ほんのりまろびね

パワプロクンポケット(パワポケ)の二次創作小説(SS)をぼちぼち書いてます。

退屈な日常への挑戦5

(初出:2008年)

 

あンた……背中が煤けてるぜ。

 

 

 

 

 

 

 ライトの位置からでも、マウンド上の疋田が限界に近いことは手に取るように理解できた。疋田は一度帽子を取り袖で汗を拭うと、再びバッターボックスの天道と対峙する。地方大会決勝戦、九回まで一点のリードを守りながら星英の攻撃を凌いできたが、ツーアウトまできたところで疋田が捕まってしまった。
 ベース上に溜まった三人のランナーがジリジリとリードをとる。疋田がセットアップポジションで構えるのと同時に、俺もぐっと腰を落とした。
「行ったぞ、十乃!」
 金属音と共に白球が高く舞い上がる。ライトへの特大のフライ――上がりすぎだ。スタンドインするにはやや飛距離が足りない。俺はフェンスの数メートル前で止まると、カバーにやってきた越後に俺が捕るというジェスチャーで合図した。
「温助くん!」
 そのとき、俺の名を呼ぶ可愛らしい声が聞こえた。場所は近い。すぐ真後ろだ。ボールが落ちてくるまでにやや時間があることを確認すると、俺は目線だけ背後の観客席に向けた。
「若菜?」
 外野の低いフェンスに両手をかけ、身を乗り出さんばかりの勢いで叫んでいたのは星英のマネージャーだった。俺の位置からだとスカートの中が微妙に見えそうだった。男の本能を刺激する卑怯な誘惑に涙を呑みながら、俺はボールへと視線を戻し声を張り上げた。
「悪いな若菜、その手には乗らないぜ!」
「いや、なんのことかわからないんだけど……それより温助くん! 聞いて欲しいことがあるの!」
 若菜の声は前に聞いたものより真剣味を帯びていた。だがいくら俺が男の子とはいえ、今回ばかりは相手の作戦に騙されるわけにはいかない。俺は無視を決め込むことにした。
「実はね……」
 そこで一旦言葉が途切れる。僅かな間のあと、若菜ははっきりとした口調で続けた。
「私、デキちゃったみたいなの」
 待っていたのは爆弾発言だった。
 俺は目を見開きながら振り向いた。若菜は俯いていた。
「わわわわわわわ若菜、デキちゃったって――」
「うん……ちゃんと気をつけてたんだけどね……あの日の夜は、大丈夫かなって思って何もしなかったんだよね」
 そう言う若菜の声は細々としていた。やはりまだ高校生ということもあって不安なのだろう。
「そ、それで、何か俺にできることはあるのか?」
「ううん、いいの。温助くんの責任じゃないから……」
 現代っ子とは思えぬほど健気な発言だった。もちろん、これで引き下がってしまうほど俺は甲斐性無しではない。
「そういうわけにはいかないだろ! 心配しなくても俺も(たぶん)もうすぐプロだ! 俺に任せておけ!」
 胸を叩きながら力強く言った。若菜の顔にパッと花が咲いた。
「ホント? ありがとう、温助くん……」
「おう! 元気なヤツに育てようぜ!」
「え? 元気になってもらっちゃ困るんだけど……」
 握り拳を掲げた俺に若菜が目を丸くする。俺は耳を疑った――いや、もしかしたら彼女はおしとやかな子供に育てたいのかもしれない。
「若菜の考えはわからなくもない。でも、やっぱり産むなら健やかに成長して欲しいだろ?」
「ええー。私、うむのはイヤだよ?」
 本日二回目の爆弾発言が飛び出していた。
 俺は頭を抱えて呻いた。若菜はどうやら堕ろす気でいるらしい。年齢からくる周囲の反応やこれからの不安を考えれば不思議ではないかもしれない。だが、それでは彼女のお腹の中で目覚めた命はどうなってしまうのか。こういうときこそ、男の俺が責任ある態度をとるべきではないのか。
 確固たる決意と共に顔を上げた。若菜は頬に手を当てながら憂鬱そうに溜息を吐いていた。
「ホントに困るんだよなあ……ニキビ」
 俺の思考回路は止まった。確かによく見てみれば彼女のおでこには赤い疱瘡ができていた。それと同時に後頭部に衝撃が走り――天と地が逆転した。どうやらボールがやっと落ちてきたらしい。
 薄れゆく意識の中で思った――ていうか俺、若菜に何もしてないじゃねーか。

