彼女補完計画
(初出:2007年)
この頃は准が本当に攻略対象になるとは夢にも思わなんだ。
遠前町の夏。ここが日本のどの辺りに位置しているのかは知らないが、とりあえず北の方じゃないということはよく分かった。暑すぎる。太陽にギブアップしたい気分だった。まあ、認めてくれないだろうが。
夏も盛りだというのに、俺は未だに川原で生活していた。夏の日向のテントは酷い。サウナという域を凌駕していた。言い表すならまさに地獄だろう。ちなみに、あの周辺に木陰は無いので、山場にテントを移そうと思ったが、かったるいのでやめた。やぶ蚊とか多そうだし。
この暑さの所為か、最近は誰もテントを尋ねてこない。少し前までは、色々と差し入れを持ってきてくれたカンタ君といえば、「折角の夏休みはもっと有意義に過ごすでやんす!」とか言って家に引き篭もっている。将来が心配だ。
一度川で泳いで暑さを凌ごうと思ったが、その直後に俺は水着を持っていないことに気が付いた。仕方が無いので素っ裸になったら武美に見られた。ニヤリと意味深な笑みを浮かべられた。挙句の果てに通報された。俺は交番で泣き続けた。
そんなわけでテントから脱出を試みた俺は、冷房を求め商店街をさまよっていた。腕をだらんと前に伸ばしながらよろよろと歩くその姿はさながらゾンビだ。さっきから俺の方を指差してヒソヒソ話すオバサマたちの声が聞こえる。だが俺は気にしない、風来坊だからな。
「はぁ。この町にはコンビニは無いのか? あれほど、夏を凌ぐのに最適な場所は無いというのに」
俺は毎年夏になるとコンビニ巡りの旅をしていた。三日ほどのローテーションで、街のコンビニを巡回する。朝から夕暮れまで立ち読みをして過ごす。足腰は疲れるが気にしない。俺は風来坊だからな。
以前、俺が来る日を読まれ、臨時休業にされた事があった。俺は臨時休業というコンビニの暴挙に怒り、また少し反省してローテを四日おきに変えてみた。店員は泣いていた。そのうち『風来坊入店禁止』という張り紙をされたが俺は無視した。仁義無き戦い、このコンビニ戦争は警察の介入を持って終わった。チクショウ、国の犬め。俺は交番で泣き続けた。
「仕方が無い、なけなしの金をはたいてカレーでも食いに行くか」
暑い日は暑いものを食べて汗をかく。有名な話だ。だけど、熱い物を食べたら逆効果なんじゃないだろうか? 世の中に謎は尽きない。とりあえず古人の英知には従っておくが。
ついでにカンタ君にも久しぶりに会いに行こう。少しは大自然の下で遊ぶ事の楽しさを教えた方がいいかもしれない。カンタ君を外に連れ出したら、奈津姫さんも喜んで俺にカレーを奢ってくれたりするかもしれない。
それだ、それしかない。
自然に足取りは軽くなった。スキップだってしちゃうぜ。
カレーショップ『カシミール』の前、カラス越しに俺は客足を確認する。誰もいない。しめしめ、これなら話が進めやすい。俺は鼻歌を歌いながらカラス戸を引いた。
「こんにちは。奈津姫さん、カンタ君います?」
太陽に負けぬほど元気よく挨拶した俺、それを怪訝そうに見る奈津姫さん。動きが止まっていた。いつもなら、すぐに温かい笑顔で注文を聞いてくるというのに。まさか、俺のことを忘れたのか? 一糸の不安がよぎる。奈津姫さんと会うのも久しぶりだ、忘れられていても不思議は無い。ちなみに、俺は三日会わないと忘れる。
「やだな奈津姫さん、俺ですよ。九堂伊太郎ですよ。思い出しました?」
「いえ始めから覚えています。あなたと一緒にしないで下さい」
相変わらず奈津姫さんはキツイ。だがそこがいい。
「それはよかった。ああ、今日はカレー食べに来たんじゃないんです。カンタ君と遊ぼうと思いまして」
「今おじちゃんの声が聞こえたでやんす――あ、やっぱりイタローさんだ!」
「よぉカンタ君、元気にしてたか」
カンタ君に近付こうとする俺の前に、奈津姫さんが立ちはだかった。カンタ君は不思議そうな顔でお母さんを見上げている。奈津姫さんは鼻を押さえながら退こうとしない。俺は親心を察した。そりゃ子供が俺みたいな大人と遊びに行くのは色々と不安だろう。だが俺はこの町に来てから早四ヶ月、街の人たちからの信頼も徐々に集めてある。ハンサムメータだって四十は越してる。そろそろ信用してくれてもいいんじゃないだろうか?
「大丈夫ですって、ちょっとそこらで遊んでくるだけですから。な、カンタ君?」
カンタ君を見ると、なんとカンタ君まで鼻を押さえて後ずさりしてるではないか。なんということだ。少し会わない間に、俺たちの友情はその程度のものになってしまっていたのか。俺は溜息を吐いた。
――って、鼻?
