠に続かのようにも思われた。窒息してしまいそうなほどに圧縮された空気。

 幾許かの間を置いて、維織は震える喉を動かした。

「……どうして?」

 どうして、そんなことを。

 賽は既に投げられている。見開かれた瞳が心を抉る。だがもう、これ以上の猶予は残されていない。

「俺に……君の鎖を切るだけの力は、無かった。本当に、すまない」

「イタロー君……」

 罵られるのか。軽蔑されるのか。それとも、泣き出されるのか。

「いつか、こうなる日が……来るような気が、してた」

 自分でも驚くほど冷静に審判を待ち受けていた伊太郎は、気持ちを押し殺すようにゆっくりと紡がれる言葉に、息を呑んだ。

「見たことの無い世界を見ること。太陽の暖かさ。そよぐ風の匂い。遷ろう四季の眩しさ。それに……イタロー君が、隣にいてくれる喜び。全てが、本では得ることができない、新鮮な色をしてた」

 閉じた瞼の裏。一年余りの短い時間、二人で過ごした極彩色の日々。

「少しずつ、笑うことの意味が、分かるようになった。ずっとこんな風に、二人で旅ができたらいいって……思ってた。だけど、気付いてしまった。貴方の顔から、徐々に笑顔が消えていってることに」

 その一枚一枚の写真を、宝箱に仕舞い込むように、そっと撫でる。

「さっきイタロー君は、私に謝ってくれた。けど、違う……謝るのは、私の方。ごめん。貴方の、鎖になってしまって」

「違う。維織は、悪くないんだ。俺が、俺が無力だから!」

 このままでは、彼は歩き出せなくなってしまうから。

 維織は、堰を切ったように自責の念を吐き出そうとする伊太郎の唇に、人差し指を立てた。

「この話は……おしまい」

 歯を食いしばり俯く彼を、維織はそっと抱き留める。

「戻ろう。元の、道に」

 伊太郎の肩は、小さく震えていた。

 浅く上下する、何よりも安心するその広い胸に、顔をうずめながら。

「今まで、ありがとう。イタロー君……」

 維織は、夢から醒める呪文を詠った。

 

 

 

 

 

 

 淋漓たる雨が身体を濡らすのも構わず、伊太郎は庭先で一人立ち尽くしていた。

 広間では今日も宴席が行われているのか、時折わっと沸く歓声が聞こえる。少しやることがある、と曖昧な理由を付けて辞した二日目の宴席。維織はああいう場は苦手だろうと思っていたが、それは杞憂だったようだ。彼女は、自分が考えているよりも、遥かに強い。庇護を求める小さな雛だとばかり思っていた自分へと、嘲笑が漏れた。

 なんてことはない。彼女を籠に押し込んでいたのは、俺だ。弱いのは、俺だ。

 彼女は気丈だ。別れの言葉を呟いてからも、泣くことも無く、ただ黙って抱擁を続けた。それに引き換え。何を言うこともできず、抱き締め返すこともできず。いっそこのまま雨に溶けて消えてしまえばいいと、本心から願った。

 明日か、明後日か。三島は早いうちにまたやってくるだろう。そこで維織を引き渡して、二人の旅は終わる。一年あまりの旅路。結局、意味はあったのか。誰も答えてくれない疑問ばかりが、浮かんでは消え、また浮かぶ。

 厚雲を敷き詰めた夜空を見上げる。容赦なく顔を打つ冷たい霖雨が、火照った身体に浸み込んでいくように思えた。

「イタロー君……?」

 背後からの声。廊下の薄暗い照明の下、維織が呆然とこちらを見ている。手にはお盆に乗せられた数枚の小皿があった。宴席の料理を取り分けてくれていたのだろう。

「宴会は、もう終わったのか?」

「うん……それより、早く体を拭かないと」

 覚束ない足取りで縁側に座り込む。部屋に戻った維織は、タオルを持ってすぐに戻ってきた。

「ひとつだけ……聞いてもいい?」

 濡れた子犬のように髪を拭かれている時、タオルの向こうから声が聞こえた。

「後悔、してない?」

「まさか。してるわけ、無いだろ」

 よかった、という呟きは短いものだったが、維織の安堵が滲み出ているように聞こえた。

 本心は、している。悔恨の念は深く根差していたが、それは胸の奥に仕舞い込んだ。

「……服」

「えっ?」

「服、脱いで。全身、ずぶ濡れだから」

 タオルを伊太郎の頭に残したまま、維織は部屋に戻り灯りを消した。

 