 

 

 

「はっ! ゆ、夢か……」
 俺はカッと目を見開くと上体を起こした。親切高校のグラウンドは夕焼けのオレンジ一色に染められていた。頬についた砂から察するに、どうやら練習中にぶっ倒れてしまったようだ。
 野球部の練習は過酷だ。炎天下の中ノックの嵐を受ければ、三年間鍛えられてきた俺たちでも倒れることは少なくない。ましてや一年生なら四六時中だ。
「どうしたクソ共っ、立て! 野球もできないなら今すぐおっ死ね!」
 ホームベース付近で罵声を飛ばす監督――だが返事は一つも返ってこない。グラウンドに横たわる部員たちの死体をぐるりと見回すと、監督は手をメガホン代わりにしながら外野の俺へと叫んだ。
「おい、温助!」
「お――押忍!」
「フヌケ共を宿舎に戻しておけ、いいなっ」
「押忍……って、はぁ?」
 ぐるりと首を巡らせる。起きている部員は俺を除き一人もいない。越後でさえも大の字になって息も絶え絶えの様子だった。
「こんなに運んだら俺が死ぬっての……アホらし」
 グラブを頭に乗せながら、ふらふらと覚束無い足取りで引き上げようとする。そのとき、まるで地面とキスをするように倒れ伏した真薄の姿が目に入った。
 そのまま見過ごそうかと思ったが、真薄はまだ一年坊主だ。同じ部屋のよしみもある。声だけでもかけていこうと思い、俺は震える膝の向きをくるりと変えた。
「おい、真薄。練習終わったぞ、おいっ」
 頭の上から声をかける――反応は無い。
「そんなとこで寝てるとカゼ引くぞ」
 肩を揺すってみる――これでもダメだった。死んでいるんじゃないかと不謹慎な事を頭の片隅で考えつつ、放っておくわけにもいかないので胸と腰を持ち抱えるように上体を起こさせた。
「ん?」
 手に妙な違和感を覚え俺は首を傾げた。具体的にいえば真薄の胸のあたりに回した手だ。単刀直入な感想としては妙にやーらかかった。
「これは……!」
 俺はなんとなくカッコよさそうなセリフを吐きながら何度か胸をまさぐった。練習に明け暮れる野球男児によくある大胸筋の張りは感じられず、布団を押しているような小さな弾力が返ってくる。
 もしかして、コイツ――真薄の寝顔に目を向ける。少しばかり毛の生え始めてきた坊主頭の少年は、俺たちに比べれば遥かに色白で表情もあどけない。かなり疲弊しているためか、少し悩ましげなその寝顔に俺は不意に胸が高鳴るのを感じた。
「いやいやいや、落ち着け俺」
 ぶんぶんと頭を振った。コイツは男子寮に住む後輩だ、女であるはずがない。そう、この胸のやーらかさはこう見えて意外とメタボなのだろう、たぶん。
 いや、しかしもしかしたら――浮かび上がった疑念はなかなか消えない。気のせいか、真薄の寝顔もいつもより色っぽく見えてしまう。このままでは精神衛生上よろしくない。
 どうすればいいんだ――決めかねた俺は心の選択肢に頼ることにした。
A:調べる
B:たしかめる
C:脱がす
D:剥ぐ

→C

「よし、やってやるか」
 心の選択肢はいつだって正直だ。
 俺は真薄を地面に降ろした。ベルトを外しズボンに手をかける。
 もし本当に本当だったなら――とりあえずこれをネタに強請るだろう。これで俺の高校生活もウッハウハだぜ!(←鬼畜)
 もし何か変なものがついていたら――見なかったことにしよう。そしてコイツはここに捨てておこう(←鬼畜)。
 湧き上がる興奮に身を委ねながら、俺は一気に真薄のズボンをおろした。
 そこには――

 

 

 