「お願いですから、カンタと遊ぶ前にお風呂に入ってきてください!」
奈津姫さんが鼻を押さえながら言う。半ば悲鳴に近かった。いくらなんでもオーバー過ぎじゃないだろうか。
俺はカンタ君を見た。カンタ君はさらに後ずさった。嘘だろ? 俺は行き過ぎた冗談である事を願った。
「おじちゃん、クサいでやんすー!!」
現実は非情だ。カンタ君は家の奥へと逃げていった。俺はがっくりと項垂れ地面に手をつく。そんなに臭うのか、俺の体。自分のユニフォームの肩の臭いを嗅いでみた。仄かに臭う汗の臭い。だが悲鳴をあげて逃げるほどのものではない。俺は少し頭にきていた。
「そんな臭いますかね、俺の体」
「自分じゃ自分の臭いは分からないんですよ……九堂さん、最後にお風呂に入ったのはいつですか?」
「奈津姫さん、俺だって一応、清潔な生活を目指しているんです。二日前には入りましたよ」
「毎日入ってください。でも確かに、二日前なら普通はこんなに臭いませんよね?」
そういうことだ。きっとこの家族が臭いに敏感なだけ。俺はそう信じる事にした。
「あ、でもユニフォームを洗ったのは、ふた月くらい前ですね。って、奈津姫さん?」
いつの間にか奈津姫さんまでいなくなっていた。俺は店内に一人立ち尽くす。足元にメモが落ちているのが見えた。拾い上げる。奈津姫さんから、俺宛だった。
『お風呂と洗濯機、使っていいので今すぐに綺麗になってください。これは命令です』
俺は泣いた。泣きながらシャワーを浴びた。口に入った水は少ししょっぱかった。
「それで、どこにその親子が悪者だっていう部分があるの? 全面的にアンタが悪いようにしか聞こえないんだけど」
「俺は見たんだ! 俺が風呂から出たとき、店を念入りにファブリーズしてる親子をな。あの愚息に至っては、俺に消臭ポッドを渡してきたぞ」
「いいじゃん。そのお陰で今はちょっとフルーティーだし。どっかで嗅いだことある臭いだけどね」
「暗にトイレみたいって言うなっ」
場所は変わって、ここは准の働く擬似メイド喫茶。俺はそこの唯一のメイドに鬱憤をぶちまけている最中だ。最も、軽くあしらわれているだけのような気もするが。
俺の向かい側では、維織さんが静かに本を読んでいる。俺が大声で叫んでも全く気にした様子は無い。耳栓でもしているのかと調べようとした事があったが、准に変態呼ばわりされたのでやめた。ちなみに最近お気に入りの本はタウンページだった。文字が書いてあれば何でもいいのだろうか。
カウンターの向こうでは、マスターが皿を丁寧に磨いていた。その所作や佇まいには一切の無駄が無く、年季の入った調度品のような気品すら感じられる。店そのものに溶け込んだような良い意味での存在感の薄さは、ぜひともメイドにも見習ってほしいものだ。
俺以外の客はいない。混む時は結構な客がいるのだが、ピークを過ぎればそこは三人だけの空間となる。最近は俺もここに来る事を日課にしていた。准は俺が来るたびに文句を言ってくるが、表情はいつも嬉しそうだった。ちなみに、維織さんは言うまでもなく変化が無い。
俺らはいつも何かをするでもなく、ただ漫然と時間が過ぎるのを楽しんでいた。まるで、この店内だけ時間がゆっくり流れているかのような錯覚。いつまでもこんな時間が続けばいい、と俺は柄にも無く思っていた。
「でも実際、イタローさんはもうちょっと自分をよく見るべきね。ただでさえ、一般人と感覚がズレてるんだから」
「奇抜だ、と言ってくれ」
「その域は軽く超えてるけどね。イタローさん、その様子じゃ女の子にモテたこと無いでしょ」
「何を言い出すか、このメイドは。俺はこの甘いマスクとクールな言動で旅をしてきたんだぞ? そりゃ行く町行く町でモテモテだったぞ」
「アンタが甘いマスクなら、タレントの顔を表現する言葉がなくなるわよ」
「別れるときが大変でな、『行かないで』と涙する彼女たちにいつも俺の心は痛んだものだ」
「聞いてる?」
「今でも、たまに思うんだ。俺は、彼女たちを幸せにしてやるべきだったのではないか、ってな」
「おーい」
「彼女たちの傍で、慎ましいが穏やかで明るい家庭を築くのも一つの道だったのでは――」
「まあとにかく、イタローさんは恋とかした事無さそうだよね」
「人の感動ストーリーを一言でブチ壊すな!」
まあ確かに全部妄想だったが。今までの町で女にモテたことなんて一回も無い。というより、今までの町でこれほど住民に親切にされたことはなかった。俺はずっと孤独な旅をしていた。そしてこれはきっと、これからも。
「俺は旅から旅の根無し草だからな。女と恋なんてしちゃいけないんだよ」