 

 

 

 

 

 障子越しの薄明かりだけが差し込む暗渠に、維織の白い肌が浮かぶ。

「本当は、このまま夢が続けばいいと……思ってた。だけど、イタロー君が言った通り。自分の鎖を切ることができるのは、自分だけだから。思い出と枝折を糧にして、私は、もう一度、自分の羽で飛んでみる。だから……その一歩を踏み出す勇気を、私に与えて」

 維織は微かに踵を浮かせ肩に手を乗せると、迷わずに唇を重ねた。少しの間を置いて、侵食した舌が絡み合う。雨音だけが響く室内に、荒い吐息が混ざった。長い長いキス。どれだけの時間、そうしていたのか。どちらともなく離れた唇の間を、一筋の糸が煌めいた。

 熱に浮かされたような表情で男は衣服を脱いだ。部屋の隅に投げ捨てられたシャツを見て、維織は眉尻を下げた。

「……服。皺になる」

 男の顔は、泣きそうなまでに歪み、そして目を閉じたまま微笑んだ。

「……いいよ」

 二人の影は一つになり、縺れるように闇へと溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 聖夜の丘陵。遠前町の淡い煌めきを背景に、維織は祈るように胸の前で両手を組んでいる。

『イタロー君……私……私、野崎維織は……貴方と一緒に行きたい。もう、離れたくない。離れたらきっと……死んじゃうよ』

 追憶の中で、伊太郎は思い出していた。

 以前の維織は、こんなにも脆く儚げであったこと。

『私は間違ってるのかもしれない。イタロー君が言ってくれたように、何もかも背負って飛べる翼を持っているのかもしれない。でも私は鎖を引きちぎって前に進みたい。貴方と一緒に……お願い……私を連れていって』

 自分の使命は守ることではなく、彼女の大きな翼を広げるのだということ。

『ああ、わかったよ。維織さん。君は俺が飛び立たせてあげる。俺がどこまでも君を連れて……』

 そして、もう一つ。隠すように押しやっていた、自分の気持ち。

『どこまでも、一緒だよ維織さん』

 維織を、愛している。

 

 

 

 

 

 

 部屋に差し込む弱い光で目が覚めた。雨音は未だに耳についているが、その勢いは昨晩に比べれば弱まっている。

 隣には、一糸纏わぬ姿の維織が安らかな寝息を立てている。伊太郎は細心の注意を払い音を立てぬよう布団から抜け出すと、案の定皺だらけになっていた服を着こんだ。湿り気はさっぱり抜けていない。

 全身をぬったりとした倦怠感が包んでいる。雨に打たれていたためか、それとも昨晩の情交の名残か。ふらつく頭に手を添えると、僅かに熱を帯びていた。

 広間には昨日と同じく味噌の香りが漂っていたが、翁の姿は見えない。囲炉裏の前に残された紙切れを拾い上げる。雨が落ち着いている間に用事を済ませてくるから、食事は好きにとって欲しいと書き残されていたものの、食欲が湧いてこない。維織が起きてからにしよう。伊太郎は玄関へ回った。

「遅いお目覚めだな、クドウ」

 そこには――三島がいた。

 開け放たれた扉の向こうに、黒塗りのバンが見える。そして、スライドドアの前で周囲を威圧するように見回す男が二人。五分刈りの大柄な中年男と、金メッシュの長髪を結い上げガムを咀嚼する若い男。いずれもスーツを着込んでいるが、その相貌は、お世辞にも穏やかな人相とは言い難い。