「はっ!? こ、これも夢か……」
 額にびっしりとかいた汗を拭いながら俺は目を覚ました。目の前にあるのはいつも見ている寮の部屋の天井だ。今度こそ現実らしいな、と思いつつ身を起こした。
 起床時間にはまだ早いのか、他の三人はまだ眠っていた。ハシゴから降りる最中、下の段で疋田がひらいた大口から涎を垂らしながら寝ている姿が見えた。なぜか無性に腹立たしかった。
 考えてみれば、二つ目の夢は明らかにコイツが変なことを言ってきたせいだ。一つ目の夢も疋田が打たれなければ問題は無かったはずだ――少し無理を感じたが強引にこじつけることにした。
 このヤロー、額に肉とでも書いてやろうか――ペンを手に取りそんなことを考えていると、眼下の地面を何かが過ぎった。かなり小さくて、黒い。瞬時に俺はあのアレだと判断を下した。
 放っておいてもいいのだが、今の俺はいささか機嫌が悪い。俺は机の上にあった適当な紙を丸めると、隙なく身構えあのアレが再び現れるのを待った。
「――そこだぁっ」
 掛け声一閃、俺は強く踏み出しながら得物を振り下ろした。確かな手ごたえ、自慢の動体視力に鼻を鳴らした。持っていた紙を手放す――と、それがノートであることに気が付いた。表紙の隅には小さく『疋田光司』と記されていた。
「……やっべ」
 小さく呟きが漏れた。そういえば、今日までの宿題が出ているとかで、昨晩疋田は必死こいて机に向かっていたような気もする。表面、つまり今俺から見えるほうはなんら変わったところはない。裏面は――考えないことにした。
 掛け声がうるさかったのか、布団の中で誰かが小さく呻く声が聞こえた。どうすればいい――残された時間は少ない。やむなく俺は持っていたペンでノートに『子鼠監禁完全調教~オレのバットがサイクルヒッツ~』と書き記した。これで少しの間だけでも夢を見ることができるだろう。
「うーん……あれ、十乃くん? もう起きてたでやんすか?」
「さあ、今日も練習頑張るぞ!!(棒読み)」
 荷田君が起きるのと同時に俺は叫びながら部屋を飛び出した。正確に言えば走って逃げた。
 グラウンドに向かう途中、背後から悲鳴のようなものが響いたが俺は聞かなかったことにした。

 

 


 練習時間前にも関わらず、グラウンドでは既に一人の部員がアップをはじめていた。後ろ姿だったがその長身から田島だということはすぐに分かる。人一倍練習に打ち込むその姿に感銘を受けながら、俺もアップに加わろうとそちらへ歩き始めると、ふと足元にボールが転がっているのを見つけた。
 そういや昔、アイツにやられたことがあったっけな――。
 俺はにやりと悪役っぽい笑みを零しながらボールを掴み、そのまま軽く振りかぶった。緩いキャッチボールをする要領で、それを田島の方へと放る。そのボールが到達する前に、俺は両手でメガホンを模り声を張り上げた。
「おーい、田島ぁ!」
「ん? ――ぶっ」
 振り向いた田島の顔にボールが直撃した。長身の野球部員は背中から地面にどさりと倒れ伏した。
「たっ、たじまぁ!!」
 まるで全く無関係の人間であるかのような叫び声をあげながら、田島の元へと走り寄る。田島は白目を剥きながらピクピクと痙攣していた。俺は田島の上半身を抱き起こすと必死の形相で語りかけた。
「大丈夫か、田島! しっかりしろ、誰にやられた!」
「ぅ……わ、わかんねぇ……いきなり、後ろから……」
「クソッタレ、なんて卑怯なヤローだ!」
 将来は役者という道もいいかもしれない。
 俺は田島をそっと地面に寝かし近くにあったボールを手繰り寄せた。なぜかまだ持っていたペンで『ひきた』と小さく記すと、横たわる田島の傍に置きその場を後にした。正確に言えば全速力で逃げた。
 すまない田島、今度赤貝ちよ子の写真集貸してやるからな――北乃先輩の忘れ物だけど。

 

 