「へー、上手い言い訳だねえ。もしかして、旅をしているのってモテないことを隠すため?」
「馬鹿にするなよ。俺だって恋の一つや二つしたことはあるさ。准が知らないような大人の恋だってしたことがあるぞ」
「ふーん。じゃあ、そのエピソードとやらを聞かせてもらいましょうか」
すっと准の目が細く引き絞られる。嘘と信じて疑わない時の表情だった。
「独身女性に裸を見られた事がある」
「それただのセクハラだよ」
「未亡人の家のお風呂に入れてもらった」
「それはさっき聞いたよ。恋でもなんでもないじゃん」
「えっと、見知らぬ女性にコーヒーを奢ってもらったり……」
「それは恋じゃなくて餌付けよ」
「そ、そう言う准は本当の恋を知ってるのか?」
「そこで私に振ってくるかな普通……ていうか、私は普通に恋した事ぐらいあるよ。なんたってメイドさんだからね」
「な、なんてこった。お前のような毒舌メイドと付き合う男がいるとは、まだまだ世界は広いな」
しれっと失礼な事を言ったら、頭からコーヒーをかけられた挙句顔にパイを投げられた。最近の准は暴力的だ。まあ顔についたパイは美味しく頂いたから良しとするが。つーかメイド関係無いだろ。
マスターから音もなく差し出されたおしぼりで顔を拭いていると、呟くような准の声が聞こえた。
「でも、まあ、付き合ったことは無いんだけどね」
「なんだ、准はもっと積極的だと思ったんだけどな。意外と、古き良き純情ガールだったってことか」
「当たり前じゃん。可憐なメイドの恋は、簡単には実らないって決まってるんだよ。モチロン、最後は結ばれるけどね」
「だから誰が決めたんだよ。ま、頑張れよ。陰ながら応援してやるからさ」
「……うん、ありがと」
何処と無く元気の無い返事だった。准にしては珍しい。俺は少し疑問に思ったが、とりあえずコーヒーを飲み干した。冷たいアイスコーヒーは夏の暑さを忘れさせてくれた。
次の日も俺は絶好調に暇だった。野球の練習を午前中で切り上げると、カンタ君からもらったファブリーズでユニフォームの汗の臭いを消臭してみた。鼻を近づけて嗅いでみる。うーん、フローレンスな香りだ。
「何やってんの、気持ち悪っ」
「うお、じゅ、准!」
ユニフォームの臭いにウットリしていた俺を発見した准が、怪訝そうな顔で立っていた。ヤバイ、今のでハンサムメータが二十は下がった。クールな風来坊の名が傷ついてしまう。
「イタローさんって……汗フェチ?」
じりじりと俺との距離を開ける。
「勝手に引くな。俺はただ、ユニフォームの臭いを確認していただけだ」
俺はビシッとユニフォームを見せ付ける。ユニフォームは汗とファブリーズでグショグショに濡れていた。風で制汗剤と汗の混じった嫌な臭いが辺りに漂う。准は露骨に嫌そうな顔で鼻をつまんだ。ていうか、明日からどうすればいいんだこのユニフォーム。
「臭いよ、それ。川に流して捨てたら?」
「そんなことをしたら下流域の方々に迷惑だろうが」
「どっちしろソレ、今日は着れないよね。これからどうするの?」
言われて気が付いた。俺は今上半身裸だ。准にばっちり見られている。俺は胸元をサッと手で隠した。
「准のエッチ!」
「あ、そっか。アンタごと川に流せばいいんだね」
俺のジョークは華麗にスルーされた。くそ、折角の風来坊ジョークが。
とりあえず、いくら真夏日とは言え、外で上半身裸ではいつ通報されるか分からないのでいつもの一張羅を着た。夏場は結構暑いが、これ以外に着替えを持っていないのでどうしようもない。
「それで准、今日は何の用だ。お前が俺を訪ねてくるなんて珍しいじゃないか」
「え、うん。その、実は、頼みごとがあってさ」
准にしては珍しく歯切れが悪かった。というかよく見るといつものメイド服ではなく、カジュアルな私服だった。薄いエメラルドのラインが入ったノースリーブの丈の長いワンピースの上から、薄い白のカーディガンを羽織っている。白の麦わら帽から除く髪の毛はいつものツインドリルではなく、緩やかにウェーブがかかっている。いつもよりも少し大人びて見えるのは、気のせいではないだろう。メイド服以外の准を見るのはこれが初めてだ。ちょっと得した気分だ。
「今日一日、私とデートしてくれない? ちょっと面倒な事に巻き込まれちゃってさ」
「はぁ? 准と、俺が? デート?」
思わず大きな声が出た。准は俯き、俺から視線を外した。