「お友達か?」

「まあ、そんなところだ。また殴り返されでもしたら堪らないからな」

「その心配はいらない。維織は……帰るよ」

 左頬を腫らしたままの三島の眉がぴくりと吊り上がる。そしてすぐに莞爾としてにやりとほくそ笑んだ。

「そうか。少しは、社会の道理というものが理解できたみたいだな」

「そうかもな。確かに、逃げ出すのは良くないよな」

 ぽりぽりと頭を掻きながら、伊太郎は極まりが悪そうに答えた。

 当然、反論が来ると予想していたのだろう。三島の眉間に皺が入る。気にせず、続けた。

「ああ、そういえば。お前に、謝らないとな。結局大事ではなかったといっても、介抱してくれようとしてたヤツをいきなり殴っちゃいけないよな。悪かった」

「……頭でも、打ったのか?」

「いいや。ただあの時は、色々と参っててね。あと、いくら俺が不甲斐なくても、人の彼女をいきなり抱き上げるのはマナー違反だろ。そりゃ殴られても文句言えないって」

「キサマ……いい加減に」

「それと! 訂正してもらいたいことがある」

 高らかに告げるのと同時に、バンの前にいた男たちがすわ何事かとこちらを凝視する。

「こんな旅は維織にとって何の価値も無い、お前はそう言ったな。そんなことはない。彼女が初めて自分の意思で選んだ道が、その翼を大きくはためかせるための旅が、維織にとって無価値なはずが無い」

「な……何を、突然」

「維織が戻るのは、旅に嫌気がさしたとか、父親の窮地を救う切り札とか、もちろん社会の道理とやらに従うとか、そんなもんじゃない。もう一度、自分の力で飛び立ちたいっていう、彼女自身の意思なんだ」

 俺はバカだ。伊太郎は思う。

 いつの間にか保護者面をして、維織を守ることばかりを考えていた。鎖を断ち切ると言いながら、自ら新しい鎖に縛られてしまった。旅の目的も、自分自身の意思も見失って、ただ目先の平穏を望んでしまっていたのだ。

「イタロー君……?」

 三島の視線が伊太郎から逸れる。維織だ。

 彼女がこの場に現れたということは、離別の時が来たということだ。

 伝えたいことがある。

 ひどく今更ではあるが、一度も口にしたことの無い言葉があった。どうしてこれまで言って来なかったのか、理由は伊太郎にも分からない。タイミングの問題というわけでもないのは、もっと歯の浮くような台詞を多く言ってきたことから明らかだ。単純に、それを口にする勇気が無かったのかもしれない。

 丁度良い。維織が勇気を振り絞ったのだから、俺も男気を魅せなければ。

「おはよう、維織。ちょっとだけ、時間を――」

「待て、クドウ――これは、先日のお礼だ」

 腹部に、強い衝撃。上体が折れる。直後、後頭部に追撃。目の前を火花が散った。堪らず、三和土に倒れ伏した。同時に、男たちが土足で屋内へと上がり込む。

 ――まだだ。まだ、維織に、言わないといけないことが。

指先を動かそうとしたが、意識は深い渦へと飲み込まれていった。

 帳が落ちきる寸前、伊太郎の耳は確かに維織の悲鳴を捉えた。

 

 

 

 

 

 

 名前を呼ぶ声。夜が白んでいくように、徐々に意識が鮮明になってゆく。

 目を開くと、翁をはじめとした村人たちが玄関口に集合していた。生きてるぞ、と誰かが叫び安堵の輪が広がる。

 そうだ、維織は。

 慌てて跳ね起きて周囲を見渡すも、維織も、三島も、ガラの悪い男たちも、車ごと消失していた。雨はその勢いを再び強めている。立ち上がろうとして、体がぐらりと揺れた。どよめきが広がる。伊太郎を支えた翁が、酷い顔色だ、と呻いた。

 鏡を見るまでも無い。辺りは冷え切っているのに、汗が全身から噴出している。昨日から何も食べていないというのに、臓物は独立して生きているかのように絶えず顫動を繰り返している。視線は焦点が合わず、度の合っていない眼鏡を掛けているようにぼやけて見えた。伊太郎が記憶している限り、最悪と言って差し支えの無い状態だった。

 俺は、大丈夫です。そう宣言し、口々に不安を煽る病名を口にする村人たちを制した。今は自分の身体のことよりも、維織のことが気がかりだ。

 彼女の姿を見たものがいないかと問いかけると、誰もが首を横に振った。ただ、黒いバンが法外なスピードで村から出るのを見た者がいた。この村に車はないと言った翁の言葉を思い出す。三島しか、いない。