「フッ――来たな、十乃」
 グラウンドから校舎へ移動すると、腕組みをしながら廊下の壁にもたれていた原田と遭遇した。足元には煙草の吸殻がいくつも転がっている。コイツはもしかして、俺が来るまでここで待っていたのだろうか――なんて一途なんだ。原田が女の子でないことを俺は心の中で激しく悔やんだ。
「では、早速今日もはじめるとするか」
「あ、もう俺の意志は完全に無視ですか」
「今日のギャンブルは、前に十乃が提案してくれたものにしよう」
「俺の話も無視かよ」
 既に俺と原田が出会ったらギャンブルをすることは確定しているらしい。ある意味とても運命的だ。
「十乃。お前は、見なくても女の下着の色がわかるんだったな」
 原田は隙のない鋭い瞳で俺の顔を見ながら言った。俺はここまで真剣な顔で『女の下着』と言える人間がいることにある種の感動すら覚えていた。
 もちろん、実際の俺にそんな能力はない。ただそれを暴露してしまうとややこしいことになりそうだったので、俺はふてぶてしく微笑むとこくこくと首を縦に振った。
「お、おう。もちろんだ!」
「フッ……実はな、俺も女の下着が見えるようになったんだ」
「マジで!?」
 廊下全体に響き渡る大声が思わず漏れた。原田は僅かに眉をひそめていたが、すぐに余裕のある不敵な笑みへとその表情を変えた。
「フン、お前が驚くのも無理はない……俺もこの方法を思いつくのにはやや骨を折ったからな」
「ああ、そうだろうな……」
 神妙な面持ちで頷く。本当は今すぐに教えてください! とひれ伏したい気持ちでいっぱいだった。
「そこでだ、十乃」
 原田が壁から離れる。目の色が勝負のときのそれになった。
「お前と俺、どちらがより優れたギャンブラーか――決着をつけるぞ」
 もっとマシな手段は思いつかなかったのだろうか――というツッコミを本気モードの原田の前でする気も起こらず、俺は流されるような形で承諾した。
「ルールは簡単だ。次に俺たちの横を通る女の下着の色を当てる、それだけだ。ただし、答えるのはお互いの横を通り過ぎた後……それでいいな」
「わかった、それでいい。それでいくら賭けるんだ?」
「クッ……いくら、か」
 原田は大げさに首を振るとどこか遠い目で窓の外を見た。
「十乃。真のギャンブラーにとっては……博打に命を晒す瞬間こそが、至上の法悦になる。伸るか反るかの刹那の永遠を愛するんだ。たとえその結果、多大なる損失を被ろうとも、そんなことは麻薬に脳を犯されてしまった俺たちにとっては大した問題ではないんだ……わかるか?」
 さっぱりわからない。わかったのは、俺が勝っても何も得られないということだけだ。
 しばらくの間、沈黙が訪れた。この男と何もせず黙ったまま過ごすのははっきり言って苦行のような時間だったが、逃げるとそれこそ地の果てまで追ってきそうだったので俺もただじっと待つことにした。
 五分ほど過ぎた頃だろうか、原田の後ろからさらが俯きがちに歩いてきた。前髪の間から覗いていた彼女の目と視線がかち合う。さらは一度顔をあげると、控えめな微笑みを浮かべ軽い会釈をした。
「と、十乃くん……こんにちわ」
「よ、よう。奇遇だな」
 片手をあげて挨拶を返す。さらはどうして廊下の隅で俺たちが突っ立っているのか少し疑問に思ったのかやや首を傾げていたが、原田をちらりと見るとそのまま通り過ぎていった。ふぅ、と大きな溜息を漏らすと、原田がこちらを凝視していることに気が付いた。お前の答えを言え、ということなのだろう。俺はぐっと唾を飲み込み覚悟を決めた。
「――し、白だ」
「フッ、さすがは十乃……いいセンスだ。だが俺の答えは違う。白と青のしましまだ」
「な、なんだと……どうしてわかるんだ、原田!」
「真のギャンブラーは準備を欠かさない――俺の足元を見ろ」
 言われるままに目線を落とした。原田が履いている少しくたびれた革靴、そのつま先に光を放つ手の平サイズの鏡が備え付けられていた。
「これは――!」
「いつ気付かれるかと肝を冷やしたが。十乃、今回はお前の注意ぶそ――ぐふっ」
 言葉を最後まで言い終わる前に誰かが原田の懐に飛び込んできた。さらだった。原田は凄惨な表情のまま固まっていた。さらの手元に光る何かが見えたのは気のせい――だと思いたい。
「さ、さら……?」
「――十乃くんは、見ましたか?」
 ぽつりとさらが呟く。少し笑っているようにも聞こえたそれは、俺の背筋を凍らせるには十分すぎるほどの威圧感を伴っていた。俺はぶんぶんと音が鳴りそうな勢いで首を横に振った。
「そうですか。では、少し用事ができてしまったので……また」
 ぺこりと頭を垂れると、自分より大きい原田の体を肩で担ぎ上げさらは去ってゆく。原田は苦しそうな表情で俺に向かって手を伸ばしていたが見なかったことにした。グッバイ原田、お前のことは忘れない。
「しかし、鏡か」
 窓の外を見た――見知った女生徒が歩いていた。俺は口の端を持ち上げると廊下を駆け出した。