「言い直さないでよ、恥ずかしいなぁ……実はさ、昨日イタローさんが帰った後、お客さんの一人が『付き合ってくれ』って言ってきたんだよ。咄嗟に私、今付き合ってる人がいるんでって言っちゃったの。モノのはずみで、『明日デートするんで』ともね。でも中々信じてくれなくて、終いには『明日、様子見をする』って言ってて」
溜息を吐いた。つまり、彼氏"役"をやってくれって事か。准の事だから、いつぞやの『ダーリン事件』みたいに裏がありそうだが、騙すにしては回りくどいし、雰囲気もどことなく重々しい。
全く、普段からあんな接客しなければそんな熱狂的なファンも出来ないだろうに。俺は膝を起こした。
「どこにいるんだ、その客は。俺が話をつけるよ」
「えっ、い、いいよ。私もまだどこにいるか見つけてないし、一応常連さんだから……」
テントから出かけた俺を准が慌てて制した。香水でもつけているのだろうか、近づくと柑橘系の香りがふわりと鼻腔を撫でた。いつもとは違う匂い。どうやら本気で"デート"の準備をしてきているらしい。
「――仲良くデートしてれば、諦めてくれるのか?」
「う、うん。多分……」
俺は再度溜息をついた。まあ、しおらしい准を見れる機会もそう無いだろう。今日くらいは俺が主導権を握れるかもしれない。そう考えると、准とのデートもあながち悪いものじゃないように思えてきた。
黙ってさえいれば、誰もが羨む可愛い彼女だろうしな――。
「分かったよ。今日一日付き合ってやる」
「ホント? ありがと、イタローさん!」
両手を胸の前で合わせ、准は満面の笑みを浮かべた。仕草のあざとさはメイドのそれだったが、ファッションが変わると印象は一変する。
クソ、可愛いじゃないか。俺は思わず目を逸らしてしまった。
「た、ただ、行けるところは限られてるけどな。なんせカネが無い」
「そこは安心してよ。私のお願いだから、出せるものは私が出すし」
「……それ、見張りに余計に悪い印象にならないか?」
自分の好きな女の彼氏がヒモだったら――深夜のテントを襲撃されるイメージが頭に思い浮かび、俺は小さく震えた。
「それじゃ、今日一日は私を彼女だと思ってね」
一張羅に着替えた俺の右腕に、准が腕を巻き付けてくる。また、柑橘の匂いがふわりと香った。
いつもと何もかも違う彼女の姿に調子が狂うのを自覚しつつも、ワクワクしている自分がいるのもまた事実だ。恥ずかしさと嬉しさが混じったような気持ちで、にやつく顔を我慢するのが大変だった。
「よお兄貴、元気し、て、る、か……」
「どうした寺門、言葉がどんどん失速しているぞ。新しい拳法か」
いつものブギウギ商店街を駅に向かい歩いていると、俺たちは暇そうに石蹴りをしている寺門に出会った。寺門は俺と准の顔を交互に見比べながらぽかんと口を開けている。
准はずいと一歩前へ歩みでると、ひまわりのような笑顔でぺこりと頭を下げた。
「イタローさんのお友達ですか? 私、准っていいます。九堂さんの彼女ですっ」
「か、かのじょ!!」
寺門は固まっていた。目から少し涙が溢れていた。信じていたのに、兄貴だけは『独身風来坊同盟』の仲間だと――そんな声が聞こえた気がした。
なんだソレは。勝手に変な仲間にしないでくれ。
准が服の裾を引っ張っている。何か言って欲しい、と目で訴えていた。
後のことを考えると非常に厄介だが、乗り掛かった舟だ。仕方なく俺は准の肩を抱き寄せる。
「そういうわけだ。俺のか、彼女の准。よろしくしてやってくれな、寺門」
「ああ、神はいないのか……」
既に寺門は自分の世界に旅立っていた。仕方が無いので、俺は無視してデートを再開することにする。それにしても、准の行動は大胆すぎやしないか少し不安だった。
「イタローさん、今ちょっと噛んだでしょ」
「うっ。バレてたか」
「バレバレ。しっかりしてよね。もしかして、言いなれてないとか~?」
「ば、バカ言うな! 大切な友人に嘘をつくのが、ちょっと気が引けただけだ」
にやけた顔で下から覗き込んできた准の視線から逃げるように、俺は顔をそむけた。こういうところはやはり、いつものメイドの彼女だ。これ以上知り合いに会ってボロを出すのも気が引けるので、自然と足早になる。商店街は二人ともよく知った場所だ。誰に会うか分かったもんじゃない。
ここはあくまで中間地点、さっさと駅に行って電車に乗ってしまわないと。そんな内心など知る由もないのか、准は急ぐ俺の前に踊り出てきた。
「ところで、イタローさん、まさかそのカッコで街に行く気?」
「当たり前だろ。ユニフォームは洗濯したから、服はこれしかないしな」
濃いグリーンのシャツに、茶色のパンツ。外套とスカーフは、さすがに暑いので置いてきているものの、シャツは長袖だ。真夏のファッションとは程遠い。