 先の道は川が決壊しちゃって、今は通れないから止めようとしたんだけどね――誰かの呟き。それはこの雨がくれた、最後のチャンスに思えた。

 翁から方向を訊くや否や、弾かれるように家を飛び出す。勢いが良かったのは最初の数歩だけで、すぐに足がもつれ地面に突っ伏した。痛みもあまり感じない。喫水線はとうに超えてしまっているのだろう。目を閉じそのまま眠ってしまいたくなる衝動を、咆哮で跳ね飛ばした。

 慌てて駆け付けた翁たちに手を借り起き上がるとき、泥土に見覚えのあるものが落ちているのが見えた。四葉のクローバーの枝折。維織の落とし物の泥を、指で拭き取る。

 ――思い出と枝折を糧にして。

 昨晩の言葉が思い出される。こんなところに落としていくなんて。ふと、湧き上がる疑念。俺が倒れ、慌てていたとしても、放り出したことに気付かず行ってしまうだろうか?

 知らず、笑みが漏れた。

 行けば、会えば分かる。口実が一つ増えただけだ。

 篠突く雨を、跳ね上がる泥を突き破りながら。

 伊太郎は再び走り出した。

 

 

 

 

 

 

 雨のカーテンの向こうに、山間に不似合いな黒い影が映る。

 車の奥には古びた山小屋が見えた。ログハウスと言えば聞こえは良いが、薄い板を組み置いただけのそれは、掘っ立て小屋と呼んだ方が相応しい。窓ガラスが嵌めてあったと思しき枠には半透明のビニール袋が張り付けてあったが、それも破れ雨風に煽られている。

 道が通れず、立ち往生と言ったところか。長雨も悪いことばかりではないと、伊太郎は汗と雨でずぶ濡れになった顔を拭った。

 マフラーからは白い排気ガスがリズミカルに吐き出されている。エンジンがまだ消されていないところを見ると、車内にも何人か残っているのだろう。

 ほんの少しだけ話をするだけでいい。一歩踏み出したとき、泥濘に足を取られ尻餅をついた。乳酸漬けでパンパンに張った筋肉を動かし起き上がる。周囲の気温は凍てつきそうなほどに冷え込んでいたが、脳髄は暖房を付けっ放しにした部屋のような熱が籠っている。

 内側にまで泥と水が侵食してぐしょぐしょと奇妙に鳴く靴を擦るように、一歩ずつ車へ近づく。助手席のパワーウインドウが僅かに空いていた。

「やっぱ、反対側に抜けた方が良かったんじゃねえか? 遠回りになるって言っても、この雨じゃ水なんざいつまで待ってても引かねえぞ」

「オレもそう言ったんスけどね。あのインテリ野郎がこっちだって言うから」

「慣れねえこたぁするもんじゃねえなあ。あーあ、さっさと帰りてえ。おい、タバコ寄こせ。もう切れちまった」

「えー。ラスイチなんスけど……あれ。兄貴、誰かいる」

 サイドミラー越しに、五分刈りの驚愕で引き剝かれた目と視線がかち合う。

助手席のドアはすぐに勢い良く開け放たれた。

「お前、あのスケのオトコか。何しに来た」

「ちょっと、話を。挨拶もさせてもらえなかったからな」

「雨の中ご苦労なこった。ただこっちは取り込み中なんだ。帰りな――おい、傘!」

 五分刈りは運転席に向けて吠えた。ドアを開く音の直後、慌てたようにビニール傘を男の上に掲げた金メッシュが現れる。ガムを地面に吐き捨てると、嫌悪感を隠そうともせず、泥に沈み込む足を持ち上げた。

「うわあ、グッチョグチョだ……最悪。兄貴、コイツ確かホームレスですよね。インテリが言ってた」

「だろうな。スケと話しに来たらしい」

「マジっスか? 走って? はー、すげーなアンタ。ベタ惚れじゃん。まあ、確かに良い女だったけど。超いい匂いしたし」

「維織は……どこにいる。車じゃ、なさそうだな。そっちの小屋か」

 スモークガラスを覗き込む。不意に、ぐいと左肩を掴まれた。ミキミキと音を立て、五分刈りの太い指が肉に食い込んでゆく。苦痛に顔が歪んだ。

「もう一度だけだ。帰れ」

「……嫌だと言ったら?」

 肩に掛けられた圧力が弱まり、

「こうするだけだ」

 左頬に鉄拳が炸裂した。額がガラスに当たり、反動で体が仰け反った。倒れ込みそうになる身体を、丹田に力を籠めなんとか踏み止まらせた。体格の良さは見掛け倒しでは無いらしい。左目の視界が白く濁る。口内に鉄錆の味がじんわりと拡がった。