 

 


「ちょっ、ちょっと温助くん!? いきなりどうしたの、勉強教えてだなんてっ」
 慌てふためく妙子の背中を押し空き教室に入り込む。妙子は見るからに困惑していた。
「まあまあいいじゃねぇか、たまにはさっ」
「そりゃ、いいけど……大地震でも起きるんじゃないかしら」
 不安げに窓の外を眺める妙子の言葉を無視し、あらかじめセッティングしておいた向かい合わせの席の片側に座らせる。俺はその向かい側に座った。机の上には既に数学の参考書が用意してある。
「さあ、頼むぜ妙子センセー」
「うーん……まあ、やる気があるのはいいことよね。じゃあ、やりましょうか!」
 自分を納得させた妙子はこくこくと何度か首肯すると、こちらを向きにこりと笑った。心の中でガッツポーズをつくる――ここまでは予定通りだ。
「えっと、まずは微積分の――」
 妙子の注意は参考書に向いていた。俺は緩みそうになる頬を軽く叩きながら、視線をゆっくりと足元へとスライドさせた。
「しまった……」
「うん? どうしたの?」
「い、いや、なんでもない」
 舌打ちをこらえつつ、不思議そうにこちらを見る妙子に手を横に振る。妙子は何度か目を瞬いたあと、再びよくわからない数学の講義へと戻った。
 視線の先には机があった。この配置ではどう足掻いても見えるはずがない――俺は奥歯を喰いしばった。このまま何の褒美もなしによくわからない数学の講義を受け続ければ、きっと終わるころには俺は力尽きてしまっているだろう。
 こうなったら――。
 机の上に置いていた消しゴムを手で払う。小さな消しゴムは机から落ち、そのまま座席の下へと転がっていった。
「悪い妙子、消しゴム落としちまった!」
「今、私には自分で落としたように見えたんだけど……」
 怪訝そうに眉をひそめる妙子を無視し、俺は席を立ち机の下に潜り込んだ。俺は気付いてしまったのだ、鏡で見れないならば直接拝めばいいということに。妙子の足は軽く開かれている程度だったが、この至近距離ならばそれでも十分に――
「妙子テメェ、スパッツとはどういう了見だコラァ!」
 俺は憤慨して叫んでいた。即座に顎の下から妙子の革靴が急接近してくる――避けろ――無理だ――俺の意識は飛んだ。

 

 


 顎を擦りながら夕暮れの照らす寮の廊下を歩く。教室で昏倒しているうちに日が暮れてしまったらしい。
 少し休むか――そう思い自室の戸を開けると、真正面にバットを携えた疋田が仁王立ちしていた。
「あ、センパイ。探しましたよ」
 疋田は柔らかな口調で言った。目はちっとも笑っちゃいなかった。直後にすっとバットを構える。
「で、何か言い残したいことは?」
「これも夢オチってことで」
「意味がわかりません」
 的確なツッコミと共に鋭いスイングが炸裂する――俺は自分の体が綺麗な放物線を描くのを感じていた。

 

 


「あっ、さら! そろそろ晩御飯だよ、食堂行こっ!」
「あ、あの、お姉ちゃん……実は今日、お弁当作ってあるの……」
「ホント? 楽しみ~!」
「うん……いいお肉が入ったから」
 消えゆく意識の中でどこかの姉妹の声を聞いた。俺は何も知らない、知らないんだ。