「あれは洗濯って言わないよ。ていうか、これまでその服だけで旅してたの?」
「ああ、荷物が多いと大変だからな。下着以外はこれくらいだ」
「……服、買いに行こうよ。どっちもシワシワだし」
「いや、お金ないし」
「いいよ、私が買ってあげるから。さ、行くよ」
その後も何度か申し入れを固辞したのだが、俺は半ば強引に服屋へと引っ張られていった。
淡いスカイブルーのボタンダウンに、白のジーンズ。店から出た俺はもはや別人だった。
「うん、やっぱり似合う。イタローさんは背が高いから、シンプルな方がいい感じだよね」
もちろんコーディネートは准まかせだ。俺は試着室に籠りっきりで、次から次へと准が持ってくるシャツやらパンツやらを早着替えしていただけだった。さながらファッションショーだ。
淡い色合いは汚れに弱い。俺なら絶対に選ばない服だったが、袖を通してみれば悪い気はしない。気分まで若返ったようだ。人生まだまだ、これからだな。
「悪いな、准。服なんて買ってもらっちゃって。このカネはいつかきっと返そう」
寺門から金が取れたらな。
「いつか、ね。私が死ぬまでに返せるかな?」
「……俺はそんなに生産能力が無い人間なのか?」
「少なくとも、今まで一度もコーヒー代を払った事はないでしょ?」
いつも維織さんが出してくれているからな。
「言い返す言葉が無い」
「そもそもイタローさん、これまでどうやって生活してきたの? この世の中、何をするにもお金が無きゃ生きていけないのに」
「そりゃ、子供には分からない苦労をだな」
「ゴミ漁りとか?」
食い気味に畳みかけてくる。俺は大きく頷いた。
「そうそう。ゴミ捨て場にも縄張りってモノがあってな、俺が強くなるのは必然だったんだ」
「うわ、マジなんだ! ゴメン、今ちょっとイタローさんとの心の距離が……」
「お、お前が聞いてきたくせにっ」
ピュアなハートが少し傷ついた。最近の子供は風来坊に理解を示さないから困る。
「それで准、これからどこに行くんだ。一応、俺のプライドの問題から言って、お金のかかるところはあまり気乗りしないんだが」
「維織さんに餌付けされてるのにまだプライドあったんだ? まあとりあえず、隣町のショッピングモールでも行く?」
「ウインドウショッピング、ってことか。いいんじゃないか」
「じゃ、決定!」
准は俺の手を取り駅へと駆け出してゆく。それにしても、今日の准はやたらと嬉しそうに見える。やはり、何か企みがあるのかもしれないな――そんなことを考えながらも、俺もまた自然と口元が緩んでいる事に気が付いた。空いた手で両頬を掴むも、笑みは自然と零れてきた。
隣町の商店街、ミルキー通り。夏休みでも閑古鳥が鳴いているブギウギ商店街とは違い、ここは人に溢れ活気に満ちている。
「たった一つしか駅は違わないのに、どうしてこんなにも違うんだかな」
「そりゃこっちの方が都会だからね。イタローさん、今日は難しい事考えずにパーッと楽しもうよ?」
「それもそうだな。准、腹が減ったぞ」
「イタローさん、完璧にヒモに成り下がってるよね。ま、いいけど。丁度そこにファミレスがあるし、入ろ」
「そうしよう。だが今の俺はよく食うぜ」
「常識の範囲内にしてよねっ」
店内は明るく、歓談の声で賑わっていた。幸い席は空いており、俺たちは窓際のソファー席へと案内された。
店員が運んできたメニューに目を通す。ここしばらく見ていなかった、カラフルで美味そうな料理の数々が俺の目に入ってくる。
准はというと、店員の制服を眺めながら「あのスカートはセンスが無いね」と評論に勤しんでいた。同じように制服のお姉さんを目で追っていると、テーブルの向こうから冷めた視線が飛んできたので、俺はメニューでバリケードを作った。
「ちなみに、三百円を超えた分は自腹ね」
バリケード越しに剣呑な声が聞こえる。俺はメニューを倒した。
「小学生の遠足か。つーか、ファミレスで三百円って何を頼めばいいんだ」
「ドリンクバーのシュガーとか?」
「そんなんで腹が膨れるか。そもそも、太るだろそれ」
「経済的だから、ヒモのイタローさんにもオススメッ」
親指を立てて言ってくる准。この小娘、一度教育しなおした方がいいのかもしれない。
結局、俺は経済的かつカロリーの高いファミレスのピザを頼む事にした。油っこい食べ物なんてどのくらい久しぶりか分からなかった。がっつく俺を准は驚きと微笑ましさの混じったような視線で見ていた。
それとちゃっかりシュガーは貰っておいた。これで当面の食生活には困らないぜ。あっ、シロップも貰うべきだったか?