「なんだコイツ。よえー。兄貴、オレにやらせてくださいよ。この仕事ラクなのはいいんスけど、退屈すぎてストレス溜まってるんスよねー」

「おう。なら、お前がやれ」

 傘を捨て、前に踏み出る金メッシュ。五分刈りはもうこちらには興味が無いといった相貌で、助手席に戻るべく伊太郎に背を向けた。

 ここだ。

 満身の力を込めて、金メッシュを横殴りに突き飛ばす。完全なる間隙。がら空きになった腹部をなぎ倒された金メッシュ、泥土を巻き込み地面に倒れた。驚く五分刈りの瞳。ドアに掛けられていた片腕が戻る。遅い。身を屈めたままの体勢から、悲鳴を上げる左足に力を籠める。収縮した全身のバネを瞬時に開放。右足。千切れんばかりに高く振り上げた。渾身のハイキック。強かに、男の顎を捉えた。伊太郎が独楽のように翻るのと、白目を剥いた五分刈りが地に沈んだのが同時だった。

 あと、二人。

 その瞬間、脇腹が揺れた。焼き鏝を押し付けられたような高熱。そして、間を置かずに走り抜ける激痛。全身の筋肉が一瞬で固着した。刹那の間、視界がネガに反転する。堪らず膝をついた。右脇からは、陳腐なフォールディングナイフの柄が外套を突き破り生えていた。

「テメェ、ナメてんじゃねーぞクソがっ!」

 体中を泥塗れにした金メッシュが口沫を飛ばす。ぐい、とナイフが捻られた。自分の物とは思えぬ悲鳴が耳朶にぐわんぐわんと反響する。突き飛ばそうと伸ばした右腕は空を切った。

「ホームレス野郎っ、調子に乗んじゃねーよ! テメェは、埋めても刻んでも誰からも文句言われねーって聞いてるぜ。選べよぉ、どっちがいいんだクソ野郎!」

 ただでさえ焦点の合わない視界に涙が滲んだ。下半身の感覚が薄れている。しかし脇腹の一点だけはじくじくとした熱を帯び主張を続けている。目を閉じればそのまま眠り込んでしまいそうになるように、目蓋が自然と落ちてくる。

「ああ、そうだ。もう仕事なんてどーでもいい。あの女をテメェの前で犯してやるぜ。たっぷり中出ししてから、女の前でテメェを殺してやるっ」

 その言葉は、萎えかけていた闘志を再び燃え上がらせた。

 左腕一本を支えに体を起こす。背中に車。寄りかかるようにずるずると足を立たせた。殴り合いに持ち込まれたら勝ち目はない。一撃で的確に仕留める。ぼやける視界の中心に金メッシュを映した。

 膝の力ががくりと抜けた。沈む身体。金メッシュはぎらぎらと目を嗜虐に揺らし、手負いの獣を制圧すべく前進する。

 射程距離。心を決めた。

 左手でナイフの柄を握る。大きく息を吸い、引き抜いた。千切れ飛ぶ肉。体内の臓物までも流れ出るかのような喪失感。叫び声はそのまま裂帛の気合となった。引き抜いた勢いで大きく横に薙ぐ。狼狽した金メッシュが身を捩って避ける。足元。どっぷりと水を吸った泥が、着地を拒んだ。目を大きく見開いた敵が傾ぐのを、伊太郎はスローモーションに見た。踏み込む左足が泥を噛む。ラグビーボールを持つように構えた右腕。半回転させながら、雨を切った。掌底が顎を、脳を縦に揺らす。金メッシュは潰れた蛙のような声と共に、今度は正面から泥土に潜った。