「イタローさん、ゲーセンって知ってる?」
ファミレスで腹ごなしをしてから、俺たちは再び商店街をうろついていた。准はゲームセンターの前で足を止め俺に尋ねている。
「なあ准、俺は老人じゃないんだ。ゲーセンくらい知ってるし、遊んだことだってある」
「へえ、それはお見逸れしました。イタローさんってどんなゲームするの?」
やっぱり男の人なら格ゲーとか、意外とリズムゲーとか? もしかして、メダルゲームで一日中過ごすタイプ? などと准は勝手に妄想を膨らませている。俺は手で何かをつかむような動きを上下させて見せた。
「そりゃあれだよ、あの百円で菓子がたくさん取れるヤツ」
「あー、なんとなく分かるよ。うん。イタローさんだもんね」
なんとなく馬鹿にされた気分だった。ていうか多分馬鹿にされてる。
「じゃあ、ちょっとお手並み拝見していい? 百円でどれだけ取れるかやってみてよ」
「よし任せろ。俺の放浪生活の賜物を見せてやる」
自動ドアをくぐると一瞬にして喧騒に包まれた。お目当てのゲームは入り口のすぐそばにある。
俺は准から百円を受け取り、何台もある筐体を見比べる。菓子がどの辺にあるのか、どのタワーが崩しやすいのか。獲物を捕らえるため満遍なく筐体を睥睨する俺の目はさながら獲物を狙う獣の目だ。視界の隅で、准が少し引いてるのが見えた。
「よし、これだ!」
俺は四、五台あったクレーンゲームの中から一つを選んだ。一見強固そうに見える菓子箱のタワーだが、よく見るとバランスを崩して少し前傾気味だ。これなら少し下から揺さぶるだけで、簡単に崩す事ができる。
筐体に百円玉を入れ、菓子を取るクレーンを動かすタイミングを待つ。そして見計らったタイミングと同時にボタンを叩き、菓子を掬い上げる。クレーンいっぱいに菓子が運ばれていく。ここまでは大成功だ。
そのまま落とすタイミングを待つ。前後に動く台が後ろに下がろうとした瞬間、俺は二つ目のボタンを推した。こぼれ落ちた菓子が前後する台に押され、排出口の前に陣取っている砦を足元から崩す。パーフェクトだ。ばらばらと音を立てて落ちてくる菓子を俺は拾い集め、目を真ん丸に開いた准の眼前に掲げて見せた。
「どうだ准、これが俺の実力だ」
「へー、凄いじゃんイタローさん! まさか、本当に一回で取るとは思わなかったよ」
「はっはっは、もっと褒めてくれ」
「ギャグは顔だけだったんだね」
ぼそりと呟く。腰を折らないと気が済まないのだろうか。
「お前は、人を素直に褒めるってことを知らないのか? まあいい、ほら」
俺は菓子を袋に詰め、准に投げ渡した。准は慌ててそれを受け取ると、驚いたように俺を見た。
「いいの? イタローさん」
「確かに貴重な食料だけど、准にやるよ。いつもお世話になってるからな」
「……ありがとう」
「あれ、准にしてはやけに素直だな。なんか気持ち悪いからいつもの准に戻ってくれよ」
「ま、いつもお世話してる分にこれじゃ全然割に合わないけどね」
「言った瞬間に性格逆転かっ。まあ、その通りだけどな」
言い返す言葉もなく口を歪ませる。
「えーと、だからさ、また一緒に来ようよ? そのときまた貰うからさ」
准は袋を両手で抱えたまま、少し声を落として言った。
「ん? そうだな、それもいいかもしれないな。で、俺は何回あげれば借りが帳消しになるんだ?」
「ええ? そうだなー……」
准は弾むように歩き出した。俺がその横に並ぶと、腕を絡めてきた。ドキリと胸が脈打つ。そういえば、"彼女"だった。
「私の気が済むまで、ってどう?」
「いつになるか分からないな、そりゃ」
「だからいいんだよ、だから」
そう小声で言うと准は駆け出した。顔はよく見えなかったため、それがいつものように俺をおちょくっているのか、それとも"彼女"としてのセリフだったのかは分からなかった。
「やれやれ、演技じゃなきゃホントに可愛いんだけどな」
そう一人ごちると、早く来いと呼んでいる准の元へ小走りした。
「映画か、俺の若い頃は活動写真なんて言ったもんだ」
「イタローさん、時代考証間違えてるよ。それで、どの映画にする?」
准が次に選んだデート先は映画館だった。まあなんてベタな選択か――まあ俺はカネを出してもらっている側なので、文句は言えないが。
セレクトできるジャンルはホラー、恋愛、SF、コメディ、アニメ。やはりここは、女の子と映画館というイベントの定番を突きホラーにすべきだろうか。
だが准はホラーなんて全く怖がらなさそうな気がする。むしろ怖がる俺をじっくり観察とかしてそうだ。いつもの喫茶店で、意地の悪い笑みで維織さんに報告する准の姿を想像し、俺は首を横に振った。
「というわけで、恋愛モノにしないか?」
「どういうわけだか分からないけど、いいよ。イタローさんにしてはいいチョイスだと思うし」
後で聞いた話だと、今とても人気のある映画だったらしい。
「一言余計だ。というわけで、チケットは頼む」
「うん、じゃあ買ってくるね」
准はチケットを買いに走っていった。そんなに慌てなくても、上映時間まではまだまだあるというのに。
ところで、准は誰かに見張られているような事を仄めかしていたが、未だに俺はその男を見つけ出せていない。実はずっと辺りに注意を払ってはいた。しかし、商店街、駅、ファミレス、ゲーセンのいずれでも、こちらを窺っているような様子の男はいなかった。かなり慎重な男なのだろうか。
映画を見ているときなら見つけやすい。画面ではなく、こちらを見ている人物を探せばいいからだ。
ここでなら、准の熱狂的ファンを見つけられるかもしれない。ぜひともご尊顔を拝見したいものだ。
「……でも、俺が映画を見ないってのも不自然だよな」
普通のデートで映画を見ずに辺りをキョロキョロ窺う彼氏はいない。不自然さがバレれば、准の作戦は台無しになる。
上映中はやむを得ないか。
ここでは捜索は休止する。俺はそう結論付けた。
「お待たせ~。はい、チケットとポップコーン」
「おっ、これまた定番だな。じゃ行くか、准」
今度は俺の方から腕を絡めてみた。"彼氏"ならこのくらいの積極性が必要だろう。
准は始め驚いた様子で俺を見ていたが、すぐに破顔した。演技とは思えない、眩しすぎる笑顔だった。
映画の内容はシンプルな恋愛モノだった。夏休み明けから転校する事になった男子生徒と、その子に恋をしていた女子生徒の話。
こういうベタベタな話を、准はどう見るのかと思って准の顔を覗くと、意外にもスクリーンに集中しきっていた。その普段と違う真剣な様子に、俺は思わず見入ってしまう。
画面を見つめる大きな瞳、小さいが筋の通った鼻梁、映画の少女に感情移入しているのか甘噛みされた形の良い唇――。
いやいや、俺は何をしてるんだ。上映中に隣の女の子の顔を覗き込む中年――この構図は良くない。
そう思いなおし、スクリーンに集中しようとした瞬間、俺の手の上に准の小さな手が重なってきた。
あったかい――じゃなくて。
無意識の行動なのか、准はこっちを見ていない。シーンは告白。女子生徒が思いを伝え、男の返事を今か今かと待つところ。
俺の手を握る力が心無し強くなる。男の口が開いては閉じる。
くう、准、可愛いとこあるじゃないか。俺の意識は徐々に映画から離れていった。
もしかして、これも准の策略か? そんな考えが一瞬脳をよぎったが、どちらでもいいかな、とも思い始めていた。
准の手にさらに力がこもる。どうやら一番の見せ場のシーンだったのだろう。スクリーンの中の二人は固く抱き合っていた。
うーん、まあ、少しくらいなら、いいか。
俺はもう片方の手で准の手をそっと包んだ。
今この瞬間も、どこかの席から准のファンに見張られているかもしれない。
"彼氏"としては自然な行為だ。
――本当にそうか?
不意に、思考に横槍が入った。
俺は本当に、"彼氏"としての役割で振舞っているだけなのか?
本当は――。
そのとき、耳元に生暖かい息がかかるのを感じた。
「いい映画だったね~。ちょっと泣いちゃったよ」
「うわっ」
思わず、小さな叫び声が漏れた。いつの間にか映画はエンドロールに差し掛かり、館内の客たちはちらほらと座席を立ち始めていた。その中でも前の座席に座っていたカップルが、怪訝そうな視線を向けてくる。俺は軽く頭を下げ、すぐ隣に視線を向けると、准は声を殺してくすくすと笑っていた。
「い、いきなり何をするんだ」
「えー? なんかイタローさん、夢中になってたから。私の手握っちゃって」
「それは、准が先に」
しっ、と"彼女"が人差し指を口の前で立てた。
「ダメだよ。明かりがつくまで喋っちゃ」
それもお前が始めたことじゃないか。
そう反論もできず、俺は座席に深く身を沈み込ませた。
今日はどうにも、リズムが狂わされる。慣れない服を着ているせいだろうか。
それとも。
隣の子が、いつもと違う服を着ているせいだろうか。
満点の星空。都会の喧騒から離れた遠前町は、星のよく見える町だった。
その星空の下、俺は准と河川敷を歩いていた。
「今日は楽しかったよ。誘ってくれてありがとな、准」
「うん……」
准は少し元気が無いように見えた。さっきまで元気だったのが、嘘のようにしおらしい。
「もしかして。俺の彼氏役、なんかダメだったか」
見通しのいい道ではあったが、念のため、准の耳元で囁いた。
「ううん、そうじゃないんだ。というより、今日のイタローさんはホントの彼氏みたいだったよ」
頭を振る准の笑顔は、どこか弱々しい。
「そうか。なら、いいんだけどな。だけどそれなら、どうして元気が無いんだ」
「うん、えっと……言いにくいんだけどさ。実は、告白されたっていうの嘘なんだ」
「――はぁ?」
「今回の事は、全部私の作り話ってこと。ゴメンね? 嘘ついてて……」
「じゃあ、なんで俺なんかとデートに」
「それは。私が……私が……」
俺は言葉の続きを待ったが、准はそのまま押し黙ってしまった。
虫の大合唱と、風の通り抜ける音が戻ってくる。俺たちはしばらく、黙ったままゆっくりと歩いていた。
密封されたような真夏の空気が周囲を覆っている。
俺は何度か話しかけようとしたが、俯き気味にゆっくりと歩く准の姿を見た途端、何も言えずに口をつぐんでしまっていた。
維織さんならまだしも、准がこんなに黙っているなんて。
いつもなら軽口のひとつやふたつくらい、容易に思いついていたはずなのに、この夜に限っては何も出てこない。
どのくらい歩いただろうか。
准は小さく息を吐くと、おもむろに俺の目の前へと体を翻した。
突然のことに呆然としていると、准は俺の腕を取り、その手に両手を重ねた。俺の手を包み込むには小さい手。映画館の記憶が蘇る。
その双眸は真っ直ぐに俺を捕らえていた。今まで見た事が無い、熱を帯びたその視線から、俺は目を離せずにいた。
「ねえ、イタローさん」
「は、はい」
思わず身構えてしまった。
「イタローさんは、私のことどう思ってるの?」
「えっ。ど、どう……って」
視線が泳いだ。
意味が分からない――いや、違う。本当は分かっているのかもしれない。
准が存在もしないファンをでっちあげてまで、俺とデートをしたこと。
100円ぽっちで取れる、何にも特別ではない菓子詰めを嬉しそうに抱いていたこと。
何の捻りも無い恋愛映画の最中に重ねられた手のこと。
星空の下、何も話さずに歩き続けていること。
俺はもう、とっくに分かっているんじゃないか?