 あと、一人。

 もはや気力しか残っていない。まだ左手に握られていたナイフを捨て、車に体を預けながら小屋の入り口を目指した。焼けるように痛む脇腹は、動くたびにその存在を大音声に主張する。その声が響くたび、目の前が昏く点滅した。あと少し。自分に言い聞かせながら、扉を開けた。

 山小屋は資材置き場として使われていたようで、壁には多くの棚が備え付けられている。その一角に、維織はいた。裸電球の薄暗い灯りの中、両手両足を縛る縄と口元の猿轡が見えた。意識が無いのか眠っているのか、その瞳は瞑られたままだった。

 資材置き場といっても障壁になるようなものは存在していない。三島は頬を痙攣させながら、伊太郎の前に立ちはだかった。

「何の用だ……」

「お前……友達付き合い、考え直した方がいいぞ。あいつら、ちょっと血の気が、多すぎるんじゃ、ないか」

 伊太郎が一歩前に出ると、三島は一歩下がる。

「どいてくれ、三島……俺は、維織に、話が、あるんだ」

「いお……お嬢様は、お休みされているところだ。お引き取り願おうか」

「縛られて寝る、趣味が……あったなんて、知らなかったな」

 また、一歩。

 三島はジャケットの内側に手を差し入れ、黒光りする短銃を取り出しスライドを引いた。

「やめろ。それ以上近付くなら、う、撃つぞ」

「物騒だな……話を、させて、くれる、だけで、いいのに」

「だっ黙れっ! 本当に、撃つぞ!」

「さて……お前に、できる、かな」

 一歩踏み出す。三島は発狂したかのように癇声を上げ、トリガーを引いた。轟音と共に、身体が後ろ向きに倒れる。右肩が、丸太で思い切り叩かれたかのように痛む。呼吸をしようとして、口から血反吐がごぶりと漏れた。

 まだ、立てる。

 這うように体を反転させ、左手を頼りに起き上がる。硝煙の立ち上る銃口とゾンビのような緩慢さで立ち上がる伊太郎を交互に見ながら、三島は声にならない悲鳴を上げた。

 一歩を踏み出す。肩を押さえていた左手を握り込んだ。

「お前が……一番、楽勝だったぜ」

 息を止める。三島の目の端には涙が浮かんでいたが、情けはこれっぽっちも浮かんでこない。伊太郎は総身の力を籠め、その横っ面に裏拳を叩き込んだ。痩せぎすの男は糸の切れた人形のように倒れ込むと二、三度痙攣し、そのまま動かなくなった。

 これで、終わりだ。

「維織……」

 猿轡を外すと、その目は薄く開かれた。縄の結び目は固く、血と泥でぬかるんだ指では解けそうにない。小屋に入る前に金メッシュのナイフを捨てたことを思い出し、臍を噛んだ。取りに行かないと――そこまで考えたところで、意識の糸が途切れた。

「イタロー君!」

 仰向けに地面に転がる。膝立ちになった維織が、信じられないといった表情で見下ろしていた。

「維織……これ、忘れ物」

 胸元に入れていた枝折を摘まんだ。目の前で掲げようとして、それははらりと胸の上に落ちた。

「ダメ、だろ、これを……忘れちゃあ」

「イタロー君、喋っちゃダメ……」

「あと……もう、ひとつ」

 これまで感じていなかった寒さが、急激に体を侵食している。

 目蓋が重い。

 それでも、これだけは言わないといけない。

「維織……愛、してる……これだけは、どう、しても、言いたくて」

 ぽたぽたと、やけに温かい何かが頬を叩いた。

 驚いたように見開かれる維織の目から大粒の涙が零れていた。伊太郎は、初めて彼女の涙を見た。

 連続していた意識がぷつりぷつりと途切れ始める。限界が近いことを大悟した。

「約束……しよう、維織」

「やくそく……?」

 目を真っ赤に充血させた維織が、不思議そうに呟く。

「その、大きな、翼で、飛べるように、なったら……また、会おう」

 誓いを護持する騎士ではなく。

 その心身を一方的に案じる保護者でもなく。

 ただ一人の男として。

 その時こそ、どこまでも続く新しい旅の始まりなのだろう。

 意識が混濁する。もう、保っていられない。

 最後の炎が燃え尽きる、その一瞬。

「うん……約束」

 伊太郎は、彼女の笑顔を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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