「友達……だよね。友達だから今回も私に付き合ってくれた」
いつの間にか准は俺の手を放していた。くるりと背を向ける直前、寂しそうな笑顔が見えた。
「私もおんなじだよ。イタローさんは、私の大事な友達」
「准……」
「じゃあ、また明日。明日からはまた普通のメイドに戻ってるから、今日のことは忘れて欲しいな」
准は俺に別れの挨拶をすると、町の方へと歩き出していた。
「准!」
俺の手は、准の肩を掴んでいた。准は驚いてこちらを振り向く。
「イタローさん?」
「違うんだ、准。俺は、良い友達だからお前に付き合ったわけじゃない」
「え……?」
「大体、今日を忘れるわけが無いだろ。今日は准とデートした日だ、カレンダーがあったら花丸でもつけてるし、日記をつけていたなら今日だけで何ページも書けそうだ。俺はそんな日を忘れるほどバカじゃない。まあ、どっちも持ってないけどさ」
「イタローさん。それって」
俺は息を飲み込んだ。
いつの間にか、准の両肩を掴んでいた。准を真正面から見つめ、俺は言った。
「俺は、准の事が――」
「はい、そこまで!」
「す――って、はい?」
准は嬉しそうに、手で大きなバッテンを作っていた。先程までの儚げな表情は何処にも無い。
「いやー、迫真の演技だったよイタローさん。思わず私ものめり込むところだったよ」
「え、いや、その、意味が分からない……」
「『メイドさんと一日デート体験』だよ。言ってなかった?」
「言ってない言ってない、絶対言ってない。ていうか、今日のデートにメイドの要素は無かったぞ」
「イタローさんだから、特別にオプションで『告白イベント』も付けてあげたけど、どうだった? 甘酸っぱい青春に帰れた?」
「いや、それでこれは一体……」
「でも、これ以上は別料金なんだよねー。だから素寒貧の風来坊さんはここまででーす。今日は楽しめましたか、ご主人様?」
まったく話についていけない。俺はただ、ぽかんと大口を開けていた。
「でもイタローさん。要するに、これまでの料金はちゃんと払ってもらうってことなんだよね。こればっかりはいくらご主人様でも負けられませんっ」
ヤクザだ。
自分から吹っ掛けておいて金品を要求する。コイツはメイドの皮を被ったヤクザだ。
「……いくらだ、いくらなんだ」
「あれ、素直に払うの?」
「考えてみれば、確かにいろいろ驕って貰ったからな。今すぐは無理だけど、いつか必ず――」
「ふーん。それじゃあー」
細く絞られた目は喜色に満ちている。こういう笑みのときは、必ずとんでもない条件をふってくる。
頬が僅かに引き攣った。
「これからも私とデートして欲しいな。今回は嘘だったけど、たまにお客さんに告白をされるのは本当だからさ」
「そうか――って、え? そ、それでいいのかっ」
「うん! じゃあイタローさん、また明日、喫茶店でね」
「あ、ああ。じゃあな、准」
准がこちらに手を振りながら駆けていく。
ジェットコースターのような突然の緩急に、俺は言われるがままに手を振ることしかできなかった。
なんだったんだ、結局。
混乱する思考回路のまま、俺はテントへ向けて踵を返した。
――あれ、ちょっと待てよ?
分からないことだらけだったが、とりわけ一番理解ができないことが一つあった。
「それって、普通に彼氏を作る気はありませんってことなのか? それとも――」
「えへへへへー、大成功っ! 全部バラしたときのイタローさん、すっかり驚いてたなー」
星空だけが見ている夜の道、一人の少女が駆けていた。
「あ。でも、ひとつだけ失敗したな」
その表情はどこまでも無邪気で、どこか寂しそうでもあった。
「告白、最後まで聞いておけばよかったよ」
そう呟いた彼女は、くすりと笑って家路を急いだ。
後に彼女は、もう一度、今度は本当の告白される事になるのだが、それはまた別の話。
「兄貴! 俺は決めたぜ! この件が終わったら彼女を探す旅に出る!」
「はぁ? 何を言い出すんだ、寺門」
「俺だって彼女が欲しいんだよ、ちくしょー!」
これもまた、別の話。
(fin.)